第53話
帝都・洛華の政治の中枢を司る、南宮・却非殿。
朝靄の残る広い殿内には重厚な石柱が幾本も列をなし、底冷えのする冷気が石床を這うようにして容赦なく満ちてゆく。
居並ぶ百官や武将たちが身を動かすたび、甲冑の鉄片が擦れ合う鈍い音と重々しい絹衣の衣擦れが重なり合い、キンと張り詰めた空気を微かに震わせては虚空へ溶けていった。
一段高い玉座に腰を下ろす俺の身体へ、冷たく硬い石の感触が骨の髄まで染み渡る。
蜀峡平定に向けた戦略や軍糧の輸送経路を声高に論じる臣下たちの姿を、俺はただ無表情のまま、氷のような双眸で見下ろすほかなかった。
(……この者どもの下に、あの愛しい命が砕かれようとしていたのだ)
表面上は恭しく平伏し、国のため、皇帝のためだと口々に宣う渭北の重臣ども。
郭昌や謝延らの息がかかった者たちの貌を一人ひとり視線でなぞるたび、胸の奥底でどろりとした黒い殺意が凄まじい勢いで渦を巻く。
彼らが蠢く後宮という巨大な毒蜘蛛の巣のなかで、鸞は幾月もの間、火の気もない極寒の部屋でただ一人身を削らされていた。
俺を慰めるためのほんの僅かな薪と茶葉を死に物狂いで隠し持ち、極限の飢えと凍えに耐え忍んでくれていたというのか。政務の重圧から逃れるようにして俺が身を浸していたあの温もりは、彼女が自らの命を薪にして燃やし続けた、血の滲むような残り火であったと知って呼吸が止まりそうになる。
太医署の冷たい石床で抱き上げた、あの痛々しいほどに軽かった身体の感触。
指先から急速に体温が奪われてゆく恐怖と、混濁した意識の中でしがみつくように俺を呼んだ「老虎」という切絶な響きが、今なお耳の奥底へ生々しく焼き付いて離れようとしない。
皇帝としての体面や渭北派との政治的均衡などという生ぬるい打算に拘っていたがゆえに、この俺が彼女を死の淵まで追いやったも同然。
天下を手中に収めておきながらただ一人の妻すら守れぬ不甲斐なさと、激しい自責の念が臓腑を烈々と焼き尽くしてゆく。
やがて朝堂を包む議論が一段落し、ふと訪れたわずかな静寂。
俺は膝の上で固く握りしめていた手を静かに解き、硬く冷たい玉座の肘掛けへと指先を這わせた。
もう二度と、彼女を俺の目の届かぬ場所へ置き去りになどするものか。
後宮の暗黙のルールも、国法も、政治の均衡すらも――愛しい者を奪おうとするすべての障壁を、俺はこの手で力ずくで叩き潰してみせる。
冷徹な皇帝の仮面の奥底では、静かに、しかし二度と消えることのない修羅の炎が赤々と燃え上がり始めていた。
軍議が終盤へと差し掛かり、軍糧の輸送経路についての報告が不意に途切れた、その瞬間。
ゆっくりと顔を上げた俺は、朝堂の隅々まで響き渡る声で重々しく口を開く。
「――此度の蜀峡への遠征には、陰貴人、および太医令・崔粛を随伴させる」
その一言が落ちた瞬間、却非殿の時は完全に凍りつく。
水を打ったような静寂が数瞬続いた直後、蜂の巣をつついたような激しいどよめきと怒号が朝堂の重厚な石柱を大きく揺るがしていった。
「陛下、正気であらせられますか! 血生臭い戦野に女子を連れ出すなど、古の軍律に背く前代未聞の暴挙にございます!」
「左様です! 軍の紀律が乱れ、全軍に凶事を招きかねません。直ちに御撤回を!」
顔を朱に染め、猛然と反発の声を上げる郭昌ら渭北派の重臣ども。
激しく交錯する怒号と俺を非難する無数の視線が波のように押し寄せてくるものの、玉座に座る俺の心は彼らの喧騒とは裏腹に、不気味なほどの静寂と冷ややかさを保ち続けている。
(……喚け。いくらでも喚くがいい)
俺の目の届かぬこの後宮へ彼女を置き去りにすれば、お前たちは必ずあの身を孤立させ、確実に命を奪い去るに決まっている。
遠く離れた戦野の空の下、またしても時の隙間に落ちた冷たい文によって彼女の喪失を知らされる絶望など、二度と味わうものか。距離という残酷な刃でこの魂の半身を削り落とされるくらいならば、いっそ自らの手でこの胸の内に縫い付けてしまいたい。
玉座の間を震わせる臣下たちの怒声のなか、俺は一切の表情を動かすことなく、ただ絶対的な沈黙をもって彼らを見下ろしていた。
胸の奥で燃える狂気的な防衛本能は、国法や古の礼法などというちっぽけな鎖で縛れるようなものでは決してないのだ。
