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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第48話

吐き出す息が白い霧となって、薄暗い居室の冷気へとゆっくり溶けてゆく。


帝都・洛華(らくか)に押し寄せた冬の猛威は、石造りの後宮を容赦なく内側から凍てつかせていた。指先で刺繍糸を手繰り寄せようとするたび、かじかんだ皮膚がひきつって痛烈な乾燥が走り、白粉のいらない真っ白な肌は寒さのせいで血の気を失い、爪の先までが痛々しく紫に沈んでいる。


室内の隅に据えられた銅製の炉を覗き込んだところで、そこに赤々と燃える炭の火種などありはしない。残されているのは、煤けた灰の底にわずかに埋もれた、指先ほどの小さな消し炭だけであった。


後宮を牛耳る大長秋(だいちょうしゅう)・賈謐(カ ヒツ)の手が回り、この宮への配給が滞り始めてからすでに半月が経とうとしている。

上質な無煙炭は言うに及ばず、日々の暖を取るための薪や湯を沸かすための木炭までもが、「後宮の側室が増えたため、皆で分け合って我慢してもらっている」という建前の下、極端に減らされていたのである。




「――陰貴人様、これ以上は黙っていられません!」




薄い絹衣を幾重にも重ねて寒さに身をすくめながら入ってきた侍女の柳婉(リュウ エン)が、我慢の限界といった様子で震える声を上げた。手に持った盆の上に乗せられているのは、湯気すら立たない冷めきった根菜の薄切りと、すっかり冷え切った湯の茶器のみ。




「大長秋の陰湿な配給止めは増すばかりです。側室が増えたから皆で我慢をなどと宣いながら、皇后様や謝美人(しゃびじん)の宮には山のような炭が運び込まれているというのに、こちらの配給ばかりを極端に削り取るなど……! どうか、陛下へお直訴なさってくださいませ。陛下がお知りになれば、即座にあのような者たちを罰してくださいます!」




憤りに肩を震わせる柳婉の言葉を、私は静かに首を振って遮る。

かじかむ手で冷えた茶杯を包み込み、微かな陶器の冷たさを掌でなぞりながら思い起こすのは、耳の奥に蘇る亡き父の静かな声。決して驕らず水面下でひっそりと徳を積むようにという、幼き日に骨の髄まで刻み込まれた三徳の教えであった。


いま、私が寒さに堪えかねて声を上げれば、後宮の女たちは待ってましたとばかりにそれを「側室の増長」や「嫉妬による言いがかり」として糾弾するに違いない。何より、渭北(いほく)の重臣たちとの危ういバランスの上で血を吐くような思いで国を治めている陛下に、後宮の些細な配給の不始末などという負担をかけるわけにはいかないのだ。




「良いのです、柳婉。ここで私が声を上げ、陛下が私に味方をすれば、渭北の者たちに付け入る隙を与えてしまいます。後宮での不始末に乗じて政の盤面を揺るがすことなど、決してあってはならないのですよ。私はここで静かに息を潜めていれば、それで良いのです」




「ですが、陰貴人様……! このままでは、お身体が持ちません!」




「大丈夫です。少し寒いだけのこと。あなたにまで辛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさいね」




私はそっと視線を落とし、炉の底に眠る最後の一欠片の炭を見つめた。




「……あの火種さえ残しておけば、今夜、陛下がお見えになった時に温かなお茶をお出しできますもの。残りの炭は、あなたが自室へ戻った時に使いなさい。これ以上、あなたにまで辛い思いをさせるわけにはいかないわ」




「貴人様……っ」




柳婉が涙ぐむのを優しく制しながら、私は静かに忍耐の誓いを胸に刻み込んだ。

どれほど手足が凍えようとも、陛下の前では変わらぬ温もりと穏やかな笑みで出迎えたい。政務と冷たい義務の遂行に疲れ果てて帰ってくる陛下にとって、せめてこの宮が最後の安息の地であるようにと祈りながら、冷え切った指先を袖の中に深く隠す。




