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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第52話

鼻腔を突く生温かい鉄の匂いと、己の指先にこびりついた冷たい血の感触が、幾度も強烈な吐き気を呼び起こす。


大広間の狂騒を背後に置き去りにして太医署へと滑り込んだ俺の腕の中に残されているのは、痛々しいほどに軽い質量のみ。白梅色の絹衣を黒赤く汚した鸞の身体は抱き上げるたびに羽毛のように儚く、それゆえに俺の胸へ絶望的な重圧をかけてきた。


静寂の支配する薄暗い薬房の空気は、後宮に渦巻く獣脂や香油の悪臭を冷酷なまでに拒絶している。その空間を漂うのは、清冽な緑茶と乾燥した煎じ薬の静かな香りだけであった。




「……陛下、こちらへ」




影のように音もなく現れた崔粛は、淀みのない所作で鸞の細い手首を取り、そっと指先を這わせた。


去勢されたその孤高の身体から放たれる、一切の動揺を排した冷徹なまでの静謐さ。白銀の鍼が未明の薄闇に微かな光の軌跡を描き出し、彼女の青白い肌の奥へ吸い込まれるように沈んでゆく。


その淀みない処置をただ見つめることしかできず、俺の臓腑は素手で直接握り潰されるような痛みに激しく悶えていた。


天下を統べる皇帝でありながらただ一人の愛する妻すら守れず、あろうことか死の深淵へと追いやったという事実。この穢れた檻に彼女を無理やり縛りつけた己の傲慢さと無力さへの悔恨が、どす黒い血の塊となって喉の奥にせり上がってくる。




(……崔粛……)




心の中でその名を反芻した瞬間、胸の奥底から醜悪で黒い焦燥が湧き上がるのをどうしても止められない。


この男の「粛」という響きが俺の耳を打つたび、深く胸が軋むのだ。かつて俺が最も尊敬し、生涯の規範として仰ぎ見ながらもその背中を追うことすら叶わぬまま失った亡き父・劉粛。その最も高潔な名前と同じ響きを持つ男が、今、俺の目の前にいる。


武力や権力という濁った力では決して救えぬ彼女の命が、いま、この去勢された医官の細い指先にすべて委ねられている。皇帝である俺がどれほど血の涙を流そうとも踏み込めぬ、命の境界線――その内側において、この男だけが彼女へ絶対的な平穏の聖域を与えているという現実が、重く圧しかかってきた。


手のひらにへばりつく血の生温かさと、白銀の鍼が弾くかすかな光。その対比が、己の不甲斐なさに対する決定的な敗北感となって深々と突き刺さる。


理性の光ではこれを理不尽な嫉妬だと理解していながらも、彼女を救うその確かな指先から、俺は嫉妬に濡れた目を逸らすことができずにいた。


細い白銀の鍼がいくつも打たれるうち、薬房を支配していた息詰まるような緊張がかすかに緩み始める。


荒く乱れていた鸞の呼吸が次第に凪いでいき、夥しい血を吐き出していた白梅色の唇から、かすかで静かな息遣いが戻ってきた。




「……命の火は繋ぎ止めました。毒の回りは遅く、芯までは届いておりません」




静寂に響くのは、崔粛の淡々とした声。


一命を取り留めたという事実を聞いた瞬間、胸の奥を締め付けていた重圧が不意に抜け落ち、俺は膝からその場へ崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。押し寄せた安堵の波に視界が激しく歪み、握りしめた拳の掌に自らの爪が深く食い込んでゆく。


だが、安らかな眠りに落ちた彼女の傍らで、崔粛が事もなげにその袖を捲り、細く青白い手首へと再び指先を這わせた瞬間。俺の胸の奥で、黒くどろりとした感情が鎌首をもたげた。


ためらいもなく彼女の肌に触れ、細やかに脈を診る指先は、後宮の毒気や濁った欲望とは一切無縁の静謐そのもの。


去勢された孤高の医官である彼にとって、俺の最愛の女はただの救うべき患者に過ぎないのだと、頭では痛いほど分かっている。それなのに俺の手は醜い嫉妬に震え、その指先を力ずくで引きはがしたくなる狂わしい衝動に駆られていた。




(――俺が与えたのは、後宮という過酷な檻と、血と泥の毒だけだ)




自嘲の刃が、己の胸を深く無慈悲に切り裂いてゆく。


天下を統べる皇帝でありながら、俺の伸ばす手は彼女を傷つけ、血を吐かせることしかできなかったというのに。亡き父と同じ名を持つこの男の指先は、俺の決して届かぬ冷たい静域において、彼女の命を確かに救い上げている。


濁った権力しか持たぬ俺にはどうしても与えてやれなかった、ただ息を吸い、ただ穏やかに横たわることのできる安全な褥。


それを他の男が当然のように提供しているという現実に、喉の奥が焦げ付くような敗北感と理不尽な焦燥が激しく渦巻いてゆく。感情を交えず黙々と薬の調合へと戻る崔粛の背中を、俺はただ血の滲むような思いで見つめ続けるほかなかった。


