第34話
重厚な木扉が鈍い音を立てて閉ざされ、卓の上にはただ、甘く生々しい乳の匂いだけが取り残される。
郭聖通が去った直後、扉の向こうで息を潜めていた南苑州派の側近たちが重苦しい足音とともに再び室内へと足を踏み入れてくれば、私の隣へと静かに歩み寄り冷たい敷石の上へ深く膝をついたのは、兄の陰識であった。
分厚い扉が閉ざされた薄暗い石室のなか、私と彼の方を取り囲むように居並ぶのは苦渋の表情を浮かべる耿敦様と耿翼様、そして私の隣で静かに頭を垂れる兄の姿。
外界の喧騒から完全に切り離された閉鎖空間の底で、陰家の当主としての兄の言葉が、冷え切った空気を鋭く震わせた。
「……陛下」
そこに、かつて晶陵で幼馴染の兄貴分として親しく接していた頃の面影はどこにもない。
あるのは大渭国を統べる皇帝と、それに仕える完璧な臣下としての分厚い壁を築く、礼節に満ちた冷ややかな響きだけであった。
「晶陵・陰家の当主として、正式に離縁の儀をお認めいただきたく存じます。離縁の理由は、七去の『無子』をお使いください。六年もの間、一度も肌を合わせるどころかお顔すら見られなかったのですから、子などできるはずもないのは世の理ですが」
「……識、お前まで何を狂ったことを言うッ!」
「狂っておいでなのは、感情のままに法と理を捻じ曲げようとなさる陛下でございます」
激昂する彼の方に対し、兄の言葉には一片の揺らぎすら存在しない。
「誇り高き陰家の娘が、二人目の妻や、ましてや他人の後ろに跪く妾のような扱いを受けるわけにはまいりません。長く遠く離れておいででしたから、お忘れになられたのでしょう。我らの故郷・晶陵では、社会がどうあろうと一人の夫と一人の妻が基本。陰家も、そしてかつての劉家も、ただ一人の妻を愛し抜く家系であったはずです」
その言葉に含まれた鋭い棘に、陛下の広い肩がビクリと震える。
「遠征に合わせて陰家が差し出した資金や物資など、返済は無用にございます。先ほどの貴人様のように、我らは『兵』を援助できたわけではございませんので」
「識……ッ! 頼む、やめてくれ……!」
血を吐くような彼の方の懇願すら、兄の氷のような論理を止めることはできない。
「すでに立派な皇子様も存在し、後宮には多くの妃嬪がおられると聞き及びます。女性にはお困りではないでしょう。妹のことは心配いりません。あるはずもない『無子』という恥ずかしい汚名があろうとも、陰家の娘として縁談はいくらでもございます」
「やめろと……言っているだろうッ!」
兄の仮借のない言葉が、彼の方の胸の最も柔らかい部分を無情に抉っていく。
「妹君の劉寧殿は、婚約者である耿翼様が迎えに来られるまで、亡き我が友に誓って我が家が責任を持ってお守りいたします。しかし、我らが洛華へ送り届けることはいたしません。……今回の手続きが済み次第、我らは速やかに晶陵へ戻ります。未練がましく裂かれた縁に縋る真似はいたしません。二度と陰家の人間がこの洛華の地を踏むことはございません」
「戯言を言うな! 俺が手放すと言わない限り、離縁など絶対に認めぬ!」
理を尽くして説得する兄に対し、天下の覇者たる彼は「黙れ」と子供のように激昂し、感情論だけで反論を繰り返すばかり。
その時、室内に同席していた耿翼様が、苦渋に満ちた顔で静かに口を開いた。
「陛下……。陰殿の申されることは、大渭国の法と秩序に照らし合わせても、何一つ瑕疵のない正論にございます」
「翼、お前まで……ッ!」
激しい対立の火花が散る中、それまで固く拳を握りしめていた耿敦様が、突如として激しく床に両膝を叩きつける。
敷石に重々しい音が反響するなか、彼はそのまま額を床に擦り付けた。
「陰殿、奥方様……! 頼む、陛下を、彪を許してやってくれ! 見捨てないでくれっ……!」
大将軍であり、かつて晶陵で共に笑い合った耿敦様が、泥を這うような必死の声で叫ぶ。
「あの極寒の盟津で、全軍を救うために誇りを捨てて郭昌の娘を娶れと、彪に懇願したのはこの俺なんだ! 俺が、重婚を迫ったんだ……っ! 彪は何も悪くない。ただ奥方様を愛しながら、俺たちの命を繋ぐために地獄の泥を啜ったんだ! だから頼む、誇り高いお前たちに不条理を強いているのは分かってる。道理に合わねぇ懇願だってことも分かっている! だけど、彪から奥方様を奪わないでくれ、離縁だけはどうか思い直してくれ……っ!」