そうして守り抜いた火種に静かに息を吹きかけるうちに夜の帳が降りると、石造りの居室は一層の過酷な底冷えに包まれてゆく。

足元から這い上がってくる氷のような冷気に奥歯がガタガタと鳴りそうになるのを、私は必死に噛み締めてこらえていた。薄い絹衣を幾重にも重ねた上で平常と変わらぬ紅梅色の衣を整え、袖の奥で凍りついた指先をそっと握りしめる。


夜半過ぎ、重々しい扉が静かに開き、冷たい夜風とともに陛下が足を踏み入れられた。


他の妃嬪の宮での冷酷な務めを終え、逃げ帰るようにしてこの場所へと辿り着かれた陛下の背中は、天下を統べる皇帝とは思えぬほどに重く、疲弊しきっている。鼻腔をかすめた微かな安息香の残り香が、陛下が外でどれほどの苦痛と自己嫌悪に耐えてこられたのかを無言で物語っていた。




「……陛下、お疲れ様でございました」




私は全身の震えを意志の力で封じ込め、平然と、そして何よりも穏やかな微笑みを浮かべて頭を垂れる。

昼間から守り抜いてきた最後の一欠片の炭を熾し、沸かしたての湯で淹れた花茶を陛下のもとへと運べば、白磁の縁から頼りなく立ち上る湯気が張り詰めた冬の空気をかすかに揺らした。鼻腔をくすぐる清廉な香りはかつて晶陵(しょうりょう)の陽だまりで共に過ごした穏やかな時間を呼び起こし、底冷えのする暗い部屋にほんのわずかな熱を運んでくれる。




「……あぁ、鸞(ルァン)……」




陛下は何も言わず、差し出された茶杯を両手で包み込むようにして受け取られた。剣だこの残る大きな手が陶器の熱にすがりつくように震え、深く長い溜息がその唇から漏れ出る。

室内の異常な冷気に気付かれぬよう、私はあえて炭火の微かな熱が残る炉の傍へと陛下を導き、自らは少し離れた薄闇の中へ佇んだ。白粉のいらない私の肌が寒さで青白く凍てついていることも、炭の絶えた灰の惨状も、このほのかな灯火の陰に隠してしまえば疲弊しきった陛下の目には届かないはずだ。




(――これで良い。気付かれてはならないの)




胸の奥で、静かに自らに言い聞かせる。

もしここで私が寒さを訴え、賈謐らの横暴を口にすれば、陛下は即座に彼らを処罰なさるだろう。だがそれはただでさえ危うい渭北派との政治的均衡を崩し、陛下をさらなる窮地へと追い込むことに他ならない。

この冷たさと忍耐はここに残ると決めた私が背負うべき代償であり、陛下が公務と後宮の危ういバランスのなかで息継ぎをできる安息の場所を守り抜くことこそが、私にできる唯一の戦いなのだから。


私は凍える指先を袖の奥へ固く握り込み、ただ口角を上げて穏やかな表情を取り繕う。疲弊しきった陛下の前では一切の寒さも不満も封じ込め、静かな微笑みだけを貼り付けたまま、氷のように冷え切った寝具へと身を沈めていった。


