第49話
吐く息が白く淀む昼下がりの居室において、私はひんやりとした青銅の鏡と向き合っている。
磨き上げられた鏡面に映し出されているのは、雪のように白く、血の気を失って頬のこけた女の貌。指先まで凍りつきそうな冷気のなかで震える手で筆を執り、わずかな紅を頬と唇に差して、青白く沈んだ皮膚の色を必死に塗り隠してゆく。
身体を動かすたびに、骨の芯から鉛のような鈍い疲弊が軋みを上げた。今、私の命をかろうじて繋ぎ止めているのは、今朝、彼の方と共に口にした温かな朝食のわずかな熱量だけであった。
部屋の隅にある炉に、火の気は一切ない。大長秋・賈謐らの手によって極限まで削られた薪とわずかな上茶は、私一人が過ごす日中のためには決して使わないと心に決めていた。
それはすべて、夜の帳が降りた後、政務と泥に塗れた後宮のしがらみに擦り切れ、逃げ帰るようにしてこの宮を訪れる彼の方を、少しでも温め癒やすためだけに守り抜かなければならないものなのだから。
彼は、私が紅で隠しきれない青白さに気づくたび、胸をえぐられるように深く眉をひそめられる。
意図的な配給止めによる飢えと寒さなど知る由もなく、陰湿な後宮の空気が私の心を削っているのだと案じるその瞳に滲むのは、いつも痛々しいほどの自責の色。だからこそ、どれほど政務に疲れ果てていようとも、私を慰めようと毎夜欠かさずこの宮へと足を運んでくださるのだろう。
彼の方が私を案じてくださるからこそ夜に訪れ、私が激務から逃れてくる陛下の安息を守りたいと願うからこそ、昼間の極寒と飢えに耐える。互いの不器用な献身が暗い後宮の底で残酷なほどにすれ違っていることを、私はただ静かに噛み締めることしかできない。
――その時、張り詰めた静寂を破るように、回廊から慌ただしい衣擦れの音と足音が近づいてきた。
侍女の足取りではない。真っ直ぐに、迷うことなく私の居室へと向かってくる確かな響きに、冷え切っていた私の胸の奥が、微かな火種を得たかのように小さく温まった。
勢いよく扉が開かれ、冬の薄日を背負って一人の女性が飛び込んでくる。
豪華な金糸の刺繍が施された、長公主としての華やかな装束。だが、その絹の衣の下にある素顔は、かつて南苑州の晶陵で共に机を並べていた頃と少しも変わってはいなかった。
「――小鸞!」
私を呼ぶその声に、強張っていた肩の力がわずかに抜けてゆく。
駆け寄ってきた義妹――劉寧からは、誠実な伴侶にただ一人の妻として深く愛され、大切に守られている者だけが纏うことのできる、柔らかな陽だまりの匂いが漂っていた。
かつて私たちが共に夢見た「一夫一婦」というささやかな誓約。それを違えることなく叶え、まばゆい光の中にいる彼女の存在は、覇道の影で一介の側室へと零れ落ちた私の冷え切った境遇を、残酷なまでに際立たせる。
けれど、私を気遣うように見つめるその真っ直ぐで純粋な瞳だけは、昔から何一つ変わっていなかった。
私は鉛のように重い身体へ気丈に鞭を打ち、かすかに震える膝をどうにか立ち上がらせて、久しぶりに訪れた愛しい家族に向かい、精一杯の穏やかな微笑みを浮かべてみせる。
「さあ、掛けてちょうだい。移動で、疲れたでしょう」
できる限り明るい声を取り繕い、卓の向こうへと彼女を促す。震えそうになる指先を袖口へ深く隠しながら、先ほど柳婉がどうにか沸かしてくれた湯を茶杯に注いだ。
本来ならば香り高い花茶を振る舞うべきだが、残された僅かな茶葉は、夜に訪れる彼の方を癒やすために決して手をつけるわけにはいかないのだ。
白湯に等しいほど薄く、湯気すらろくに立たない粗末な茶杯を、私は静かに彼女の前へと差し出した。
「……小鸞」
茶杯を受け取ろうと手を伸ばした寧児の動きが、ふと止まる。
彼女の視線が、私の差し出した薄い袖口から覗く、血の気を失った青白い指先に釘付けになっていた。そうしてゆっくりと周囲を見渡せば、赤々と燃えるはずの炉には灰しかなく、吐き出す自らの息が白く濁るほどの異常な室温。差し出されたのは、色も香りもない冷めかけた茶。
再会の喜びに弾けていた彼女の純粋な表情がみるみるうちに強張り、血の気が引いていくのがはっきりと見て取れた。
「……これは、どういうことですか。いくらなんでも、部屋が冷えすぎよ。それに、このお茶……」
「少し風が冷たいだけよ。私はこれくらい張り詰めた空気の方が、頭が冴えて好きなの」
