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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第30話

老虎(ラオフー)との、永遠の別離……。

そんな哀絶な決意を乗せ、単調な轍の音を響かせていた馬車が、幾日もの過酷な旅程を経て微かにその速度を落とし始める。車窓の隙間から差し込む光が荒涼とした土の色から整然と区画された石畳の照り返しへと変わってゆけば、そこはもう中州(ちゅうしゅう)・洛華(らくか)。かつて私の隣で無邪気に笑い合っていた男が、いまでは大渭国を統べる『昭虎帝(しょうこてい)』として君臨する絶対的な権力の座であった。その巨大な都の威圧的な気配が、肌を刺すような冷たい風とともに狭い車内へと容赦なく流れ込んでくる。


ゆっくりと背筋を伸ばし、私は己の姿勢を完璧なまでに正した。

生前にお父様が魂へ刻み込んでくれた『常に慎み深く、決して目立つことなくあれ』という陰家の教えだけが、この冷ややかな風に震えそうになる私の背を今も真っ直ぐに支え続けてくれている。


もしも私がここで覇者の妻という輝かしい座に固執し、醜く泣き喚いて渭北(いほく)の正妻と争うような真似をすればどうなるであろうか。

二人の妻を持つという重婚の事実が天下に知れ渡ることで、皇帝の威光へ拭いがたい傷をつけてしまうのは火を見るより明らかだ。だが、私が最も恐れているのは、己自身が汚名を着ることなどでは決してない。




(私がここで少しでも涙を見せてしまえば……あの人は、私を捨てることなど絶対にできない)




かつて誰よりも深く、激しく私を愛してくれた人。

たとえ過去に置いてきた妻であろうとも、私が悲しむ姿を見れば、優しかったあの方はひどく苦しみ、己の立場や法を曲げてでも強引に私を守ろうとするやもしれない。

けれど、それでは駄目なのだ。天下を統べる皇帝が一人の女への情愛のために国法を歪め、渭北との同盟を危うくしてしまえば、彼は万民から非難される暗君へと堕ちてしまう。彼が血の滲むような思いで築き上げた偉大な覇業へ、私という存在が致命的な傷をつけてしまうことになるのだから。




(――彼を、暗君にしてはならない)




膝の上で組み合わせた両手へ、ぎゅうっと渾身の力を込める。

爪が手の甲に深く食い込み、血の気を失った指の関節が白く浮き上がろうとも、その鈍い痛みすら胸の奥底で吹き荒れる悲鳴に比べれば何の意味も持たなかった。

私が身を引き、正式な離縁を希うこと。それこそが、彼を絶対的な覇者として輝かせるために、妻としてしてあげられる最後のことなのだから――。


薄暗い車内で真っ直ぐに前を見据え、潤みそうになる瞳から絶対に一滴の涙も落とすまいと大きく目を見開く。

ただ一人の妻だけを生涯愛し抜いたお父様の後ろ姿を脳裏に描き、二人の妻を許容しないという譲れぬ矜持を守り抜くため、今、私の内側には決して崩れることのない氷の城壁が完璧に築き上げられてゆく。己の魂を切り刻むような哀絶な決意を胸に秘めながら、私はただ静かに、自らの首を絞めることとなる運命の地への到着を待ち受けていた。


ゴトゴトと重々しい音を立て、車輪が都の硬い石畳を踏みしめてゆく。

御簾の隙間から吹き込んでくる風は南苑州(なんえんしゅう)の湿り気をすっかり失ってひどく乾ききっており、肌を刺すようなその冷たさが、私の冷え切った頬を無情に撫でていった。


向かいの席に目をやれば、兄が沈黙を保ったまま彫像のように静かに目を閉じている。

すべてを見通すような兄の微動だにしない頑なな佇まいと張り詰めた空気からは、これから私が下そうとしている決断の重さ、そして家門の尊厳を守るための覚悟が、言葉を交わさずとも痛いほどに伝わってくる。




(かつて、神は私の切実な願いを確かに聞き届けてくださった。彼を生かして、再びこの現世へと帰してくださった。……ならば、私もまた、その代償として神に誓った約束を果たさねばならない)




あの方の戦死という誤報に絶望したあの日、『彼が生きて戻るなら自分の幸せはすべて捨てる』と天へ血を吐く思いで誓った。

その神聖な祈りが叶い、あの方は生きて天下の頂点に立たれたのだ。ならば今、もう一人の正妻の存在に泣き喚いて家門を乱し、重婚という汚名であの方の威光を傷つけるような真似は決して許されはしない。

膝の上で重ね合わせた手が微かに震え、指先に食い込む自らの爪の鋭い痛みだけが、泣き出しそうになる弱い心を辛うじて引き留めている。


私にとっての『ただの夫』であった、あの優しく穏やかだった人は、もうこの世界のどこにもいない。

これは、彼が真の覇者として天下を治め、万民を救うためにどうしても必要な犠牲なのだ。


今日こそ皇帝陛下へ正式な別れを告げ、私はその手から永遠に離れよう。

あの方を道理に暗い暗君にさせず、非の打ち所のない聖君として歴史に刻むことこそが、一人の妻として私が彼に捧げることのできる最後にして唯一の、愛の証明なのだから。

胸の内でそう静かに自分自身を説き伏せていた、まさにその時だった。


馬車が城門をくぐり、洛華の城内へと入ったその瞬間――。

突如として外から鼓膜を劈くような馬の嘶きが響き渡り、近衛兵たちの狼狽した怒号が幾重にも重なり合う。ガガガッ、と凄まじい音を立てて車体が激しく揺れ、急停止した。




「何事だ」




向かいに座る兄が瞬時に目を開いて鋭い声を放ち、腰の剣へと手をかけた、その直後。


バタンッ!


