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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第33話

――ジャラ、ジャラ……。


分厚い木扉の向こうから無遠慮に打ち鳴らされる金属の音が響くやいなや、私を強引に抱きすくめていた彼の腕が、ギリッと骨が軋むほど硬く強張ったかと思うと、次の瞬間には私を自らの背後へと隠すように素早く身を翻していた。




「陛下、中へ入らせていただきますわ」




ひときわ高く冷ややかな女性の声が響き渡り、押し留めようとする近衛兵たちの制止の声も虚しく、重厚な扉が乱暴に引き開けられる。

薄暗い密室へ鋭い外の光とともに踏み込んできた女が纏う、重い絹衣と無数の眩い金細工。一目見ただけで格の違いを嫌というほど見せつけてくるその豪奢な姿こそが、北の果てで彼と結ばれたという絶対的な『正妻』その人なのだと、私の本能が恐ろしいほどに悟る。




「……陛下。このようなお部屋で、田舎からいらした客人をお待たせしているとは」




私を外界から隠そうと立ちはだかる彼の肩越しに、金装飾の擦れる音とともに女主人の声が降り注ぐなか、床にひざまずく私を見下ろした彼女は、あえて見せつけるようにして己の腕の中に抱く柔らかい布のふくらみを抱き直してみせた。




「ご挨拶が遅れました。陛下……彪(ヒョウ)様の妻の郭聖通(カク セイツウ)と申します。御覧の通り、私にはすでに陛下との尊き結晶がおりますの。正妻としてこの子とともに陛下をお支えしていくのが私の務め。……田舎の客人には、私から相応のねぎらいをしてお返しいたしますわ」




その言葉の響きすら今の私にとっては鼓膜の表面を滑るだけの遠いざわめきに過ぎず、焦点は彼女の顔に向かうこともなく、ただ腕の中で大切に抱き抱えられている小さな命の輪郭へともう恐ろしいほどの力で吸い寄せられてゆく。


ふにゃり、と。

冷たい金属音の隙間からひどく無垢で頼りない泣き声が微かに漏れ聞こえてくれば、布の奥で動く彼と血の繋がった新しい命の気配に指先から急速に熱が奪われ、全身の血流がひとところに凍りついてゆくような感触に襲われる。

見えないふりをしてきた別の妻の存在、そして、彼と彼女の間で確かに育まれた新しい家族という血の通った現実が、取り返しのつかないほどの重さとなって眼前に突きつけられ、立っている足元の床すら粉々に砕け散っていくようだった。


カラカラに乾き切った喉の奥で、呼吸の仕方を忘れたかのようにただ細く冷たい空気が擦れるのみ。




(ああ……。本当に、終わってしまったのね)




今こうして外界の悪意から私を庇おうと立ちはだかる逞しい背中の温もりも、先ほど彼が絞り出した血を吐くような愛の言葉すらも、この新しく生まれ落ちた無垢な赤子の前ではもはや何の意味も持ちはしない。

この小さな命こそが、彼が私を見捨てて北の軍勢を得て生き延びたという何よりの揺るぎない証拠であり、私が入り込む隙間などこの世界のどこにも残されてはいないのだと残酷に思い知らされる。

内側で完全に何かが断ち切られた絶望の刹那、目の前を塞ぐあの方の広い背中が微かに、けれど小刻みに震えだしたかと思うと、その硬い肩から空気を圧殺せんとする激しい覇王の気配が放たれた。




「郭貴人。誰の許しを得てここへ足を踏み入れた」




低く地の底を這うような声音が却非殿(きゃくひでん)の空気を一瞬にして凍らせたものの、それは決して声を荒らげたわけではなく、むしろ静かに極限まで抑え込まれた覇王の威厳そのもの。

逆らう者の呼吸すら奪うほどの圧迫感が部屋の隅々にまで満ちてゆくなか、立ちはだかる彼の広い背中から肌を刺すような怒りと殺気が立ち上っているのが痛いほどに伝わってくる。

だが、彼がその覇気でどれほど私を庇おうとしてくれようとも、耳に届くその冷徹な声はひどく遠く、私にはまるで深い水底から水面の出来事を眺めているかのようにしか感じられない。




