第37話
サッ、サッ……。
静まり返った回廊を、衣を擦れ合わせる微かな音だけを伴って、俺は忍びの足跡を刻むように歩みを進めていた。
皇帝としての義務を果たし終えたばかりの深夜。凍てつく井戸水を何度も頭から被り、肌が赤く粟立つほどに硬い手ぬぐいで幾度も身体を擦り洗いしてきたのは、他の女が残した重苦しい香油の匂いなど、彼女のいる場所には一筋たりとも持ち込みたくはなかったからに他ならない。
刃のような夜風に晒され、芯まで冷え切った身体を引きずりながら彼女の眠る寝所の手前で静かに足を止めると、重厚な木扉を音もなく押し開き、静まり返った薄暗い帳の奥へと滑り込んでゆく。
そこは俺にとってこの魑魅魍魎が蠢く宮廷で唯一呼吸ができる場所であると同時に、自らの渇きを自制という名の鎖で縛り続ける、終わりのない戒めの部屋でもあった。
寝台にはこちらへ背を向け、細い身体を丸めて静かに眠る鸞の姿が浮かび上がっている。
枕元にそっと歩み寄り、格子窓から差し込む月明かりを頼りにその横顔を覗き込めば、閉じられた長い睫毛の端に微かな濡れたきらめきを見つけて胸の奥底が鋭く抉られ、目元に残された乾ききらない涙の痕へ剣だこで硬くなった指先を伸ばし、彼女を起こさぬよう羽毛に触れるほどの慎重さをもってその冷たいしずくをそっと拭い去った。
「……鸞」
己でも情けなくなるほどに切実で掠れた響きが唇からこぼれ落ちるなか、地味な濃色の薄衣のままそっと寝台へと入り込み、彼女の細い肩を後ろから包み込むようにして大きな両腕で抱きすくめる。
俺の冷え切った肌の温度が衣越しに伝わり、彼女の微かな体温と交じり合っていくその皮膚一枚を隔てた冷たさの境界こそが、彼女が却非殿で突きつけてきた過酷な密約そのものに他ならない。
――『私をこの後宮に留め置くのなら。私とは決して、夫婦としての最後の一線を越えないでください』
もしも一線を越えれば、彼女はただ一人の夫を愛し抜いた両親から授かった陰家の娘としての矜持を失い、俺は彼女の尊厳を害する暗君へと堕ちてしまうのだと噛み締めながら、言葉という強靭な鎖で俺を縛り上げた彼女が今、腕の中でただ静かに規則正しい呼吸を繰り返しているのを感じ取る。
すべてを奪い去りたい。この薄い絹衣を剥ぎ取り、己のすべてをその奥底に刻みつけてやりたいという狂おしいほどの情念が身体の底から暴れ狂うものの、その猛々しい本能をねじ伏せるために自身の唇を深く噛み締め、敷布を指がちぎれんばかりに引き絞れば、暗闇のなかで己の指の関節が白く浮き上がり、ミキミキと軋む音が耳元で鳴り響いた。
「……君に、触れられない」
彼女の耳元へ、押し殺した渇きの吐息をひそやかに漏らす。
六年という月日、血と泥に塗れた極寒の空の下で彼女の温もりをどれほど渇望したことか。手紙すらままならない途方もない距離に引き裂かれ、気が狂うほどの孤独と恐怖を味わい続けてきた果てに、今、彼女は確かに俺の腕の中に、手が届き鼓動を感じる距離にいるのだ。
たとえ衣の奥へと踏み込むことが許されずとも、こうして同じ夜の闇を共有し、彼女の甘い匂いに包まれて朝を待てるだけで、乾ききった魂は泣きたくなるほどに満たされてゆく。
天下を統べる皇帝でありながら、俺はこの腕の中にある最愛の女のたった一枚の衣の奥へすら進むことが許されず、かつて晶陵の温かな陽だまりの中でただの男として彼女を腕に抱き、唯一の妻としてその甘やかな温もりを分かち合えたあの日々が狂おしいほどに遠く感じられるものの、それでも俺は彼女の心を守り抜くため、その細い背中をただ固く抱きしめ続けるほかなかった。
◆◇◆
どれほどの時間、その切ない温もりを確かめ続けていたのだろうか。
やがて、ちちち、と微かな朝鳥のさえずりが夜明け前の薄青い光を切り裂いてゆくなか、窓の隙間から差し込む冷ややかな朝光が帳の奥を少しずつ白ませていき、俺はゆっくりと目を開けた。
腕の中に残る愛しい体温を、消えゆく幻を惜しむようにそっと抱きしめ直す。
一晩中ただ静かに彼女の鼓動を数え、背中の温もりを確かめることしかできなかったのは、最後の一線を越えないという天地神明に誓ったあの凄絶な約束を守り抜くために他ならず、渇きに魂を灼かれ、幾度も理性がはち切れそうになりながらも、己の飢えた本能を硬い鎖で縛りつけてどうにかこの冷たい夜明けまで耐え抜いたのである。
「……ん……」
腕の中で鸞が微かに身じろぎをし、長い睫毛を小さく震わせて目を覚ますと、やがて俺たちはそのまま起き上がり、朝の光が薄く差し込む部屋で静かに朝食の膳を囲むことになった。
鸞がこの洛華の後宮に入ってからというもの、夜は必ず彼女の横で眠り、朝食を共に摂ることだけは俺自身の絶対の決まりとしていたからだ。
「陛下、お粥が冷めぬうちにお召し上がりください」
給仕の手を退け、自ら白磁の器を運ぶ鸞の所作は完璧なまでに洗練されているものの、その穏やかな眼差しにも声音にもかつて晶陵の箱庭で過ごした頃の無防備な甘えは微塵も残っておらず、彼女は終始俺を「陛下」と呼び、一分の隙もない礼節をもって貴人という側室としての態度を決して崩そうとはしない。
「鸞、座ってくれないか。一緒に食べよう」
穏やかにそう声をかけると彼女は静かに衣の裾をさばいて音もなく席につくが、彼女が選んだのはかつて夫婦として肩が触れ合うほど隣に並んで座っていた位置ではなく、広い卓を挟んだ一番遠い対面の席であった。
手を伸ばせば触れられる距離でありながら、卓上に並ぶ白磁の器の間には目には見えない分厚い氷の壁がそびえ立っているようであり、伏せられた静かな瞳と微塵も乱れのない端座から放たれる、自ら引いた冷たい境界線を決して越えまいとする頑なな意志が、言葉よりも重くこの空間を支配している。
食事が終わり、俺は名残惜しさに胸を締め付けられながらも地味な玄色の衣を纏って静かに立ち上がった。
「……また、夜に」
「はい。いってらっしゃいませ、陛下」
そう囁きながら俺は卓越しに手を伸ばし、彼女の滑らかな黒髪と白粉のいらない真っ白な頬をそっと掌で撫でて手のひらに触れる繊細な温もりを記憶の奥深くに刻み込もうとするものの、鸞は静かに頭を垂れ、やはり完璧な臣下の一礼をもって俺を回廊へと送り出した。
静かな寝所に未練を残して背を向けて歩き出し、重厚な扉を開けて静まり返った朝の回廊へと足を踏み出せばそこはもう戦場であり、これから政務という名の皇帝の仮面を再び被って、魑魅魍魎が蠢く終わりのない泥沼へと覇王として戻らねばならないのだから。
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