重厚な馬車の扉が外から抗いがたい強大な力によって一気に引き開けられ、途端に暗い車内へと眩い昼の光が激しく差し込んでくる。

逆光のなか、その輝きを背にして立っていたのは、ひとつの巨大な影であった。


金糸の龍が激しくのたうつ、重厚な玄衣の戦袍(ひたたれ)。

それが誰の纏う高貴な衣であるか私の理性が理解するよりも先に、馬車の中の空気が一瞬にして凍りつくような圧倒的なまでの威圧感が、全身の肌を激しく打ち据える。


万民を統べ、ひざまずかせる冷徹な聖君の貌。

六年という月日はかつての穏やかな青年の面影から一切の甘さを削ぎ落とし、過酷な戦場を駆け抜けてきた男としての圧倒的な威厳と、息を呑むほどの精悍な美しさをその輪郭へ深く刻み込んでいる。だが、逆光に浮かび上がるその彫りの深い顔の、すべてを呑み込むような昏い瞳の奥には、情熱と暗い執着の火がありありと揺らめいていたのだ。




「――やっとだ」




静かな、しかしひどく切実な熱を孕んだ低い声が、狭い馬車の内に響き渡る。

その懐かしくも恐ろしい響きを耳にした瞬間、私の呼吸は完全に止まってしまった。彼がゆっくりと巨躯を折り曲げるようにして狭い空間へと足を踏み込んでくれば、その一歩ごとに押し潰されそうなほどの重圧が私を絡め捕ってゆく。




「陛下……! お待ちを、妹は――」




異変を察し、私の盾となろうと兄が咄嗟に身を乗り出した。

陰家の守護者である兄の鍛え上げられた素早い動き。だが、それすらも、彼から放たれた次の一言が静かで絶対的な威厳をもって容易く縫い留めてしまう。




「どいてくれ、識」




そこに一切の容赦はない。

何人たりとも俺とこの女との間に割り込むことは許さないという、覇者としての絶対的な皇帝の意志の前に、兄の動きが一瞬にして硬直した。




「あっ……!」




悲鳴を上げる間すらなかった。

私の方へと伸ばされてきた彼の大きな手は、乱暴さなど微塵も感じさせないほど滑らかで流麗な動きで私の細い腕を捉えると、決して逃げられないほどの凄まじい力強さで座席から私をきつく引き寄せる。

龍袍(りゅうほう)の硬く重厚な絹擦れの音が耳元で響いたかと思うと、次の瞬間には私の身体はふわりと宙に浮き上がっていたのである。


自分を取り囲む多くの近衛兵や文武百官の驚愕に満ちた視線など、彼は一切憚ることなどしない。

ただ、私の身体をその腕の中に、深く、深く抱き込んだのだ。




「降ろしてくださいませ……!」




唐突に宙へと浮いた身体を捩りながら、私は震える声で必死に懇願する。

これ以上人々の前で重婚の汚名を晒すわけにはいかないと、父から授かった矜持を胸に彼を拒絶しようと、その硬い胸板を両手で押し返そうと試みた。

だが、私の腰をがっしりと抱え込んでいる彼の逞しい腕は、まるで大岩のようにびくともしない。むしろ私の微弱な抵抗を許さぬとばかりに痛いほどきつく引き寄せられ、身体の骨が軋み、喉元が詰まる。




「……お前を手放すことなど、もう二度とない」




頭上から降ってきた声は、すべてを拒絶する氷のように静かで、すべてを焼き尽くす炎のように熱かった。


周囲を取り囲む冷たい槍を携えた武装近衛兵たちも、洛華の城内に控える無数の官吏たちも、皆一様に息を潜めて地に額を擦り付け平伏したまま。誰一人として、この皇帝の異様な光景に声を上げる者などいない。

金糸の龍を纏うこの男こそが天下の絶対者であり、その意志こそが絶対の法であるという残酷な現実が、逃げ場のない重圧となって私の全身へのしかかってくる。


ぴたりと密着した肌を通して、ドクン、ドクンと彼の激しく狂おしいほど高鳴る心音が伝わってきた。

恐る恐る見上げれば、重厚な玄衣に包まれた、別れた日よりさらに精悍さを増した顔立ちがすぐ間近にある。


かつて水榭(あずまや)にある庭園で私の膝を枕に眠っていた夫の面影は、もうどこにもない。

天下を統べる龍の瞳――すべてを呑み込むような暗い瞳の奥で、ただ私への凄まじい執着だけが昏く静かに燃え盛っている。




――私の、愛しい老虎。




どうして私たちは、こんなにも残酷な再会を果たしてしまったのだろう。

陽だまりの中で笑い合い、二人でお茶を飲み交わしていたあの幸せだった日々には、もう二度と戻ることはできない。

ただ、それがひどく悲しかった。

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