「まあ。陛下、そのようなお声では、この子が驚いてしまいますわ」




天下を統べる皇帝の絶対的な威圧を正面から受けてなお、郭氏は少しも怯むことなくむしろ声に余裕の笑みすら滲ませてみせる。

背後にある十万の軍勢という強大な武力、そして何より『皇位継承者を産み落とした』という絶対的な事実が、彼女の足元をこれほどまでに盤石なものにしているのだろう。


その時、彼女の胸元から突然火がついたような高い赤子の泣き声が上がり、却非殿の張り詰めた静寂を鋭く引き裂く。




「ふぎゃあ、うわあああんっ……!」




手足をばたつかせて泣きじゃくる小さな命を前に、郭氏はやれやれと肩をすくめ、腕の中の赤子を優しく揺すりながらあやすようにその柔らかな頬を撫でてみせた。




「ほら、よしよし。お父様がそんなに恐ろしいお声を出すから、彊(キョウ)が泣き出してしまいましたよ。お父様は怖くありませんからね、よしよし……」




お父様。




その残酷な三文字が私の耳朶を打った瞬間、胸の奥へ鋭い氷の刃が根元まで突き立てられたかのように心臓の拍動が完全に止まってしまう。

かつて南の小さな庭園で花茶を飲みながら私の膝で微睡んでいた優しかったあの人はもうこの世界のどこにもおらず、目の前に立つ強大で冷徹な覇者は別の女を娶り、その腕に抱かれた新しい命を慈しむ『父親』として、私とは全く交わらない別の人生を生き始めている。

そんな逃げ場のない現実が、言葉にならない絶望となって私の魂を深く打ち据えてゆく。


ふわりと空気が動き、冷たい密室の中に郭氏が纏うきつい麝香の香りが流れ込んでくるものの、私の内側の城壁を根底から打ち砕いたのは、その香に混じって微かに漂ってきた別の匂いに他ならない。


生々しく、どこまでも甘い、赤子の乳の匂。


私以外の女と肌を重ね、吐息を交わし、そうして生み出された新しい命が確かに息づいているという生々しい証。

かつて二人きりの小さな家で共に白髪になるまで生きようと誓い合ったささやかな祈りはすべてこの甘い匂いに塗り潰され、私の与り知らぬ別の女の腕の中で完璧な現実となって完成してしまったのだと思い知らされる。

その匂いを肺の奥へと吸い込んだ瞬間、私が彼との間に辛うじて残していた二人の聖域は、音を立てて完全に崩壊していった。




「……帰りましょう、皇子。ここはひどく冷え込みますからね。田舎からの客人にも、存分に洛華(らくか)の威容を味わっていただきましょう」




女が勝ち誇ったように衣を翻し、ジャラジャラと金装飾の音を響かせながら赤子を抱いて悠然と部屋を去ってゆくと、再び無慈悲に閉じられた重厚な扉の奥には、怒りを押し殺したまま荒い息を吐く彼の背中と、床の敷石から目を離せない私だけが残される。

彼がその広い背中でどれほど私を庇ってくれようとも、あの無垢な泣き声と『お父様』という響き、そして甘い乳の匂いだけが、私へともう逃げ場のない決定的な真実を無残に突きつけてくる。




(ああ……。私の入る隙間など、もうどこにもないのだわ)




彼にはもう守るべき絶対の未来があり、北と南を繋ぐべき新しい命が生まれ落ちてしまった以上、もしも私が己の愛に執着してここに留まり彼の傍らに立つことを望めば、彼は理不尽に正当な妻子を遠ざける道理の暗い君主として万民から後ろ指を指されることになってしまう。

ただ一人の番を愛し抜いた父と母の教えを胸に、彼をこの世で最も輝かしい聖君として歴史に刻むためにも、私は自らこの手を解いて彼を永遠に手放さなければならないのだ。

その静かで冷たい覚悟だけが、張り裂けそうな胸の奥で硬い石のように固まっていくのを、私はただ為す術もなく感じ続けていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


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また明日19:00にお会いしましょう!

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