「陛下! 御考え直しくだされ! 蜀峡への道は険しく、血風吹き荒れる死地。そこに側室を伴うなど、将兵の士気に関わる由々しき事態にございます!」
郭昌がたまらず列を乱して歩み出、顔を真っ赤にして唾を飛ばす。
それに同調するように渭北派の官僚たちが次々と声を上げ、朝堂はふたたび怒号の渦に飲み込まれそうになった。
だが。
――カァン、と。
俺が腰に帯びた剣の柄頭を指先で鈍く弾き鳴らしたその硬質な一音が、重厚な石柱に鋭く反響した。
たったそれだけの音で、朝堂を埋め尽くしていた怒声が刃物で断ち切られたようにピタリと止む。
俺は冷たい玉座からゆっくりと立ち上がり、眼下に群がる者たちへ物理的な圧力すら伴う凄絶な殺気を放った。
「――余の決定が軍律だ。これ以上異を唱える者の首は、今この場で刎ねる」
低く、地の底を這うような声音。
それは皇帝としての理性を完全にかなぐり捨てた、血に飢えた修羅の響きに他ならない。
殿内の空気が一瞬にして凍りつき、圧倒的な暴力と権力の圧力の前に重臣たちは誰一人として二の句を継ぐことすらできず、次々と恐怖に息を呑んでは冷たい石床へと平伏していった。
軍の士気を下げ、古の礼法を破壊する愚君の振る舞いであり、国家を統べる者としてはこれ以上ない最低の愚行であることなど、誰よりも俺自身が理解している。
国法と歴史の天秤にただ一人の女をかけ、絶対的な権力を用いて無理やりに囲い込むなど、理の通らぬ狂気そのもの。
だが、それで構わない。これ以上、俺の目の届かぬ毒の檻で彼女が傷つけられ、無残に削られてゆく様を見過ごすぐらいなら、俺は喜んで天下の暴君へと堕ちてみせよう。
(――お前たちは知らなくていい。彼女は、俺の命そのものなのだと)
胸の内でその言葉を奥歯で噛み殺し、俺はただ狂信的な執着の炎を瞳の奥底で赤々と燃やし続ける。
世界を敵に回し、皇帝としての矜持を泥に沈めてでも、あの痛々しいほどに軽い命だけは絶対にこの腕の中へ縛り付けてみせる。引き剥がそうとする者がいればその手を斬り落とし、すべてを奪い尽くしてでも彼女を己の支配下に置き去りたいという、黒く甘い熱だけが五臓六腑を焦がしていた。
◆◇◆
半月余りの刻を費やし、膨大な軍糧の確保と兵馬の検分を叩き込むように終えた後、洛華の巨大な城門が重々しい地響きを立てて開け放たれる。
大地を揺るがす幾万の軍靴の響きと、荒々しい馬の嘶き。
蜀峡の靖都へ向けて出立した遠征軍が分厚い土埃を巻き上げて進み始めれば、吹き抜ける戦野の乾いた風が冷たい鉄と革の匂いを運んでくる。後宮に澱んでいたあの息が詰まるような香料や獣脂の不快な匂いは、もはや微塵も感じられない。
馬上に跨る俺は強く手綱を引き絞り、ふと背後を振り返る。
幾万の軍勢のただ中――最も安全な中央の陣に配置され、最強の近衛兵たちに何重にも囲護された一台の馬車。分厚い天鵞絨の幌で完全に覆い隠されたその最奥に、俺の最愛の妻である鸞が確かに息づいているのだ。
陣列の端から「血生臭い戦場に側室を伴うなど凶事だ」という兵士たちの不穏な囁きが微かに風に乗って聞こえてこようとも、今の俺にはどうでもいいこと。
むしろ、幾万の刃と鉄壁の陣形が外界のすべてを遮断するこの血生臭い死地こそが、彼女を後宮の毒牙から永遠に隔離する、たった一つの無菌の揺り籠なのである。
これでもう、誰にも彼女を傷つけさせることはない。
天下の目を欺き、強引に軍律を捻じ曲げてでも、彼女を完全に己の視界と支配の内に置き去った。その事実が俺の胸の奥を昏く、強烈な充足感とともに甘く痺れさせてゆく。
かつて晶陵で共に過ごした、ささやかで幸福な記憶。
あの純粋な繋がりを取り戻すための場所が、あろうことか死と隣り合わせの戦場であるという歪な事実に、俺は思わず口角を上げて微かに弧を描く。
乾いた土埃の向こうに広がる果てしない荒野を見据えながら、己の胸に満ちていくのは、誰の目も届かぬ陣幕の奥深くで彼女をこの腕に閉じ込め、ひたすらに甘やかして愛し尽くしたいという熱烈な期待のみ。
血風吹き荒れる戦地で繰り広げられる、ただ一人を独占するための狂おしい逃避行が、いま幕を開けようとしていた。
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