第51話
喧騒が響き渡る大広間の高座で、俺はひどく退屈な心地で杯を傾けていた。
郭皇后が産んだ次男と、謝美人が産んだ長女。数人の我が子の誕生を祝う壮麗な宴だというのに、俺の胸の内に湧き上がるのは血の滲むような愛着などでは断じてない。ただ「これで皇統維持の義務が一つ果たされた」という、冷徹な政治的安堵の計算に過ぎなかった。
渭北の重臣どもが己の権勢を誇示するように大声を張り上げ、脂ぎった肉を喰らう様を、俺は龍の刺繍を施された玄衣の奥でただ氷のように冷たく見下ろす。
この空虚な祝宴の場で俺の視線が唯一向かうのは、末席の暗がりにひっそりと息を潜める一人の側室――鸞の姿だけであった。
白粉でも隠しきれない彼女の青白い顔色に、胸の奥がキリキリと音を立てて軋む。
かつて晶陵で過ごしたあの瑞々しい生活の最中には、手を伸ばせばいつでも触れられるすぐ隣に彼女がいた。あの温かい光に満ちた日々から、一体どれほど遠い場所へ彼女を追いやることになってしまったのかという痛切な悔恨が、俺の五臓六腑を泥のように汚してゆく。
他宮での義務を終えた後、たとえどれほど深く身体を清めようとも、政治の泥に塗れた己への嫌悪は決して消えはしない。それでも毎夜、ただ一人の本物の妻である彼女の元へ帰る。一線を越えない清い結婚の密約のままにただ彼女の隣で横になること――それだけが、この激務のなかで俺が正気を保ち、心から寛げる唯一の聖域であり、夫としてできるすべてのことであったからだ。
それなのに、いまこの距離がこれほどまでに遠く、冷たく感じられるのは何故か。
その時――俺の思考の糸を断ち切るように、末席で微かな物音がした。
驚いて目を凝らした瞬間、俺の心臓は文字通り凍りつく。
鸞が両手で口元を押さえたまま、糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちてゆく。白梅色の美しい絹衣へ、彼女の指の隙間からどくどくと溢れ出た鮮血が、見る間に赤黒いシミを広げていくのが見えた。
(――鸞っ……!?)
全身の血が逆流し、視界が真っ赤に染まった。
玉座の肘掛けを握りしめた拳からメキメキと骨の軋む音が響き、爪が皮膚を突き破って血が滴り落ちる。直ちに駆け下り、その細い身体を抱きしめたいという狂乱が俺を激しく突き抜けた。
だが、噛み破った唇から滲む鉄の味が、暴走しかけた俺の意識を冷酷なまでに引き戻す。いまここで皇帝としての仮面を剥ぎ取って取り乱せば、群臣どもに「この側室こそが俺の命綱だ」と知らしめ、死線の淵にある彼女をさらなる毒の渦へ叩き落とすことになってしまうだろう。
愛するがゆえに、絶対にこの弱点を悟られてはならない。
俺は湧き上がる咆哮を喉の奥へ封じ込め、胸のなかの激情を一瞬にして冷徹な氷壁の奥へと叩き落とした。
「――耿敦、即座に大広間の全門を封鎖せよ。一歩たりとも人を出すな。近衛兵は膳部の宦官と給仕をすべて捕縛し、医官を呼べ」
広間に響き渡ったのは、我が耳を疑うほどに低く透き通った、完璧な君主の声音であった。
動揺の一片すら見せぬその冷徹な姿は、まさに天下を統べる非情な龍そのもの。
だが。
玉座からの階段を降り、血溜まりのなかに横たわる最愛の妻へと向かう俺の足取りだけは、千の鉛を括り付けられたかのように重く、激しく覚束ない。
声は氷のように完璧でありながら、足元だけが現実の絶望を拒絶するように悲鳴を上げ、制御を失って震えていた。感情を殺した鉄面皮の奥底で、俺の魂は致命的な音を立てて完全に崩壊していたのである。
大広間に満ちる悲鳴と喧騒を完全に遮断し、俺は鉄面皮のまま歩みを進めた。
一歩、また一歩と血溜まりへ近づくたび、重厚な玄衣の裾が冷たい石床を擦る。感情を鉄の檻に閉じ込めたはずの胸の奥で、心臓だけが狂ったように早鐘を打ち、肺腑が焼き切れるほどの焦燥を訴えかけていた。
床に伏した鸞の身体を、俺はただ無言で抱き上げる。
腕の中に収まったその質量は、最後に晶陵の陽だまりのなかで抱きしめた時とは比べものにならないほど、痛々しいまでに軽くなっていた。
己の龍袍にじわりと染み込んでくる血の生温かさを皮膚が感知した瞬間、凍結させたはずの心の底から、獣の咆哮のような絶望がせり上がってくる。
(――なぜ気づかなかった。お前がこれほどまでに削られ、こんな汚泥の底で命を懸けて俺を待っていたというのに……っ!)
周囲の重臣どもの刺すような視線が背中に集中しているのを感じるが、いまの俺には一瞥をくれる価値すら残されてはいない。
ただ前だけを見据え、俺は乱れのない鉄の足取りを装いながら、彼女の軽い身体を抱えて大広間を後にした。凍てつく回廊を急ぎ足で進むにつれ、腕のなかの温もりが刻一刻と零れ落ちていく恐怖に、喉の奥が引き裂かれそうになる。
暗い回廊を抜け、太医署の重い扉を蹴り開けるようにして踏み込む。
室内に漂う緑茶と煎じ薬の清冽で静寂な香りが、血の匂いに塗れた俺の嗅覚を冷酷に覚まさせていった。
「……陛下」
かすかな衣擦れの音とともに、薄暗い薬房の奥から、静寂を纏った太医令・崔粛が姿を現した。
死の深淵へと引きずり込まれようとしている鸞の命の火を前にして、去勢された孤高の医官は一切の動揺を見せることなく、ただ静かに白銀の鍼を指先に構えたのだった。
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