第36話
微かに開いた窓の隙間から洛華の刺すような夜風が滑り込み、手元の帳を音もなく揺らしてゆくなか、卓上に置かれた白磁の茶器からは、かつて南苑州であの人と共に味わった花茶の香りが細い湯気となって立ち上っている。
膝の上に広げた書物へ視線を落としたまま滑らかな絹の頁をそっと指先でなぞれば、シュル、という微かな擦過音だけが、広大で静まり返った後宮の寝所へと空しく吸い込まれていった。
――『晶陵・陰氏の娘を、貴人に封ずる』
墨の連なりを視線で追いながらも脳裏に焼き付いて離れないのは、数日前に下賜された豪奢な詔の文言に他ならない。
貴人――それはいかに豪奢な絹衣や煌びやかな装飾を与えられようとも、決して皇帝の正当な妻ではないという冷酷な烙印。
かつて晶陵の河のほとりでたった一人の番になると誓い合ったあの日々は完全に息絶え、私は公式に陛下の側室として他人の背後に跪く身となってしまったのだと思い知らされる。
冷え切った指先で白磁の茶器を包み込み、温まりきらない一口を喉の奥へと流し込めば、飲み下す時のわずかな喉の圧迫感が、今の私の置かれた冷徹な現実を痛いほどに思い知らせてきた。
今、この深く冷たい夜の帳の中で、大渭国の覇者である陛下は私ではない他の妃の宮を訪れているはずであった。
天下を統べる皇帝としてこの国を盤石にするための皇統を繋ぐという義務を果たし、かつて己を救うために血を流した渭北の軍勢を慰撫して朝廷の均衡を保つため、彼は他の女たちと褥を共にしなければならないのだろう。
その事実を噛み締めるたび、もう永遠に諦めたはずの胸の奥底がキリキリと音を立てて軋み、握りしめた茶器の縁に爪が白く食い込んで呼吸が浅く乱れてゆく。
けれど、私は決して醜い嫉妬に狂って声を上げるわけにはいかない。
嫉妬は『七去』の罪。
あの人を己の愛で縛り付け、理不尽に妻子を遠ざける道理の暗い君主として万民から後ろ指を指させるわけにはいかないのだから。
万民を導く正しき覇者として歴史にその名を刻んでもらうためならば、私はこの身を焦がす屈辱すら甘んじて飲み干してみせる。己の浅ましい執着で二人の破滅を招くくらいなら、陰家の娘としての矜持を胸に、張り裂けそうな心臓の周囲へ分厚い氷の城壁を築き上げるしかなかった。
ゆっくりと息を吐き出して再び書物へと視線を戻すものの、どれほど理性で己を律して活字の羅列で心を埋めようとしたところで、私の耳は静寂に包まれた回廊の奥から響くはずのないあの足音を、暗闇の中で愚かにも探してしまっていた。
◆◇◆
やがて卓上の灯火が芯を焦がして小さく揺れ、白磁の茶器が完全に冷め切る頃。
そっと書物を閉じた私は夜の更ける速度に抗うのをやめ、幾重にも重なる淡い紅梅色の絹衣をさばいて独り、広く冷え切った寝台へと身体を横たえた。
無意識のうちに隣の空いた空間へとそっと手を伸ばしてみても、指先に触れるのはどこまでも滑らかで体温を持たない絹の冷たさだけであった。
(……今頃、彼の方は……)
己の浅ましさを切り捨てるように小さく息を吐き出し、伸ばした指先を手のひらへ深く食い込ませる。
あの日、却非殿の底冷えする敷石の上で私が突きつけ、天地神明にかけて誓わせた『密約』。
帝としての重責を背負い、他の女と血を分けた子をなすというのなら、私は陰家の娘としての最後の誇りに懸けて境界線を引くしかなかった。
彼を清廉な聖君として戴き、かつて南の陽だまりで笑い合ったあの愛おしい思い出を私だけの胸に閉じ込めておくために、自らの手を血に染める思いで枷を嵌めてみせたのだ。
彼の手足を縛り上げたはずの見えない鎖が、かえって私自身の首を真綿のようにじわじわと締め付けてくる。
今この瞬間も、彼が別の女を抱き、その肌に温もりを分かち合っているのだと思うだけで内側から血が噴き出すような痛みに苛まれるものの、それこそが自ら選び取った冷酷な掟に他ならない。
冷え切った敷布を指の関節が白くなるほど強く握りしめれば、底知れぬ夜の闇に私自身の魂がひとひらずつ削り取られ、音もなく摩耗していく感覚が身体を蝕んでいった。
暗闇の中でそっと目を閉じた私は、己の微かな心臓の音だけを聞きながら、いつ終わるとも知れない冷え切った孤独を静かに咀嚼し続けていた。
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