己の惨状を悟られまいと、陰家の娘としての誇りを静かに胸の底へ押し込め、私はただ穏やかな微笑みを浮かべてみせる。
「皆、私にはとても良くしてくれているわ。だから寧児、心配はいらないのよ」
「嘘よ!」
弾かれたように声を上げた寧児の大きな瞳が、みるみるうちに水気を帯びて潤んでゆく。
「兄上は……陛下は、何をしているのですか!? 貴女を誰よりも愛しているはずの兄上が、なぜ貴女をこんな凍えるような場所に……っ、私が今すぐ、兄上に抗議を――」
「駄目よ、寧児!」
私は思わず身を乗り出し、立ち上がろうとした彼女を強い声で制した。
「……お願い。陛下にだけは、決して言わないで」
息を呑む寧児に向け、私はすがるように口角を上げる。
誠実な夫に愛され、温かな家庭に守られている親友にだけは、嫉妬と権力闘争に塗れたこの後宮の汚濁を見せたくはない。かつての義姉としても、彼女の信じる美しい世界を少しでも守りたかった。
「陛下は、お疲れなの。日々、国のために身を削り、泥に塗れて戦っておられる。だから……後宮の些細な事で、彼の方の心をこれ以上煩わせたくないのよ」
それは、私がこの冷たい檻の中で生きるための、唯一の誇りであった。
私の声を聞いた寧児は、金糸の刺繍された絹衣の膝の上で、両手をきつく握りしめる。その肩は、行き場のない激しい感情に小刻みに震え始めていた。
「小鸞……っ、どうして、貴女ばかりが……っ」
絞り出すような悲痛な声とともに、彼女は身を乗り出し、卓の上に置かれていた私の手を両手で強く包み込んだ。
正妻として守り抜かれた者の、温かく柔らかな手。だが、私の痩せ細り、骨張った冷たい指先を握りしめるその力は、すがりつくように痛いほど強い。
ぽつり、と。私の手の甲に、火傷しそうなほど熱い滴が落ちた。
驚いて顔を上げれば、寧児の瞳から大粒の涙が次々と溢れ落ちている。
「私ばかりが、あの温かな家の中で夫に深く愛され、我が子をこの胸に抱きしめて……っ。本来ならば、そのまばゆい幸福のすべては、誰よりも早く兄上と確かな誓いを交わした、貴女の腕の中にこそあるべきだったのに……!」
己の満たされた境遇を激しく呪うかのように、彼女は私の手を握る指にさらに強い力を込める。
一介の側室へと零れ落ちたこの私の惨めさを、彼女はまるで我が身を裂かれたかのように嘆き、子どものようにしゃくり上げていた。
権力闘争も派閥の濁りも一切存在しなかった、かつての晶陵の春の陽光。その清らかな光をそのまま宿したような澄み切った涙が、冷え切った私の指先をじわじわと温めてゆく。
「寧児……泣かないで。私は……」
「どんな粗末な衣を着ていようと、どんな冷たい檻に閉じ込められようとも……っ。私にとってのお義姉様は、今も昔も、貴女だけです……!」
真っ直ぐな真実の言葉が鼓膜を震わせた瞬間、私の胸の奥で限界まで張り詰めていた絹糸が、プツリと音を立てて切れた。
後宮の悪意から夫を守るため、三徳の戒律を盾にして必死に築き上げてきた私の気高き虚勢が、春の雪解けのように崩れ落ちてゆく。
「……寧児……っ」
気づけば私の瞳からも、とめどなく熱いものが溢れ出していた。
包み込まれた手を解き、今度は私から彼女の震える背へと腕を回す。豪奢な金糸の衣越しに伝わってくる、力強くて確かな命の鼓動。互いの痛みを分け合うように、私たちは冷え切った薄暗い客間の中で、ただ固く抱き合って涙を流し続けた。
天下を統べる陛下の強大な権力でも、夜闇に紛れて訪れる不器用な情愛でも、決して届くことのなかった私の魂の底。氷のように凍てついていた私の孤独を、同じ過去を知る妹からの純粋で無償の愛情だけが、確かに溶かしてくれたのである。
◆◇◆
やがて寧児が宮を去った後、薄暗い居室には彼女が残していってくれた温かな余韻だけが、微かな陽だまりのように漂っていた。
張り詰めていた心が解け、魂の渇きは確かに満たされたものの、感情を激しく揺さぶり、涙を流した代償は、限界を迎えていた私の肉体にとってあまりにも大きいものであった。
ふいに、視界がぐらりと大きく傾く。
霞んでゆく視界の中で、遠くから、微かな音色が鼓膜を揺らす。
それは、後宮の奥深く――皇后宮の方角から風に乗って流れてくる、華やかで、ひどく不気味な雅楽の響き。数日後に迫った次なる祝宴に向け、渭北の者たちが準備を進めている音であった。
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