第31話
大気をびりびりと震わせるような重厚な木扉が、背後で重々しく閉ざされる。
バタン、と容赦のない硬い響きが静寂に落ちて私と外の世界を完全に分断すれば、そこは帝都・洛華の南宮、却非殿。天下の最高権力者たる皇帝の、誰の立ち入りも許されぬ最深の私室であった。
「陛下、これは――」
「下がれ。誰も入れるな」
戸口の近くに控えていた側近の耿敦たちが驚愕に目を見開く気配が扉越しにも生々しく伝わってくるものの、彼らを一喝した低く平坦な声音には、もはや何人たりとも逆らうことの許されない絶対的な覇気が満ち満ちている。
足早に立ち去る側近たちの足音が廊下の向こうへと遠ざかれば、部屋の中へ再び戻ってきたのは息が詰まるほどの深い静寂。
かつて晶陵で包まれていた温かな陽だまりとは全く異なる、冷え切っていながらも甘く重い高級な沈香の香りが、容赦なく私の肺の奥を塞ぎにきた。
ふわりと私を抱き抱えていた腕の浮遊感が消え去り、私が逃げ出さぬよう慎重な手つきでそっと床へと下ろしてくれた瞬間。
自由になった身体を彼へと振り返らせることもせず、私はそのまま滑らかな紅梅色の衣をさばいて、冷たく硬い敷石の上へ静かに両膝をついた。
「……陰氏の娘、鸞。昭虎帝陛下に拝謁いたします」
薄い上衣を透かして容赦なく両膝を抉るような冷涼な床の凍てつく感覚こそが、私に己の立場と果たすべき約束を痛いほど思い出させてくれる。
深く頭を垂れた私の視界に入るのは、金糸の龍が激しくのたうつ重厚な玄衣の裾と、そのすぐ傍らにある旅の泥を落としたばかりの豪奢な皇帝の履物だけであった。
(もう、私はあの方の妻ではない。ただの、一人の臣民なのだから)
両膝から伝わってくる確かな底冷えが、ただ一人の相手を生涯愛し抜いたお父様とお母様の後ろ姿を痛いほど思い出させるなか、二人の妻というあり方を決して許さぬ陰家としての厳格な誇りが胸をよぎる。
なにより彼を道理に暗い暗君に堕とさないためにも、私は今ここで床の紋様だけを見つめて彼を突き放し、過去の愛を完全に視界から遮断せねばならなかった。
「鸞……何をしている。立ってくれ、そんな冷たい床に膝をつくんじゃない」
頭上から降ってきた激しい焦燥を孕んだ掠れた声には、先ほど臣下を一喝した覇者としての冷酷さはすっかり鳴りを潜めており、ただ私だけに向ける痛ましいほどの切実さだけが色濃く滲んでいる。
不意に私の肩を掴もうと大きく無骨な手が伸びてくる気配を感じ取ったものの、かつて幾度も優しく抱きしめ不器用に髪を梳いてくれたあの愛おしい温もりを宿す掌が触れる直前、私は滑り込むようにしてさらに深く身を縮める。
静かに、けれど決定的に彼の接触を避けてみせれば、伸ばしかけたあの方の指先が何もない虚空でピクリと凍りついた。
頑なに伏せた姿勢のまま、ただ床の規則的な紋様だけを見つめ、一切の私情を殺した声を紡ぎ出す。
「滅相もございません、陛下。此度は拝謁の栄誉を賜り、心より感謝申し上げます」
親しげな愛称も、あの水榭や寝室で交わした甘く溶けるような熱い夜の記憶すらも、すべてはこの却非殿の冷たい敷石の下へ永遠に葬り去らねばならない。
それこそが私を深く愛してくれた彼を天下の覇者として守り抜くための、もはや私にできる最後にして最大の愛の証明なのだから。
しんと静まり返った却非殿の空気を支配する重く冷たい見知らぬ香りは、かつて晶陵の小さな水榭で立ち上っていたあの温かく懐かしい白檀の香りとは決定的に異なる。
私の鼻腔を塞ぐその沈香こそが、十万の軍勢を率いて血と泥の荒野を支配してきた者だけが纏うことの許される、冷徹で威圧的な覇者の香りそのものであった。
甘く溶けるような熱い夜を交わしたあの日からどれほど過酷で長い歳月が流れてしまったのかと思いを馳せれば、私の知る優しいあの人はもうここにはいないのだと思い知らされる。
全く別の遠い存在になってしまったのだという冷酷な現実をその見知らぬ香りだけで突きつけられるようで、私の胸の奥は鋭く軋むほかなかった。
「鸞……」
頭上から降ってくる私を呼ぶ低く掠れた声は、覇者としての冷酷さを完全に削ぎ落としており、ただ痛ましいほどの優しさと焦燥だけをひどく孕んでいる。
「なぜそんなふうに呼ぶ。なぜ、そんな他人行儀にするんだ。……頼むから、顔を上げてくれ」
ザッ、と床を踏みしめる重い足音が近づいて私の目の前へ金糸の龍がのたうつ重厚な玄衣の裾が迫れば、再びあの方の手が伸ばされる気配がした。
それでも私は頑なに視線を敷石の紋様へと固定したまま、自らの心に築いた氷の城壁をさらに冷たく、そして硬く研ぎ澄ませてゆく。
(私は、ただ貴方が生きていてくれれば、それだけで……満足だったのです)
戦死の凶報に絶望したあの日、もしも貴方様が再びこの現世へと生還されるのならば己の幸せなどすべて天へ返上すると、私は血を吐くような思いで祈りを捧げたのだ。
その切実な誓いが叶えられ、あの方がこうして真の覇者として天下に輝く今となっては……私がこれ以上の幸福を貪ることなど神と天の理に背く強欲でしかない。
「陛下……」
震えそうになる喉を陰家の娘としての矜持で冷酷なまでに締め付け、一切の私情を殺した声を紡ぎ出す。
「陛下には、すでに真定王の娘御でいらっしゃる郭氏という、渭北の軍勢を後ろ盾に持つ、天下万民から広く認められた揺るぎなき正妻がおられます。国を支える陣営のためにも、大渭国の次代を担う、尊きお世継ぎも成されました」
私の言葉は、冷え切った密室の静寂をカミソリの刃のように鋭く切り裂いてゆく。
「私が見つめてきたのは、生涯ただ一人の相手だけを愛し抜いた両親の姿だけ。二人の妻を侍らせるような不浄な関係を許容することなど、陰家の娘としての誇りが決して許しはいたしません。……何より、天下の覇者たる貴方様を、一人の女への情に溺れて国法を歪めた『暗君』として歴史に汚名を残させるわけにはいかないのです」
「鸞、きみは――」
「お願いでございます、陛下」
さらに深く冷たい床へと額を寄せ、私は自らの喉を絞める決然とした言葉を希う。
「どうか私に、正式な離縁を。私をこの洛華から、晶陵へと帰してくださいませ」
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