第45話
石畳の隙間を吹き抜ける風が、冴え冴えとした底冷えの寒気を運んでくる。
三十名もの新たな妃嬪が一度に入宮し、今や五十人もの女たちが蠢く底無しの檻へと姿を変えた帝都・洛華の後宮。その喧騒から逃れるように歩いていた庭園の回廊で、不意に足が止まった。
陽光の射し込む東屋の傍らで風に揺れていたのは、あまりにも見覚えのある色の衣服である。
白粉のいらない肌を際立たせる淡い紅梅色の絹衣に、高貴な装飾を削ぎ落とした質素な立ち姿。さらには黒く艶やかな長髪を優やかに束ねた髪型までが、私の目を釘付けにした。
(……私?)
鏡に映る己の影を見ているのかと錯覚し、冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。
わずかに振り返った女の横顔は、すっきりと通った鼻筋から華奢な顎の輪郭に至るまで私自身に酷似しており、遠目から見れば誰もが見紛うに違いない佇まいであった。
けれど、決定的な違和感が胸の奥を重く押し潰していく。
わずかに覗いた瞳の奥に宿っていたのは、私とは決定的に異なる光だった。私という外枠だけを歪になぞりながら、その内側は全く異質の意志で動いているのだと直感させられる。
女の背後に控えていたのは、黄金の扇で口元を覆った郭聖通皇后だ。
扇の陰から覗く瞳は凍てつくような愉悦に歪んでおり、こちらのうろたえを品定めするかのようにじっと見据えている。
(――あぁ、そういうことなのね)
袖の内で握りしめた指先から急速に血の気が引き、体温が奪われてゆくなかで、渭北の権力者たちが打ち立てた新たなる刃の存在を思い知る。それは彼が好む姿を完璧にかたどり、私の身代わりとして後宮へ送り込まれた、もう一人の私に他ならなかった。
身を切り刻まれるような絶望が冷たい風とともに足元から静かに走れば、気づけば私はその場に縫い止められていた。
昼の光が西へ傾き、庭園に落ちる柱の影が長く伸びてゆく間も、東屋で目にした紅梅色の幻影は胸から離れない。
やがて茜色の空が黒く塗り潰されて深く沈み込んだ夜の帳が後宮全体を覆い尽くせば、銅燭台に灯る小さな炎だけが、寝所の壁へ孤独な影を細く映し出していた。
かたかたと風に揺れる木枠の音を聞きながら静まり返った寝台へ独り身を横たえるものの、夫が訪れない夜の寝床とは、これほどまでに広く冷酷なものだっただろうか。指先が触れる絹の掛け布から肌を刺すような底冷えがじわじわと伝わり、身体の芯までを凍りつかせてゆく。
今宵、彼の方はあの庭園の東屋で目にした謝美人の宮へと御渡りになられたのだろう。
淡い紅梅色の衣を纏い、私と瓜二つの姿をしたあの女性の元へと。
胸の奥で、焼けた鉄を押し当てられたかのような強い痛みが燻り始める。
あの広い背中が知らない扉の奥へと消え、自分に似た姿の女と対峙している――そんな情景が脳裏をかすめるたびに喉の奥が硬く締まり、息を吸い込むことすら苦しい。
私が決して越えようとはしない一線をあの人は越えてゆくのだろうか、私が差し出すことのできない血の繋がりを、彼に与えるというのだろうか。
(……いけない。私は、何を望もうとしているの)
薄闇のなか、膝を包む布地を指が白くなるほど強く握りしめた。
彼の肌を拒み、清い結婚を願ったのは他の誰でもない私自身の矜持であったはずだ。それなのに、他の女が夫の褥に侍る現実を前にして、どうしてこれほどまでに胸が裂けそうに痛むのだろう。
もしここで女の醜い嫉妬に狂い、彼を独占したいと声を上げれば、後宮の女たちは即座にそれを罪として糾弾するに違いない。
数多の過酷な泥と血を払い、重い命を背負ってあの玉座へ昇り詰めた彼を、私ひとりのちっぽけな情で惑わせ、愚かな王へと落とすわけにはいかないのだ。いま私が感情に任せて取り乱せば、故郷で静かに三徳を守り抜く兄たちの誇りを引き裂き、陰家が代々育んできた気高き矜持までもが泥に塗れてしまう。
帝都に残ると決めたあの日、彼への渇望を語ることを永久に禁じたのだから。
喉まで出かけた嫉妬の叫びを奥歯で噛み締め、私は痛みごと腹の底へと呑み込んだ。
どれほど理性を重ねようとも、内臓が焼け焦げるような不安は消えはしない。
そっと目を閉じて冷え切った寝台の敷布に額を寄せると、溢れそうになる熱い涙を喉の奥へと静かに飲み込む。誰もいない夜の静寂のなかで、ただ独り、明けない夜を耐え忍ぶように息を殺し続けた。
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