第40話
今回は第三部で初登場した鸞の侍女・柳 婉目線のお話です。
第三部はシビアな話が続いていたので箸休めにお楽しみください。
早朝の後宮を包む空気は、剥き出しの肌を刺すように冷たく、そしてどこまでも重苦しい。
まだ夜明け前の薄明かりが這い回る洗面所で、氷のように冷え切った水へと何度も手を浸しては、厚手の布巾をきつく絞り続けていた。
かじかむ指先の感覚はとうに麻痺し、赤く腫れ上がった関節が鈍くズキズキと痛む。
没落した茶商の娘である私が、運良くこの洛華の広大な宮廷へと雇い入れられたまでは良かったものの、配属された先は、今まさに後宮中から呪詛に似た悪意と嫉妬を向けられている異例の『貴人』の宮であった。
新たに入宮された陰氏の娘、陰鸞様。
噂によれば、まだ何者でもなかった若き日の陛下と地元で婚姻を結ばれていた、いわば帝の『前妻』にあたるお方だという。
渭北の強大な武力を背景に郭皇后様が後宮の頂点に君臨なさっているこの時期に、なぜわざわざ側室という低い身分に甘んじてまで宮廷へ戻ってこられたのか。
今朝も給膳の準備で宮の外を歩いていた折、回廊の角で立ち話をする渭北派の妃嬪や宮人たちの横を、配膳盆の影に首をすくめて息を殺し通り過ぎるしかなかった。
「夫に忘れられていたくせに、皇帝になった途端にのこのこ出てくるなんて、本当に図々しい女ね」
「皇后様の寛大な慈悲を逆手に取る、厚顔無恥な恥知らずよ」
きつい香油の匂いと共に放たれる容赦のない陰口の毒矢を耳にするたび、私の胃の腑はきゅっと縮み上がる。
底意地の悪い視線がこちらへ向けられぬよう、ただ恐怖におののきながら木製の盆を胸元へ深く抱え込み、逃げるように歩みを早めるほかない。
波風を立てずに生き延びることだけを信条とする私にとって、後宮中の憎悪を集める主人の侍女に選ばれた現実は、一分一秒が過酷な試練そのものであった。
「――婉、そこにいるの?」
鈴を転がすような、あまりにも儚く澄んだ声音が静まり返った室内の静寂を優しく破る。
びくりと肩を震わせた私は、大急ぎで濡れた手を衣服で拭い、髪結いの道具を整えて居室へと向かった。
帳が上げられた薄暗い部屋の奥、姿見の前に座っていらした陰貴人様は、淡い紅梅色の上質な絹衣を纏っておいでだ。
その質感は郭聖通の宮で見かけるような黄金の刺繍がギラつく派手な毛皮とは対極にあり、ひどく控えめで、それでいて指先が滑るほど仕立ての良い気品に満ちている。
白粉など必要としないほど透き通る白い肌に、睫毛の長い大きな瞳、そして紅を差さずとも鮮やかに赤い唇が、鏡の中でかすかに揺れていた。
その横顔を斜め後ろから盗み見ながら、私の心臓はどこか不吉な警告音を鳴らし続ける。
(これほど浮世離れした美しさを纏う彼の方の内側に、一体どれほどの情念が潜んでいるというのだろう……)
鏡越しに言葉を飲み込むように喉元を動かされる主人の静寂が、かえって恐ろしい企みを秘めているように思えてならない。
帝の心を再び絡め取るため、この儚さすら武器にしているのではないか。
そんな不信感に喉を乾かせながら、私はただ平伏し、怯える指先で黒髪をそっと梳かし始めた。
やがて身支度が整い、厨房から炊きたてのお粥を盆に乗せて居室へ戻った私は、そこに広がる光景に思わず息を呑んで敷居に足を踏み外しかける。
「朝の御膳をお持ちいたしました」
冷酷無比な覇王として後宮の女たちが畏怖してやまない 昭虎帝が、すでに広い円卓の席へ腰を下ろしておいでだったからだ。
だが、私の心臓を激しく跳ね上がらせたのは皇帝の圧倒的な威圧感ではなく、彼が主人へ向けているその眼差しに他ならない。
(あんなにも、甘く……?)
