↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/80

第32話

離縁。

その二文字が冷たい敷石に吸い込まれた瞬間、却非殿(きゃくひでん)の空気は、万物を凍てつかせるような極寒の底へと沈み込んだ。


絞り出すように響いたそのひどく冷たい言葉が耳を打った刹那、俺の裡で天下を統べる皇帝としての強靭な理性が、音を立てて無惨に決壊してゆく。




「……鸞(ルァン)、きみは、今……なんと言った?」




喉の奥から絞り出した声は自分でも驚くほど情けなく震えており、気がつけば俺は、大渭国を統べる覇者としての威厳も誇りもすべてかなぐり捨て、彼女と同じ冷たく硬い敷石の上へと無様に両膝を突いていた。

そして、床に伏して俺を拒絶しようとする彼女の、折れてしまいそうなほど華奢な両肩を、這いつくばるように掴み寄せる。




「離してくださいませ……陛下」




びくりと身を強張らせた彼女がついにその顔を上げれば、氷のように冷たく澄み切った琥珀色の瞳が真っ直ぐに俺を射抜いてくる。

その瞳の奥底に映っていたのは、天下を統べ万民を傅かせる偉大なる昭虎帝(しょうこてい)の姿などではない。かつて生みの母からすら忌み嫌われたように、たった一人の愛する女から完全な拒絶を突きつけられ、恐怖のあまり顔を醜く歪ませた哀れな『災厄の子』の姿そのものであった。




「俺が……俺がどれほどの地獄を幾度も走破してきたか、お前は知らないんだ……ッ!」




掴んだ肩のあまりの細さに無骨な俺の手がガタガタと激しく震え出すなか、彼女の柔らかな骨を砕いてしまわないよう必死に力を抑え込んでいるせいで、行き場を失った指先が己の掌に深く食い込み、じわりと生ぬるい血が滲んでゆく。




「四十二万の大軍に囲まれた絶望の底で、泥水を啜って生き延びたのも……! 凍てつく雪の中で膝を折り、不浄な重婚を受け入れる決断をしたのも……! すべては、お前にもう一度会うためだった!」




血を吐くような絶叫が却非殿の静寂を木端微塵に叩き割ろうとも、南と北の妻、あるいは法と秩序など、今の俺には何の価値も持ちはしない。俺の魂はあの日、晶陵(しょうりょう)の河のほとりで生涯を共にしようと誓い合った瞬間から、彼女なしでは一秒たりとも息ができないのだから。




「天下などどうでもいい、皇帝の座などいつでも捨ててやる! だから……お願いだ、鸞」




まるで親に捨てられるのを恐れる迷子のように彼女の細く冷たい身体を自らの胸の中へと強引に掻き抱けば、重厚な龍袍(りゅうほう)の下で、俺の心臓が狂ったように警鐘を鳴らし続けていた。




「俺を見捨てないでくれっ……! お前がいなければ、俺は……俺は生きていけないんだっ……!」




覇者としての矜持も理性も削げ落ち、今の俺の口から溢れ出るのは、ただ一人の女の愛にすがりつく血の滲むような哀願ばかり。

己のすべてを曝け出し、正気を失った修羅のように狂おしく命乞いをする悲痛な声だけが、誰の立ち入りも許されぬ冷え切った密室のなかでひどく虚しく反響していく。




「鸞、きみがいない世界など、俺には何の意味もない……ッ!」




腕の中に閉じ込めた彼女の身体はひどく冷たく、そして酷薄なまでに硬く強張ったまま。

俺がどれほど血を吐くような叫びを上げようとも、彼女は決してかつてのように俺の背中へと腕を回してはくれず、その揺るぎない拒絶の姿勢が俺の裡にある狂気的な焦燥をさらに激しく煽り立てる。


絶対に、もう二度とこの手から放すものか。

たとえ彼女が俺を憎もうとも、無理やりにでもこの重厚な龍袍の奥深くへと包み込み、外界のすべての悪意から遮断して俺だけの檻に永遠に繋ぎ止めてやる。

理性を完全に失い、半ば狂乱状態となった俺が彼女の華奢な身体をさらに深くねじ伏せようとした、まさにその時だった。


――ジャラ、ジャラ……ッ。


分厚い木扉の向こうから冷え切った却非殿の静寂を無惨に引き裂く、ひどく耳障りな音が響き渡る。

歩みを進めるたびにこれ見よがしに打ち鳴らされる、じゃらじゃらとした豪奢な金装飾の音。それがいったい誰の傲慢で俗悪な足音であるかなど、姿を見ずとも俺には嫌というほど分かっていた。




「――陛下」




扉の向こうからひときわ高く冷ややかな女主人の声が響き渡れば、濃い麝香の匂いを纏って現れたその女の前では、扉の前に控えていたはずの近衛兵たちでさえ押し留めることなどできなかったのだと悟る。




「南苑州(なんえんしゅう)からの客人とは、どなたですか?」




その声を聞いた瞬間、腕の中にいた鸞の身体が弾かれたように大きく震えたのがわかった。

先ほどまで俺を冷静に突き放そうとしていた彼女の細い身体が、今はただ小刻みに震え、己の身を庇うように俺の腕の中でさらに硬く縮こまってゆく。


ゴボリ、と。

俺の腹の底から、どす黒く煮えたぎるような重い殺意が湧き上がる。

俺がようやく手に入れたたった一つの安息、泥に塗れた俺の魂を救い上げてくれる唯一の聖域を土足で踏みにじろうとする侵入者への、決して抑えきれぬ激情と憤怒。




「……ッ」




奥歯が砕けんばかりに強く噛み締め、俺は腕の中の鸞をさらにきつく抱きすくめた。

だが、扉の向こうでジャラジャラと鳴り続ける不快な黄金の音は、俺たち二人を隔てる逃げ場のない現実の障壁として、容赦なくこの密室を包囲し始めていたのである。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります……!

(※評価は後からでも変更・取り消しが可能です!)


また、【ブックマーク】に追加していただけますと、更新後すぐに続きをお読みいただけます。


また明日19:00にお会いしましょう!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。