だが、陛下の力強い腕が私の肩を抱き寄せ、その広い胸へと引き込まれた瞬間――陛下の動きが不自然に硬直する。




「……鸞? なぜ、こんなに冷たい……?」




闇夜に響いたのは、息を呑むような驚きと微かな焦燥を帯びた低い声であった。

私の肌は陛下の燃えるような体温に触れたことで、己の異常な冷たさを残酷なほどに際立たせてしまっていたのだ。




「夜風が、少し強かっただけです……」




私は震えそうになる声を必死に押さえ込み、暗闇の中で精一杯の嘘をこぼす。

これ以上追及されれば声の震えで室内の異常な寒さを悟られてしまうかもしれないという焦りから心臓が早鐘を打つなか、陛下はそれ以上何も問いただそうとはしなかった。


ただ、無言のまま寝台の脇に脱ぎ捨ててあった分厚い龍袍(りゅうほう)を引き寄せると、それを大きく広げてみせる。

次の瞬間、重厚な絹の衣が天幕のように覆い被さり、私の小さな身体は陛下の大きな体躯ごとすっぽりとその温もりの中へ引き入れられていた。




「へ、陛下……っ」




驚く私の頭を大きな掌が不器用に撫で、逃がさないとばかりに強く抱きすくめてくる。

幾重にも金糸が刺繍された龍袍の圧倒的な重みと、布越しではない、直接肌と肌から伝わってくる火傷しそうなほどの絶対的な熱。


凍えきっていた皮膚が、陛下の命の熱に触れてジンジンと痛む。

耳を寄せた広い胸からは、力強く脈打つ心音――命の鼓動が、トクン、ドクンと私の鼓膜を優しく、そして力強く打っていた。


言葉による甘い囁きなどないものの、ただ己の体温を分け与えるように私を包み込んでくれる猛虎の不器用で切実な庇護。

この閉ざされた氷の檻の中で、自らの命を削ってでも私を温めようとする陛下の熱情が、凍りついていた私の心を芯から溶かしてゆく。




(――あぁ、この温もりだけで、私はどれほどの冬を越えられるだろう)




私はこれ以上陛下を心配させまいと、こみ上げる熱い涙を必死に堪えながら、その火のような命の律動にそっと身を委ねて静かに目を閉じた。




◆◇◆




翌朝、窓格子から射し込む白々とした冬の光が、冷え切った寝所を無慈悲に照らし出している。


陛下が南宮での執政へ向かわれた後、残された居室には先ほどまで私を包み込んでいたあの圧倒的な体温の余韻だけが切なく漂っていた。

陛下が身に纏わせてくれた重厚な龍袍の温もりが皮膚から薄れるにつれ、大長秋・賈謐がもたらした容赦のない氷の冷気が、再び部屋の隅々から音もなく這い寄ってくる。


終わりの見えない寒さと、極限まで切り詰められた食事による栄養不足。

気丈に振る舞おうとするものの、立ち上がった瞬間に視界が激しく揺らいだことで、私は思わず卓の縁へとしがみついた。かじかんだ指先が白くこわばり、身体の芯に残る微かな熱を周囲の寒気がじわじわと奪い去っていく。




(……大丈夫。父の教えを背負う者として、この程度の寒さに膝を屈するわけにはいかないのだから……)




朦朧とする意識を叱咤し、息を白く染めながら再び針を持とうとした、まさにその時。

バタバタと静寂を破る荒々しい足音が冷たい石床に響き渡り、我が宮の扉が勢いよく押し開けられた。




「貴人様! 大変でございます!」




息を切らせた柳婉が、滅多に見せないほど血相を変えて部屋へと飛び込んでくる。その手には、一枚の書状が握られていた。




「湖陽長公主・劉寧(リュウ ネイ)様が、この宮へ向かっておられるとの報せが届きました! 今まさに、外の門をくぐられたとのことです!」




「――寧児(ネイちゃん)が……?」




その名を耳にした瞬間、私の喉の奥が微かに強張る。


晶陵の眩しい日差しの中で「小鸞(ルァンちゃん)」と慕ってくれた、あの温かな声と笑顔。

洛華へ移られてから顔を合わせる機会のなかった愛しい義妹の気配をすぐ近くに感じ、冷え切っていた胸の奥がじんわりと熱を帯びるものの、次の瞬間、冷気にかじかむ己の惨めな掌を見つめて血の気が急速に引いていくのを感じた。


寒さに震え、光を失ったこの惨状を、あのまっすぐな瞳に見せるわけにはいかない。

陛下を守るため、誰にも知られぬよう袖の奥に隠し通してきたこの凍える部屋の真実が、いまにも暴かれてしまうのだから。


激しく高鳴る胸の鼓動に、目眩の残る身体が小さく揺れる。

私は白くかすむ視界を必死に繋ぎ止めながら、冷たい朝陽が差し込む扉の向こうを、ただ息を殺してじっと見つめることしかできなかった。

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