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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第47話

静まり返った寝所において、一線を越えぬ約定のまま彼女の温もりにすがり、微かな息遣いを感じながら明かした短い夜。


翌朝。窓格子を透かして射し込む白々とした陽光が質素な居室の卓を静かに照らし出し、白磁の茶器から立ち上る湯気が、南苑州の陽だまりを思わせる温かな花茶の香りをふわりと運んでくる。それはかつて晶陵で夫婦として過ごした日々と同じ、穏やかな朝食の席のはずであった。


だが、どれほど温かな香気が室内に満ちようとも、俺と彼女の間には一切の温もりを頑なに拒む見えない氷の壁が冷ややかにそびえ立っている。




「――陛下、お茶が入りました。お冷めにならないうちにお召し上がりくださいませ」




鈴を転がすような透き通る声が静寂の部屋に響き渡った。

卓の向こうに座す鸞は淡い紅梅色の絹衣をまとい、一切の隙もない洗練された手つきで茶を注ぎ終えている。伏せられたまつ毛の陰に隠された瞳は静まり返った湖面のように揺るぎなく、かつて俺だけに向けられていた無邪気な温もりや、微かな甘えの色彩はどこにも見当たらない。


一斉懐妊の祝宴、そして己の似姿をした謝美人の入宮――。

数々の残酷な仕儀を前にして彼女が己を護り、そして俺の玉座を汚さぬために選んだのは、心を完全に殺して「完璧な臣下」としての仮面を被ることであった。嫉妬という名の罪で後宮の過酷な法度に触れぬよう、自らの矜持と感情のすべてを分厚い氷の底へと封じ込めてしまったのだろう。




「……鸞」




差し出された茶器を受け取ることすら忘れたまま、俺はその細く白魚のような指先を痛ましげに見つめ、苦しげに言葉を絞り出す。




「すまない。近頃は政務と……その、鸞と穏やかに過ごす時間が取れず、寂しい思いをさせてしまっている」




せめて妻としての感情の籠もった言葉を聞きたかった。罵られ、恨み言をぶつけられた方が、まだどれほど救われるか分からない。

だが、俺の不器用な謝罪を聞いた彼女は茶器を置いた手を膝の上へと静かに戻すと、優雅な作法で深く頭を垂れるのみ。




「お気になさらないで下さいませ、陛下。後宮に侍る身として、陛下の御務めを煩わせることなどあってはなりません。どうか、国のため、御身を第一にお励みくださいませ」




あまりにも澄み切り、いかなる熱情も宿さぬ声音。

そこには怒りも悲しみすらも存在せず、ただ大渭国の皇帝に仕える一介の側室としての完璧すぎる礼節だけが、冷ややかに置き去りにされている。




(――違う。俺が求めているのは、そんな規律に縛られた言葉ではない……っ)




胸の奥で、焼けた鉄を直接押し当てられたかのような痛切な罪悪感が猛烈に暴れ出す。

彼女をこの手で守り抜くと誓って洛華(らくか)の帝都へと呼び寄せたはずが、正妻の座すら与えられぬまま側室という名の檻へと閉じ込め、あろうことか他の女たちの元へと足を運ぶ俺の背中を見せ続け、その美しい魂をこれほどまでに冷ややかな形骸へと変えてしまったのだから。


目の前にいるにもかかわらず、手が届かない。

触れれば崩れ落ちてしまいそうな白磁の人形を前にして、俺はただ喉の奥を詰まらせ、行き場のない絶望と焦燥に五体を蝕まれるほかなかった。


卓を隔てたわずか数尺の距離が、底知れぬ深淵のように思えてならない。

かつて晶陵の陽だまりで俺の隣で無邪気に笑い、同じ未来を信じてくれていたはずのただ一人の妻。その魂と魂を結んでいたはずの細い糸が、今、音を立ててすり切れようとしている。


何故だ。何故これほどまでに、きみは俺から遠ざかってしまうのだ。

渭北の権力に強いられ、鸞の似姿を模した偽物を抱かされる汚辱に耐えてまで俺はきみを守りたかった。泥に塗れ、血を吐くような自己嫌悪に五臓六腑を灼かれながらも、この洛華の王都できみが生きる場所だけは何があろうと守り抜くと誓ったのだ。

それなのに、その俺の業こそが鸞の美しい心を殺し、氷のような礼節の仮面の下へと永久に閉じ込めてしまったというのか。




(――もう、耐えられない)




これ以上、きみが遠い世界へと消えていくのに耐えられなかった。

俺は茶器を引っ込めた彼女の手が卓から離れるよりも早く身を乗り出し、その細く儚げな手を、二度と手放さないという切実で力強い意志を込めてそっと包み込むように抱き寄せる。




「っ……!? へ、陛下……っ」




突然差し出された情熱に、鸞が驚きに息を呑んだ。

かつて剣を握り続け幾多の戦野を駆けた俺の掌には無骨な剣だこが染みついており、その粗い皮膚に触れた彼女の指先はまるで雪解け水にさらされたかのように透き通って、痛々しいほどに冷え切っている。