やがて崔粛がさらなる薬草を煎じるために静かに薬房の奥へと退くと、室内には再び深い静寂が降りてくる。


窓の隙間から差し込むかすかな月明かりだけが血に染まった俺の龍袍を冷ややかに照らし出し、寝台の脇に直立する影を壁に長く引き延ばす。


天下を手中に収めながら、この小さな命一つ守れなかった己の傲慢さが、冷たい泥のように五臓六腑を重く満たしていった。




――その時だった。




「……ん……っ……」




微かな、本当に微かな衣擦れの音とともに、鸞のひび割れた唇が小さく戦慄く。


毒の熱に浮かされ、生死の境の暗闇を彷徨っているのだろう。長い睫毛が細かく震え、白粉の剥げた青白い額には苦悶の汗が滲んでいる。




「……らお……ふ……っ……たすけ……て……」




途切れ途切れに漏れ出たその響きが鼓膜を震わせた瞬間、俺の脳髄に激しい衝撃が走った。




――老虎。




それは、あの瑞々しい晶陵の陽だまりのなか、ただ二人きりの約束を交わしていた頃に彼女が俺を呼んでいた愛称であった。


洛華で再会した日から、彼女は分厚く冷たい氷の壁を胸の内に築き上げ、決して俺をその名で呼ぼうとはしなかった。この洛華の後宮でどれほど毎夜その隣に横たわろうとも、触れることすら許されぬ絶望的な距離が、常に二人を隔てていたというのに。


それにもかかわらず、意識の混濁した死の深淵において、彼女が必死にその手を伸ばし、助けを求めて叫んだ名は――皇帝としての俺ではなく、あの頃の、彼女だけの「老虎」であったのだ。




どんなに過酷な仕打ちを受け、理不尽な檻に閉じ込められようとも。彼女の魂の最深部には、俺への純粋な愛が傷一つなく手付かずのまま残されていた。


そのあまりにも痛ましいほどの純真さに、俺の胸は激しく打ちのめされる。




「……鸞……っ!」




皇帝としての仮面も矜持もすべて投げ捨てて、俺は引き摺るようにして寝台の傍らへ膝をついた。


彼女の燃えるように熱い、しかし折れてしまいそうなほどに細く震える小さな両手を、大きな掌で壊れ物を扱うようにそっと包み込む。そのまま彼女の手の甲に額を強く押し当て、声にならない慟哭を喉の奥で噛み締めた。


閉ざされた彼女の目尻から、一筋の熱い涙が静かに流れ落ちて枕を濡らしてゆく。


狂おしいほどの情念に駆られた俺は、彼女の手の甲を濡らすその涙を、そして目尻から零れ落ちる残り火のような雫を、自らの唇で吸い取るように深く、切実に口づけた。




「すまない……すまない、鸞。俺が愚かだった。お前をこんな地獄に引き摺り込んで……」




奥歯を噛み締め、音を殺して流す熱い涙が、俺の頬を伝って彼女の指先を濡らしてゆく。


もう二度とお前を離しはしない。この命に代えても、お前を傷つけるすべての悪意から守り抜いてみせる。


血の滲むような悔恨と、心の底から湧き上がる狂気的なまでの執着の炎。それが、絶対零度であったはずの俺の心を烈々と焼き尽くしていく。




やがて夜の闇が白み始め、太医署の窓から差し込む冷たい朝の光が、眠りについた鸞の青白い横顔を照らし出す。


毒の熱は引き、その細い胸は静かな寝息とともに規則正しく上下していた。俺は彼女の冷え切った指先を己の掌で温めながら、ただ無言でその儚い命の残り火を見守り続ける。


――その時、背後の扉が乱暴に開かれ、夜着のままの鸞付きの侍女が転がり込むようにして薬房へ駆け込んでくる。




「陰貴人様……っ! ああ、陰貴人様……っ!」




主人の凄惨な姿を目の当たりにした彼女は、その場に泣き崩れ、床に額を擦りつけながら声を上げてのたうち回った。そうして探していた主の姿に縋りつき、これまで鸞が俺にひた隠しにしてきた凄絶な真実を吐き出し始める。




「陛下、どうか……どうかお助けください! 大長秋の兵糧攻めで、陰貴人様の宮にはもう長らく、一本の薪も、まともな茶葉すら残されておりませんでした……っ」




「……何だと?」




俺の低くかすれた問いかけに、柳婉は血を吐くような悲痛な声で言葉を紡いだ。




「陰貴人様は、『夜にいらっしゃる陛下を少しでも温め、お慰めしなければ』と……配給された僅かな物資を、すべて陛下のご訪問のためだけに隠し持っておられたのです! ご自身は日中、火の気もない極寒の部屋で、飢えと凍えに身を削りながら、ただひたすらに耐え忍んでおいででした……。ご政務でお疲れの陛下の安息を壊してはならないと、決して弱音を吐くことも嫌って……っ!」




――その言葉が鼓膜を打った瞬間、俺の全身の血が音を立てて凍りついた。




俺が毎夜、激務から逃げ込むようにして浸っていたあの宮の温もりは。


俺の心身を癒やしてくれていたあのささやかな火の気と、一杯の薄い茶は。


彼女が自らの命の炎を削り、血肉を燃やして俺に捧げてくれていた、凄絶な犠牲の灰であったというのか。


胃の腑の底から、取り返しのつかない戦慄と、どす黒い怒りが凄まじい勢いで沸騰し始める。


愛する女が、己の政治的体面と後宮の暗黙のルールのせいでここまで残酷に肉体を食い破られていたという事実。この洛華という都は、後宮という檻は、彼女をじわじわと殺す巨大な毒蜘蛛の巣でしかなかったのだ。


悲哀と悔恨で満ちていた俺の胸の奥底で、かつて晋陽の血みどろの戦野で絶望を駆け抜けた時の、冷酷な修羅の血がどろりと目覚めてゆく。


ゆっくりと立ち上がり、白々しい夜明けの光のなかで、いまだ目を覚まさない最愛の妻を見下ろした。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


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また明日19:00にお会いしましょう!

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