第46話
同じ夜の闇が更け渡る頃。
重々しい扉をくぐった瞬間、俺の鼻腔を突いたのはむせ返るほどに甘ったるい香油の匂いである。
南苑州の陽だまりで漂っていた清廉な花茶の香りとは似ても似つかない、どす黒い欲を隠すためかのような質の悪い安息香の薫煙。
胃の腑の底から込み上げてくる生暖かい不快感を冷酷な沈黙の下へ押し殺し、俺はただ足を踏み入れた。
室内の奥、帳の傍らに佇んでいた女がしとやかに膝を折る。
淡い紅梅色の絹衣に、高貴な装飾を削ぎ落とした質素な身なり。灯火の陰影の中に揺れる姿を目にした瞬間、喉の奥が詰まり、心臓が大きく跳ね上がる。
(――鸞……?)
かつて晶陵の河のほとりで、俺のために手縫いの戦袍を縫い上げてくれていた頃の愛しい影。
だがその錯覚は、女が顔を上げて甘ったるい声を漏らした瞬間に無残にも打ち砕かれた。
「陛下、今宵のお越しを……どれほど心待ちにしておりましたことか」
媚びを含んだ眼差しと、何かを貪り取ろうとする卑しい熱を帯びた瞳。
その声が鼓膜を叩けば、激しい不快感と嫌悪が一気に全身の血を凍りつかせる。
型だけを似せれば、この俺が騙されるとでも思ったか。
姿が似通っているからこそ、内側にある魂の品格や気高さの決定的な欠落が、耐えがたい侮蔑となって胸を突いてくるのだ。ただ一人の愛しい女の面影を汚されたような激しい怒りが、全身の肌をひどく粟立たせていた。
「……余の言葉を、覚えているか」
感情を一切削ぎ落とした氷の声で、俯く女を見下ろす。
「お前に『皇帝の子供の母』としての役割と地位を得る機会は与えるが、余の心は求めるな、と。――承知の上だな」
冷徹な通告すら、この女は皇帝特有の気難しさだとでも思い込んでいるのか、勝ち誇ったような笑みを唇へ浮かべたままである。
もはや言葉を交わす気すら失せ、俺は龍としての冷徹な仮面を被る。ただ皇統を繋ぐための義務として事務的にその身体を引き寄せた。
決して顔を直視することはせず、重ね合わせた肌から伝わる不快な感触を鋭く遮断するように、女の肩越しの虚空へと視線を投げ打つ。
闇の向こうに必死に思い描くのは、ただ一人の姿。
湯気の立つ茶器を前に、静かに微笑んでいた本物の面影のみだ。
(早く……あの手で淹れてくれた花茶を……)
一切の熱を伴わぬ短く冷ややかな作業が終わると同時に身を起こし、名残惜しげに伸ばしてきた女の手を冷たく一蹴して衣服を整える。
朝を迎える気など毛頭なく、こんな不快な場所へこれ以上一秒たりとも留まるわけにはいかない。乱れた息を整える女を置き去りにし、俺は背を向けてその部屋を後にした。
だが、そのまま鸞の待つ宮へと向かうことはできない。
俺の足は、闇に沈む後宮の庭隅にある、冷気漂う井戸端へと向かっていた。あの女の部屋に立ち込めていた安息香のくどい臭いも、他者の肌に触れた不快な記憶も、一筋たりとも彼女の清らかな聖域へと持ち込むことなど許されはしないのだ。
暗闇のなかで玄色の衣を荒々しく脱ぎ捨てると、氷のように凍てつく井戸水を手桶で幾度も頭から被る。
刃のような冷水が頭皮を叩き、胸板を伝って流れ落ちてゆく。息が止まりそうなほどの寒気が全身を襲うが、構わず硬い布を掴み、肌が赤く粟立ち擦り切れるほどの強い力で己の身体を何度も擦り洗った。
鼻腔にこびりついた脂粉の臭いを完全に洗い流し、皮膚の表面に残る穢れを削り落とするように無言で冷水を浴び続ける。
身体の芯までが凍りつき、指先の感覚が麻痺してもなお、己の肉体が潔白な冷気に包まれるまで自らを清め続けた。
ようやく真新しい衣に身を包み、荒々しい足取りで暗い回廊を駆け抜けて、ただ一つの聖域へとたどり着く。
重々しい扉を静かに押し開けると、そこには先ほどまでの偽物の部屋を支配していたくどい薫煙など微塵もない、清らかな花茶の温かな香りが満ちていた。
深い夜の静寂のなか、燭台の小さな灯火に照らし出された寝台。
そこに横たわっていた彼女が、衣擦れの音とともにゆるやかに身体を起こす。白粉のいらない真っ白な肌に、飾りのない漆黒の長髪。そして、ただ俺だけを静かに映し出す澄んだ琥珀色の瞳。
(――あぁ、本物だ……)
その姿を目にした瞬間、胸を苛んでいた吐き気と激しい血の冷たさがふっと消え去り、張り詰めていた皇帝としての鋼の鎧が音を立てて砕け散った。
靴を脱ぎ捨てる間すら惜しむように寝台へ膝をつき、彼女の繊細な身体を無言のまま強く抱きすくめる。
腕の中に収まる、壊れそうなほど華奢な温もり。氷水を浴びて冷え切った俺の肌へ、柔らかな体温と甘く清らかな香りが心地よく染み込んでいった。
「……陛下……?」
不意の強情な抱擁に微かな驚きの声を漏らしながらも、彼女は逃げ出そうとはせず、冷え切った俺の背中へそっと優しく手を回してくれる。
手のひらの温もりがあまりにも愛おしく、痛切で、胸の奥が張り裂けそうになってたまらない。
政治の道具として身体を使わねばならない汚れた現実への絶望と、この清らかな胸にしか救いを求められない己の無力さ。
俺は彼女の細い首筋へと深く顔を埋め、しがみつくようにして身体の重みを預ける。
「……お願いだ、鸞……」
冷酷な覇王の面影など微塵もない、震えるかすれた声が吐息とともに漏れ出た。
「ここだけが……俺が俺でいられる場所なんだ。……この温もりだけは、決して俺から奪わないでくれ……っ」
首筋に押し当てた唇から伝わる鮮烈な体温だけが、泥を啜るような後宮の闇の中で俺が生きる唯一の道標。
彼女の指先が髪を撫で、傷ついた獣を宥めるように優しく背をさすってくれる。
この腕の中の体温だけを守れるのなら、どれほどの泥を被り、どれほどの偽物を抱こうとも厭わない。深く甘い暗闇のなか、俺はただ一人の愛しい女の温もりに浸りながら、夜明けが訪れるまで離すまいときつく抱きしめ続けていた。
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