湯気を立てる朝の膳を前に、劉彪様は自らの手で白磁の小椀を取り、熱すぎないかを丁寧に確かめてから陰貴人様へと差し出しておられる。
天下を統べる皇帝が一介の側室の世話を焼く異様な光景は、まるで力を込めれば砕け散ってしまう硝子細工か、この世で最も尊い宝物を扱うかのような過剰なまでの慈しみであった。
「鸞、座ってくれないか。一緒に食べよう」
皇帝陛下が穏やかに声をかけると、彼女は静かに衣の裾をさばき、音もなく席につく。
もしも権力を貪る野心家であれば、皇帝のこの寵愛を鼻にかけ、すぐ隣に座って甘えて見せるはずだ。
しかし陰貴人様が選んだのは広い卓を挟んだ一番遠い対面の席であり、ただ静かな水面のごとき微笑みを浮かべておられるばかり。
親密な会話が交わされることもなく、あくまで一介の貴人としての分をわきまえるように静粛に膳を受け取っておられる。
手を伸ばせば触れられる距離でありながら、卓上に並ぶ白磁の器の間には目に見えぬ分厚い氷の壁がそびえ立っているかのようだった。
伏せられた瞳と隙のない端座が、自ら引いた境界線を決して越えまいとする頑なな意志を言葉よりも雄弁に物語り、その冷ややかな静けさがかえって私の混乱を深めてゆく。
(どういうことなの……?)
お二人が食事を進められている間に背後の寝室の片付けへと向かったことで、私の混乱はさらに決定的なものへと深まっていく。
毎夜、皇帝がこの宮へ渡ってこられている以上、褥には深い寵愛の熱が残り、甘やかな香りが染み付いているはずであった。
私は息を潜め、意を決して真紅の帳をくぐり抜ける。
でも――。
(……嘘。気配が、驚くほど清らかなままだわ)
そっと手に触れた真綿の敷布はひどく清潔で、驚くほど平坦であった。
寝具が乱れた様子すらなく、ただ静かに同じ夜を明しただけのように何の痕跡も残されてはいない。
毎夜通い詰めながら、ただ穏やかに添い寝をされているだけだというのだろうか。
妃嬪たちが「夜を独占している強欲な女」と憎悪の炎を燃やしているというのに、この部屋には世間が邪推するような色めいた気配など初めから存在していなかったのだ。
きれいに整えられたままの褥を前に雷に打たれたように立ち尽くし、欲望が渦巻く後宮においてこの薄暗い寝室だけが、どうしようもなく純粋で不可解な聖域に思えてならない。
静かな衝撃を胸に抱いたまま配膳を終え、私は慌ただしく宮の入り口へと急ぐ。
「陛下、ご出立にございます」
朝の膳を終え、南宮の公務へと向かうべく居室から歩み出てこられた皇帝陛下を、入り口の回廊で深くお辞儀をして見送った。
先ほどまで主人の前で見せておられた、硝子細工を慈しむような甘い気配はとうに消え失せている。
玄色の豪奢な衣を纏って見下ろすそのお姿は、まごうことなき大渭国を統べる冷徹なる覇王そのもの。
六尺に及ぶ長身と猛虎を思わせる重厚な気配が押し寄せてくるなか、一介の侍女にすぎない私はただ頭を深く下げて身を縮めていたが、近づいてくる足音がすぐ目の前でぴたりと止まった。
「……お前が、陰貴人の侍女か」
「は、はい……っ」
頭上から降り注ぐ低く静かな声に応え、必死に言葉を絞り出す。
不敬を咎められるのかと身を竦ませた直後、思いがけない言葉が耳を打つ。
「鸞を頼む」
「え……?」
「この後宮で、鸞はひとりだ。……どうか、彼女を支えてやってくれ」
思わず息を呑んだのは、それが天下を統べる皇帝が一介の侍女へ向けるような命令では断じてなかったからだ。
無礼を承知で顔を上げてしまえば、そこに氷のごとき冷酷な覇王の姿はなく、見下ろす鋭い双眸はひどく揺らいでいる。
まるで己の命よりも大切なものを託すかのように、不器用で切実な熱を帯びていた。
私が呆然と立ち尽くすうちに、再び覇王の仮面を被り直した劉彪様は迷いのない足取りで朝の回廊へと去っていかれる。
遠ざかってゆく威風堂々たる背中を見送りながら、私はふっと全身の力が抜けてその場へへたり込んでしまう。
静まり返った室内からは、私を呼ぶ気高くも儚いお声が清涼な花茶の香りと共にふわりと漂ってきた。
(あんなにも威圧的な皇帝陛下が……侍女の私に、支えてやってくれと頭をお下げになった……?)
信じられない思いが胸の内で大きな波となって広がっていくなか、先ほど渡り廊下で耳にした冷ややかな嘲笑が脳裏に蘇る。
誰もが「寵愛を貪る強欲な女」だと蔑んでいたはずだ。
(もしかして、私がお仕えしている彼の方は……皆が言うような恐ろしい野心家などではないのかもしれない……)
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