己が強いた過酷な決断で親友から愛する妻を奪ってしまったという深い罪悪感に苛まれ、太い首筋に青筋を立てて喉から血が滲むほどに声を枯らして這いつくばる大将軍の姿。
彼がどれほど引き裂かれそうな後悔を抱えながら泥にまみれて懇願しているのかが、その大きく波打つ広い背中から痛いほどに伝わってくる。
「……耿敦様、お顔をお上げください」
静かにそう言って身の内に一本の芯を通すように背筋を伸ばし、血の気を失った両手を膝の上で重ねた私は、彼の方を決して見ないよう硬い眼差しを耿敦様へと向ける。
彼の方がどれほど私を想い正妻を退けて私を守ろうとしても、耿敦様がどれほど自責の海に溺れ道理に合わぬ懇願を重ねようとも、私の覚悟が揺らぐことは決してない。
「兄の申す通りでございます。陛下、困難を共にしてくださった恩義を、忘れてはなりません。郭貴人は御子を授かり、大軍をもって陛下をお助けになりました。……私には、そのような功績など、何一つございません」
私を見つめる彼の彫りの深い顔が絶望に歪んでゆくものの、先ほど目の当たりにした彼女と赤子の生々しい存在――すでに彼との子を成した生身の人間たちをこの目で見てしまった今、私たちはもう、あの日の陽だまりには二度と戻れないのだ。
彼の方を真っ直ぐに見据え、私は限界まで張り詰めていた目尻から一筋だけ、音もなく涙をこぼした。
「陛下。私は、あなた様の妻にはなれません。どうか、離縁を」
私が絞り出したその言葉が夕闇に沈みゆく却非殿の静寂に深く深く吸い込まれていくと、その瞬間、私を見つめる彼の方の瞳からすべての光が完全に消え失せる。
底知れぬ漆黒の闇が、彼の眼差しを狂気へと染め上げてゆく。
「……嫌だ」
ぽつりと、掠れた声が彼の唇から漏れる。
「嫌だ! 離縁など、絶対に認めない……! 誰が何と言おうと、俺の妻は鸞だけだ! 鸞を皇后にする! 郭氏などではない、俺がこの天下の頂で、隣に立たせる妻はきみだけだッ!」
すべてをかなぐり捨ててでも私を繋ぎ止めようと血を吐くように叫ぶその姿は、万民を導くべき威厳ある覇者のものなどではない。
愛する伴侶を永遠に失う恐怖に理性を焼き尽くされ、ただ暗闇の底で泣き叫ぶ傷ついた獣のようで、私の胸を鋭く切り刻んでゆく。
けれど、あまりにも現実の情勢を無視したその狂乱の哀願すらも冷酷に切り捨てるように、私の傍らに跪く兄が間髪入れずに冷徹な声を突き刺した。
「お言葉ですが陛下、それはあまりにも不条理な暴論にございます」
「識……ッ!」
「先に妻となった事実がいかに重かろうと、家を継ぐ男児を産んだ女には及びませぬ。それが世の理――陛下も、よくご存じのはず。規律や礼儀を重んじる我が陰家として、すでに皇子様をお産みになられた郭貴妃を差し置き、子もおらぬ鸞を皇后に据えるなどという不道徳な暴挙、天地がひっくり返ろうとも容認はできません。そのようなことをなせば、鸞は道理を弁えぬ悪女と天下の謗りを受け、ひいては我が陰家までもが野心に目が眩んだ恥知らずと見なされます。何より、陛下ご自身が万民から理を外れた暗君として蔑まれることになるのです」
兄の仮借のない容赦なき正論に続き、床に額を擦り付けていた耿敦様が悲痛な声を震わせて叫んだ。
「そうだ、彪! 落ち着け! お前が今、即位の功臣であり、軍備拡張に多大な貢献をした渭北派の姫たる郭貴妃を蔑ろにしてみろ。せっかく繋ぎ止めた十万の兵が牙を剥き、国は再び血の海に沈むんだぞ! 前線でお前のために戦って死んでいった兵たちの無念を、また繰り返す気か!」
耿翼様もまた、暗い目をして深く首を振った。
「陛下、兄の言う通りにございます。渭北派の支援なくして、今のこの大渭国の朝廷は成り立ちませぬ。感情に任せてあの者たちを敵に回せば、戦火が再燃し、万民が再び泥を啜ることになります。それは、あまりにも無謀な空論にございます」
陛下を取り囲む南苑州派の忠臣たちによる、必死の包囲と説得。
かつて彼を救うために重婚を迫った耿敦様も、国政を見据える耿翼様も、誰もが彼の暴走を阻もうと巨大な壁となって立ちふさがる。
「黙れ! 誰が国を壊すと言った! 俺がすべてをねじ伏せる、この力で……鸞をその座に据えてみせる!」
夕闇が完全に落ち、光を失った密室に、劉彪の狂気に満ちた叫び声だけが重く反響し合う。
彼は私を繋ぎ止めるためなら、すべてを敵に回してでも、
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