第42話
案内されたのは、洛華の中心地にほど近い一等地。
皇帝の絶対的な腹心である耿敦や耿翼の邸宅から目と鼻の先にある、広大で豪奢な屋敷であった。高くそびえる漆塗りの門柱に、塵の一つも落ちていない磨き上げられた回廊、そして手入れの行き届いた中庭。質実剛健と三徳を家訓とする我が陰家の気風にはあまりにも不釣り合いで、足を踏み入れることすら躊躇われるほどの過剰な造りである。
真新しい建材の青臭い匂いと、客間に焚き染められた高級な香の甘い匂いが鼻をつくこの異様なまでの設えは、間違いなく皇帝自身の指示に他ならない。
都の最も治安の良い場所へ我々を置き、最も信頼する部下の目の届く範囲で厳重に警衛させるという、天下の皇帝から外戚へ向けられたこの上ない厚遇。
だが、俺の胸の奥で渦を巻いているのは、冷たく重い鉛のような感覚だけだ。
(これほどまでに美しく飾り立てた檻で、我々の目を塞ごうというのか)
ただ一人、同じ空の下の冷たい後宮で正妻ではなく貴人という一介の側室の地位に落された大切な妹。
己の誇りを殺して身を引いたその犠牲のうえに、この煌びやかな屋敷は建っている。そう思うと、客間で差し出された茶の湯気さえもが、喉を塞ぐ毒の煙のように感じられてならなかった。
上座へ母が静かに腰を下ろし、俺はその傍らに座る。
客間の下座では、豪奢な官服を纏った耿翼が再び我々へ向けて深く頭を下げていた。
「この六年の長きにわたり、長公主殿下を戦火から遠ざけ、陰家の深い庇護の元でお護りいただきましたこと……殿下の婚約者として、そして何より皇帝陛下に代わりまして、天よりも高く地よりも深き感謝を申し上げます」
床に額を擦り付けんばかりに身を屈める耿翼。
かつて南苑州の陽だまりのなかで身分を越えて共に笑い合った若き日の彼を知っているからこそ、今どれほどの罪悪感を抱えてこの場に平伏しているのかが震える肩越しに伝わってくる。
だが、母も俺も、その震えに歩み寄るつもりなど微塵も持ち合わせてはいなかった。
部屋を支配したのは、都を吹き抜ける風よりもさらに冷たく重い沈黙であった。
声を荒らげることも、言葉で責めることもしない。ただ皇帝側から差し出されたその厚遇の手を決して握り返さず、見えない壁を築き上げたまま隙のない礼節をもって見下ろしているだけだ。長く息の詰まるような静寂を破ったのは、母である鄧貞の静かで凛とした声だった。
「……耿様」
上座に座る母の背筋は、一切の淀みなく真っ直ぐに伸びている。
俺は傍らに直立したまま、呼吸の音すら殺して母の毅然たる横顔を見守っていた。
「過分なるお言葉、痛み入ります。ですが、長公主殿下を晶陵でお預かりしたのは、僭越ながら公主が我が陰家にとって家族も同然の存在であったからに過ぎません。家族を護り抜くことに、皇帝陛下からの恩寵や見返りなど不要にございます」
一見すれば謙虚な辞退の言葉だが、その裏に込められた真意は極めて冷たく鋭い。
「どうか、皇帝陛下へはこのようにお伝えください。『陰家は三徳の教えに従い、分を弁え、都の片隅でひっそりと生きてゆく所存にございます。ゆえに、お心遣いには及びませぬ。我が家のことなどはお気になさらず、ただ大渭国の国政にのみ御心を注がれますように』……と」
一切の感情を交えない、ただ完璧なだけの礼節。
それは権力の甘い汁に群がることを良しとしない我が家の気高い矜持の証明であり、同時に、一夫一婦の誓いを破り大切な娘を側室へと落とした男に対する、取り付く島もない決別の宣言に他ならなかった。
「…………っ」
見えない圧力に突き放された耿翼は血の気を失った唇を微かに震わせ、床に額を擦り付けるようにさらに深く頭を下げる。
