第38話
洛華の奥深く、皇后である郭聖通の住まう宮は、目が眩むほどの極彩色の装飾と黄金に彩られていた。
豪奢な青銅の香炉から立ち昇る、咽せ返るような重苦しい麝香の匂い。卓に隙間なく並べられた豪勢な肉料理をどれほど噛み締めてみても、口内には冷え切った青銅の匙と同じ鉄の味しか残らない。
胃の腑へ重い鉛を流し込まれたように身体が冷え切っていくのを感じつつ、俺は一切の光を消した瞳で、目の前の茶番を静かに見つめ続けていた。
「彪様。彊も、こうして父上と共に食卓を囲めて嬉しそうですわ」
長男である劉彊を乳母に抱かせたまま、誇らしげな笑みを浮かべてすり寄ってくる郭聖通。美しく吊り上がったその双眸に燃え盛っているのは、己こそが正妻として選ばれたのだという絶対的な自負と、南の田舎から出てきた哀れな女を完膚なきまでに下したという昏い歓喜の炎に他ならない。
「ああ。……健やかに育っているな」
口から滑り出たのは、一切の温度を持たないただの音声に過ぎない。大長秋の賈謐が突きつける忌まわしい木簡の刻み目に従い、皇統を繋ぐための血の通わぬ公務として、己の肉塊をただこの場へ運んできただけの死者のような時間である。
鸞が貴人としてこの洛華の後宮に入ってからわずか一週間。俺は己の身体を政治の道具と割り切り、決められた通りの足取りでこの宮へと足を運ぶほかなかった。
だが、愛する女が同じ空の下、歩いていける距離の後宮の片隅にいるという事実が、五臓六腑を灼くような強烈な嫌悪感となって正気を削り取ってゆく。
俺がここでこの女と不毛な食事を摂っている間にも、鸞はあの薄暗い部屋でたった一人、冷たい夜を過ごしているのだ。そう思うと喉の奥が激しく引き締まり、心臓の鼓動が耳の奥で不快な音を立てるたびに気が狂いそうであった。
「今宵は、どうかゆっくりとお休みくださいませ。私が御心を慰めて差し上げますから……」
頬を染め、正妻となった余裕と甘い情欲を滲ませて囁いてくる艶やかな笑顔。それを一片の人間味すら削ぎ落とした氷の眼差しで冷酷に観察し続けているうちに、息の詰まる晩餐はようやく終わりを告げ、夜の闇が宮全体を重く包み込んでいく。
豪華な食事の皿が下げられ、彊が乳母に抱き抱えられて退出すると、寝所の重厚な扉が音を立てて閉ざされた。真紅の帳が引かれた密室を支配するのは、賈謐が念入りに焚き染めさせたであろう咽せ返るような媚薬の香。
肺の奥まで侵食してくるその甘ったるい香りに、胃の腑はさらなる嫌悪で冷え切ってゆく。
「彪様……お待ちしておりました」
豪奢な薄絹の夜着を纏い、頬を紅潮させてすり寄ってくる郭聖通。俺は感情の死んだ瞳のまま、彼女の白い肩へ無造作に手を伸ばした。
だが、その肌を撫でる指先に情愛の熱など微塵も存在しない。ただ事後に煩わしい怪我の処置や太医の呼び出しを省くためだけに、義務として皮膚の表面を滑らせているに過ぎなかった。
かつて極寒の盟津で十万の軍勢がもたらす重圧に屈し、唯一の命綱であった組紐を失った絶望に打ちひしがれた夜。
泥を啜り獣に身をやつしてでも生き延び、再びあの温かな光の元へ還るという執念だけで己の心を完全に殺し切り、この女の寝台へと足を踏み入れたことがあった。
だが、今は違う。同じ洛華の空の下、歩いていける距離に俺の魂の半身である鸞がいるのだから。
(早く……終わらせなければ)
これから先にわたり必ず皇后の元へ通い、皇統の責務を果たすという後宮の忌まわしい絶対の掟。その冷酷な歯車としてただ一回きりの事務的な交わりを終わらせるためだけに、俺はひどい焦燥に駆られていた。
身体ならば、いくらでもくれてやる。
大渭国を盤石にするための生け贄として、政治の祭壇に捧げようではないか。だが、俺の魂の先までこの女に渡すつもりなど毛頭ない。
衣の擦れる重々しい音が、密室の静寂に虚しく響き渡る。
己の心を完全に洛華の片隅にある質素な宮へと飛ばしたまま、俺は心を伴わない冷たい暗闇の底へと沈み込んでいった。どこまでも無機質で苦痛すら伴う泥のような時間が永遠のごとく過ぎ去り、やがて真紅の帳の奥で、一切の熱を伴わない冷ややかな義務が終わる。
乱れた息を整えることもなく即座に身を起こし、冷たい空気のなか、脱ぎ捨てていた玄色の衣を素早く身に纏う。衣の擦れる乾いた音が、媚薬の匂いが立ち込める密室へひどく無機質に響き渡った。
「彪様……っ」
寝台の奥から甘く上擦った声が引き留めるように響き、背中を向けた袖を郭聖通の白い指がすがりつくように掴んでくる。
「どうか、今宵はここで一緒に夜を明かしてくださいませ。せっかくこうして、陛下の深いご寵愛を賜り、身も心も溶け合うことができましたのに……私と、朝まで……」
彼女の熱を帯びた指の感触が衣越しに伝わった瞬間、背筋へぞっとするような悪寒が走る。
かつて極寒の渭北では、心を殺した抜け殻として彼女を抱き、別の部屋へ立ち去る気力すら失って同じ部屋の長椅子にひとり身を横たえて朝を待ったものだった。
あの時の俺は己の意思さえ放棄した屍に等しかったが、今は違う。
俺の心はもう、あの夜のような死に絶えた灰ではないのだ。
歩いていける距離に、魂のあり処である鸞がいる。
このむせ返るような香油の匂いの中へこれ以上一秒でも長く留まることなど、俺の魂そのものが激しく拒絶していた。
袖を掴むその指を、少しの躊躇いもなく冷酷に引き剥がす。
「……皇后はひどくお疲れのようだ。大渭国の皇統を繋ぐ大任を果たした身なのだから、今はただ身を横たえ、しっかりと養生せよ」
礼儀正しく慈悲深くすら聞こえるものの、その実、決定的なまでに他者を突き放す氷のような声。彼女の顔を一切見下ろすことなく、ただ皇帝としての冷徹な仮面を被ったまま背を向けた。
「余はまだ、南宮にて決裁せねばならぬ奏上が残っているゆえ。失礼する」
すがりつく手を完全に振り払い、重厚な寝台を降りる。扉へ向かう足取りは、先ほどまでの重鬱さが嘘のように急ぎ足になっていた。
振り向くことなど決してない。俺の心はすでに、たった一つの光が待つあの質素で愛おしい宮へと足を向けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります……!
(※評価は後からでも変更・取り消しが可能です!)
また、【ブックマーク】に追加していただけますと、更新後すぐに続きをお読みいただけます。
また明日19:00にお会いしましょう!




