第35話
「俺がすべてをねじ伏せる、この力で……鸞を皇后の座に据えてみせる!」
夕闇に沈みゆく却非殿の冷たい石壁に、修羅と化した皇帝の絶叫が重く反響したかと思うと、陛下を取り囲む実の兄や耿敦様、耿翼様が一斉に息を詰めて硬直する。
建国の功臣たちを敵に回し、天下の理を捻じ曲げてでも私を皇后にするという、あまりにも狂気に満ちた暴論に他ならない。
部屋の隅々に先ほど郭氏が残していった甘く生々しい乳の匂いがまだ僅かに漂っていることが余計に現実の歪みを際立たせていくなか、その血を吐くような咆哮を聞いた私の内で張り詰めていた悲痛な糸が、静かに形を変え始めていた。
(ああ……。このままでは、この人は本当に、すべてを壊してしまう)
私を繋ぎ止めたいという、ただその一つの情愛のために。
かつて晶陵の陽だまりで共に笑い合い、万民を救うために戦ったあの優しかった彼の方は、今や私への執着に狂うあまり、この国を再び血の海に沈めかねない暴君へと堕ちようとしていた。
カラカラに乾き切った喉の奥で小さく息を飲み込めば、冷たい敷石の上で合わせた自分の指先が血の気を失って氷のように冷え切っているのを感じるものの、私の内側には自ら破滅の淵へと足を踏み入れようとする彼の方を何としても引き留めねばならないという、切実な熱が静かに宿り始める。
陛下がどれほど激しく叫ぼうとも、郭氏とあの赤子の生々しい存在をこの目で見てしまった以上、私たちの間には決して越えることのできない絶対的な壁がそびえ立っている。
彼の方を正しき覇者として守り抜くため血を吐く思いで突きつけた離縁すら絶対に許されず、それが逆に彼の方を暗君の道へと引きずり込んでしまうというのであれば。
(ならば、私自身が陛下を繋ぎ止めるための、鎖となるしかない)
静かに伏せていた面を上げ、狂乱の底で息を荒らげる彼の方を真っ直ぐに見据える私の瞳には、かつて惜しみない愛を注いだ妻としての熱情など存在しない。
自らの心を完全に凍らせてでも陛下の暴走を真っ向から塞ぎ止めようとする静かな光だけを宿し、私は薄暗い密室の中で陛下を射抜くように見つめ返した。
「……分かりました。陛下がそこまで仰るのなら」
絞り出した私の声はひどく静かで、けれどこの場にいる誰の耳にも鮮明に届くほど澄み切っていた。
その言葉を聞いて狂気に染まっていた彼の方の瞳にすがりつくような希望の光がふわりと灯る隣で、実の兄である陰識が「鸞……?」と信じられないものを見るように息を呑む。
「私が、この洛華に留まりましょう。陰家の娘として、後宮へ入ることをお受けいたします」
「鸞……! ああ、鸞……ッ!」
張り詰めていた糸が切れたように膝を折り、私の細い肩を抱きしめようとすがりつくように大きな手を伸ばしてくる陛下。
だが。
「――お待ちください」
触れようとするその熱い指先を静かな声でぴたりと制止した私は、宙で凍りついた彼の方の手をじっと見つめながら、己の魂を切り刻むような哀絶にして残酷な決意を言葉にする。
「離縁を認めず、私をこの後宮にお留め置きになるのであれば……陛下に、たった一つだけ。天地神明にかけて、どうしてもお守りいただきたいことがございます」
夕闇に沈む冷たい密室で自らの退路を完全に断ち切り、二人の未来を永遠に縛り付けるその悲痛な願いを一切の感情を排した冷酷な声で告げれば、一言、また一言と、理を尽くして突きつけられた制約が却非殿の重苦しい空気へとじわじわと溶け込んでゆく。
「それが……きみをここへ繋ぎ止めるための、『条件』なのか」
私の唇からすべての言葉が紡がれて静寂が戻った瞬間、陛下の口から絞り出されたのはひどく掠れ絶望にひび割れた声。
天下の万民を平伏させる覇王の威厳などもう欠片も残されてはおらず、私が突きつけた言葉の引き裂かれるような重みを状況とともに咀嚼した陛下は、まるで致命傷を負った獣のように力なくその場へ両膝を突いた。
「ええ。それが、私が『側室』としてこの後宮に留まるための、唯一の条件にございます」
冷たい敷石の上で背筋を真っ直ぐに伸ばし、私は彼の方を見つめて言い放つ。
「もし一度でも、陛下がその誓いを破られるようなことがあれば。その時こそ、私は今度こそ永遠に、陛下の手の届かぬ場所へと消え去りましょう」
「鸞……ッ!」
血を吐くような悲鳴を響き渡らせ、大きな両手で己の顔を覆いながら広い肩をガタガタと震わせている。
陛下がどれほど私を求め、そしてこの洛華へと私を召し寄せたのか、その執念の深さが痛いほどに伝わってくるからこそ、私が彼の方に突きつけた絶対的な一線は、陛下の心を千々に引き裂く最も無慈悲な楔となって突き刺さったのだろう。
傍らに控える兄も耿敦様たちも私が口にしたその頑なな条件に息を呑み、言葉を失って立ち尽くすばかり。
生涯ただ一人の妻を愛し抜いた両親の姿に学び、一夫一婦の誇りを守りつつ陛下を暗君に落とさないために私が選んだ決して譲ることのできない最後の一線なのだと、この場にいる誰もが理解していたからだ。
「……誓おう」
長い、永遠にも似た沈黙の果て。
顔を覆っていた手を下ろした陛下がその暗く虚ろな瞳を私へと向ければ、指をきつく握り込みすぎたのか、彼の方の掌からはじわりと赤い血が滲み出して敷石の上へと滴り落ちてゆく。
「きみがそれを望み、それで俺の傍に留まってくれるというのなら……。俺は天地神明にかけて、決して鸞が定めたその『線』を越えはしない」
血の滲むような、あまりにも痛ましい承諾。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、かつての陽だまりで笑い合っていた老虎との思い出が音を立てて完全に崩れ落ちてゆく。
「陰氏の娘、鸞。これより謹んで、皇帝陛下にお仕えいたします」
冷たい床へと再び両手を突いて臣下としての完璧な礼をとり、深く深く頭を垂れた私。
それは二人の間に、二度と取り払うことのできない絶対的な身分という名の檻が完成した瞬間でもあった。
◆◇◆
重厚な木扉が外側から静かに開かれると、遮断されていた遠くの兵たちの足音と共に冷たい夜風が密室へと流れ込んでくる。
ゆっくりと立ち上がった私は振り返ることなく、与えられた新たな檻――後宮の奥深くへと続く暗い回廊へと足を踏み出した。
(さようなら、私の愛しい人)
振り返ればそこで傷ついた彼の方を抱きしめてしまいそうになる己の弱い心を、自ら打ち据えるようにして進む私。
甘く生々しい乳の匂いが染み付いた却非殿を背に、父と母から授かった誇りだけを胸に抱き、孤独で冷たい後宮という名の檻へとたった一人で歩き始めた。
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