両手で包み込んだその白魚のような手を、俺は大切に胸元へと引き寄せた。

伏せられていたまつ毛が揺れ、驚きに見開かれた琥珀色の瞳が俺の顔を真っ直ぐに捉えるなか、その澄んだ瞳の底に映っていたのは天下を統べる龍の面貌などではない。

ただ一人の愛しい妻に拒絶されることを恐れ、捨てないでくれと縋りつく、傷ついた一人の夫の情けない素顔であった。




「鸞……きみは……俺を、恨んでいるか」




喉の奥を震わせ、かすれた声が吐息とともに漏れ出る。




「俺を恨み、軽蔑し……そうして心を殺すことでしか、この檻で生きられなくなってしまったのか」




「陛下……そのようなことは……っ、私はただ、一介の側室として臣下の分を尽くそうと……」




「側室などと言うな……っ!」




悲痛な叫びとともに、俺は包み込んだ彼女の手の甲へと己の顔を深く押し当てる。

無骨で乾燥した俺の唇を透き通るような白磁の皮膚へと、強く、狂おしいほどの熱を込めて押し付けた。


皮膚一枚を隔てて伝わる火傷しそうなほどの熱は、皇帝としての命令などでは決してない。どれほど罵られようとも、どれほど憎まれようとも構わない。きみを縛り付けるその冷たい仮面を力ずくで剥ぎ取り、もう一度、あの晶陵で笑い合っていた俺だけの鸞へと戻ってほしいという、一人の男としての血を吐くような哀願であった。


押し当てた唇の熱が、冷え切っていた彼女の指先へとじわじわと伝播してゆく。

掴んだ手のひらの奥で、彼女の華奢な脈拍が驚きと動揺に激しく跳ねるのが分かった。

一線を越えぬという清い約定の境界線の上で、俺は彼女の手を離すまいと抱きかかえ、ただ祈るようにその皮膚へ刻み込むような熱い口づけを落とし続けたのだった。


やがて、刻を告げる遠い銅鐘の重々しい音が、静まり返った朝の居室に静かに響き渡る。


南宮での執政の刻限が迫るなか、俺は断腸の思いで彼女の手に重ねていた唇をゆっくりと離し、深く息を吐き出しながら立ち上がった。

乱れた情念を力ずくで押し殺して天下を統べる皇帝としての冷徹な仮面を再び被り直し、玄色の重厚な衣を整えて背を向け、一歩を踏み出そうとしたその時。




「……お気をつけて行ってらっしゃいませ、陛下」




背後からかけられたのは、どこまでも透き通り、寸分の狂いもない完璧な作法を伴った見送りの声音。


先ほどまで俺の両手の中で確かに驚きに脈打っていた彼女の指先はすでに膝の前で静かに重ねられ、微かな揺らぎすら見せてはいない。

どれほど血を吐くような願いを手の甲に刻み込もうとも、彼女は瞬時に「完璧な臣下」としての境界線の内へと引きこもり、分厚い氷の仮面を被り直してしまうのだ。


居室を出て回廊へ足を進めると、庇の隙間から吹き抜ける冷たい朝の風が、二人の間を容赦なく切り裂くように駆け抜けてゆく。

身体を苛む冷気の中、俺はたまらず足を止め、背後を振り返った。


朝の陽光が白々しく差し込む回廊の先――そこには、淡い紅梅色の絹衣の裾を美しく整え、皇帝へ深々とお辞儀を捧げる一人の側室の姿がある。

伏せられた真っ白な首筋、優やかに束ねられた黒髪、寸分の乱れもない気高き佇まい。

それは息をのむほどに美しく、完璧な側室そのものであった。


だが、そこに俺の愛しい妻の姿はどこにもない。

かつて晶陵の陽だまりの中で俺を「老虎(ラオフー)」と呼んで無邪気に微笑みかけてくれた、あの温かく愛おしい青鸞の面影は、どこを探しても見当たらないのだ。




(――鸞……きみを側室の檻に閉じ込め、己の身体を政治に汚しながら……俺は大事なものを何一つ守れないのか……っ)




懐の中に忍ばせた手で、衣の奥にある古びた組紐を強く、壊れんばかりに握りしめる。

粗末な糸の結び目が皮膚に深く食い込んで掌に痛切な痛みを刻みつけるなか、天下を統べる皇帝でありながらただ一人の妻の心を引き寄せることすらできない己の不甲斐なさと無力さが胸を苛む。

決定的に遠ざかっていく彼女の気配に胸の奥が千切れるような孤独と恐怖が押し寄せるものの、俺は咽びそうになる呼吸を必死に押し殺した。

もう一度振り返ればその佇まいに縋り付いて取り乱してしまいそうになる己を制し、俺はただ前だけを見据えて、重い足取りで冷たい公務の場へと踏み出していった。

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