重厚な官服の擦れる音が、静まり返った客間に響く。聡明な彼には伝わったはずだ。どれほど皇帝が絶大な権力と富をもってこの厳重な厚遇を用意しようとも、我々がこれ以上あの男に心を許すことは二度とないのだという冷徹な真実が。
俺はただ無言のまま、母へ揺るぎない同調の眼差しを向けていた。
後宮という檻の中で耐え忍ぶ鸞の誇りは、我々家族が己の命をかけて守り抜く。たとえ相手が天下の覇王であろうとも、決して首を垂れて迎合などしはしない。
決して迎合などしないという陰家の強固な意志は、やがて冷ややかな伝言となってただちに南宮の執務室へと届けられることとなる。
◆◇◆
「――我が家のことなどはお気になさらず、ただ大渭国の国政にのみ御心を注がれますように、と。鄧夫人はそのように仰せでした」
ひどく苦しげに顔を伏せた耿翼の震える声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
夜の帳が降りた後宮の冷たい回廊を歩きながら、俺は、胸の奥を鋭い刃で抉られるような痛みに耐え続けている。
陰家からの、完璧な礼節による拒絶。
それはこれまでの不義を詫びたいという思いから、彼らを最も安全な場所で手厚く庇護しようとした俺に対する、何よりも重く残酷な返答であった。
一夫一婦の誓いを破り、大切な娘を側室に落とした男へ向ける静かなる決別の宣告である。どれほど絶大な権力を握り、大渭国の頂点である玉座に君臨しようとも、かつて南苑州の陽だまりで共に笑い合った家族の心は二度と俺の元へは戻ってこない。その事実が氷のように冷たく全身を縛り付けてくる。
気がつけば、足は吸い寄せられるようにたった一つの帰るべき場所である鸞の宮へと急いでいた。
静かに寝所へ入り、灯りを落とした寝台に身を横たえる。規則正しい寝息を立てる寝顔を見つめ、その白い頬をそっと撫でた。
指先の微かな刺激に気づいたのか、愛しい者が小さく身じろぎをしてゆっくりと瞼を開く。
「……すまない、起こしてしまったか」
己の内に渦巻く孤独を分厚い覇王の仮面の下へ押し殺し、努めて穏やかな声を落とす。
微かに首を傾げる細い頬を再び優しく撫で、俺はただ一つの事実だけを告げた。
「今日、君の母上や歆たちが、無事に洛華へ着いた。長旅だったが、皆息災だそうだ。……安心してくれ」
陰家から冷酷に突き放されたという真実だけは決して悟らせまいと、重い言葉を呑み込む。
すると、掌の下で双眸がふわりと見開かれた。長い睫毛が伏せられ、やがてその唇に微かな、だが確かに温度を持った微笑みが浮かび上がる。
洛華へ来てからというもの、彼女は常に一介の側室として見えない氷の壁を築き、俺を皇帝として遠ざけてきた。
だが今は、まどろみの中でその冷たい枷を忘れているのだろうか。それは、嫉妬と悪意が渦巻くこの冷たい後宮の檻にいることを忘れさせるような、かつて晶陵の陽だまりで俺だけに向けてくれていた無垢で純粋な微笑みだった。
朝の光が差せば、再びあの分厚い氷の壁を纏い、俺を遠ざけるかもしれない。それでも、夜の静寂の中、その微笑みだけが淡く清らかに発光しているかのように、瞳の奥を強烈に灼き尽くしてゆく。
(……あぁ、俺は)
外界では、かつて家族のようだった身内たちすら俺から心を離し、遠ざかってゆく。
だが、何も知らないこの愛しい女だけが俺の言葉を信じ、掌に頬を寄せて微笑んでくれている。その事実がもたらす救いと、欺いているという底知れぬ罪悪感が混ざり合い、理性を狂おしく掻き乱していく。
たとえこの手を血と泥で汚し、世界中から見放されようとも、俺はこの光だけは絶対に手放しはしない。
狂おしいほどの愛執を胸の奥へ封じ込め、俺はその細い肩をきつく、ただきつく腕の中へ抱き寄せた――。
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