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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第29話

晶陵(しょうりょう)にある陰家の応接室は、皮膚を刺すように張り詰めた重い沈黙に包まれていた。


卓の上に置かれたのは、黒漆と金で彩られた勅書。『直ちに帝都・洛華(らくか)へ上京せよ』と墨をたっぷりと含んだ力強い筆致で刻まれた絶対的な命令を前に、私の指先は淡い紅梅色の絹衣を固く握りしめたまま、静かな震えを止めることができずにいる。




「……お断りいたします」




絞り出すように発した私の拒絶に、使者として訪れた武官が苦々しく眉をひそめた。




「なりません、奥方様。これは皇帝陛下からの絶対の勅命です。天下を統べる天子の命に背くことは、陰家そのものへの不敬罪にも問われかねません」




「それでもです」




顎を引き、私は使者を真っ直ぐに見据える。

聞こえ渡る風の便りは、彼が北の地で他家の令嬢を正妻に迎え、すでに若き跡継ぎまでも成したと告げていた。遠い雲の上に昇りつめ、万民を率いる絶対的な覇者となった今のあの方は、もはやかつて晶陵の陽だまりの中で穏やかに微笑んでいた『老虎(ラオフー)』ではないのだ。そのような尊い御身となった彼が、南の田舎に置き去られた過去の女など今更呼び寄せるべきではないというのに。




「今の陛下には、立派な正妻と跡継ぎがいらっしゃいます。そこに私がのこのこと顔を出せば、家門に不要な波風を立てるだけ。それに、陛下が南にも妻を残したまま重婚状態にあると世間に知れ渡れば、皇帝のご威光に泥を塗ることになります」




「そのようなことは……」




「それに、女が己の護衛もなしに遠方の都へ赴くなど、名門たる陰家の娘の振る舞いとして許されることではありません」




一歩も引かない私に対し、武官が苛立たしげに唇を開きかけた、その時だった。




「――護衛ならば、私が務めよう。陰家の当主としてな」




背後から響いた冷徹な声に振り返れば、兄が玄色の衣の袖に腕を組みながら、静かに応接室へと入ってくる。

兄様、と声をかける私の動きを手で制し、陰識(イン シキ)は卓の上の勅書を冷ややかに見下ろした。




「鸞(ルァン)。お前の言う通り、今更彼の方の元へ行くことは、陰家の誇りにかけても許しがたい。だが、今の法の下では、妻の側から一方的に離縁を成立させることはできないからな」




兄の言葉が、冷たい氷の刃となって私の胸の奥を深く突き刺してゆく。

『七出』の過酷な掟。どれほど深く愛していようとも、決して共に並び立つことの許されないあの方から妻としての籍を正式に切り離すためには、夫である皇帝からの正式な手続きを経るほかに道はなかったのである。




「行くしかない、鸞。直接陛下の御顔を拝し、陰家の名において、お前との離縁を成立させるよう正式に願い出よう。私が同行し、必ずお前の尊厳を守り抜いてみせる」




そこに一切の激しい感情はなく、あるのはただ兄として、当主としての揺るぎない覚悟のみ。

胸の奥の熱をすべて吐き出すように深く息を吐ききり、私はゆっくりと視線を落とすと、微かに震える指先でその重々しい勅書を静かに受け取ったのだった。




◆◇◆




それから数日後。洛華へと向かう馬車の狭い空間に揺られながら、私はただ静かに窓掛けの隙間から外の風景を見つめていた。

車輪がゴトゴトと規則的な轍の音を刻んで進む先には、かつて私と彼が比翼の鳥の約束を交わした、晶陵の美しい河がどこまでも広がってゆく。窓から滑り込んでくる南苑州(なんえんしゅう)の柔らかな春風は、しっとりとした温かな湿り気を帯びて、私の冷えた頬を優しく撫でていった。


その時、青々と茂る河のほとりの葦の合間から、二羽の白い水鳥が勢いよく空へと羽ばたいた。

眩い陽光の降り注ぐ高天を目指し、互いの翼を寄り添わせるようにして舞い上がっていく一対のつがい。その睦まじい姿を目に収めた瞬間、胸の奥底へ固く封じ込めていたはずの、あの温かな花茶の香りと共にあった蜜月の記憶が鮮烈に弾け、喉元を焼くような熱さが押し寄せる。




(……もう、あの頃には戻れない)




私の切なる祈りは天へと届き、あの方は恐ろしい死線を越えて天下の覇者となられたのだ。

その奇跡の対価として私の居場所が奪われるのだとしても、自ら身を引き、あの方を二妻を持つという汚名から遠ざけることこそが私の果たすべき唯一の役目。窓掛けをそっと下ろし、遠ざかりゆく故郷の面影と二度と叶わぬかつての誓いを、私は自らの手で静かに闇の中へ埋めたのである。


晶陵を出立してから幾日もの時が流れ、車輪が単調な音を刻み続けるにつれ、車窓の風景は瑞々しい水と緑の故郷から見渡す限りの麦畑が広がる乾いた大地へと姿を変えてゆく。

同じ南苑州とはいえ、北の境に位置するこの晋陽(しんよう)を吹き抜ける風は故郷の蒸し返るような湿り気とは異なり、幾分か涼やかだった。けれど、その風の底にはまだ私の皮膚を撫でる確かな南の温もりが微かに残されている。




(晋陽……。彼が、奇跡を起こした地……)




そっと目を伏せ、車内に忍び込んでくる乾いた土の匂いを深く胸に吸い込む。

あの方が天下の覇者へと駆け上がる決定的な転機となった、あの凄惨な戦野。四十二万という絶望的な敵の包囲を前に、あの方はたった十三騎で夜陰の暴風雨を突き破り、敵の本陣を打ち砕いたのだと後になって聞かされた。




『必ず、お前の元へ生きて還る』




あの蜜月の日々、私の耳裏に落された切実な誓い。あの方はその言葉を裏切ることなく、ただ私のもとへ還るためだけに過酷な死線を生き抜いてくれたのだ。

その厳然たる事実だけが、空っぽになった私の両手を固く握りしめさせる。不安に苛まれるたび、無意識に指先で探り当てていた赤い組紐の柔らかな結び目の感触は、もう私の手の中には存在しない。遠く離れたあの方の魂と私を結びつけていたあの唯一の命綱は、あの日、私自身の手で手紙から引き抜き、永遠に断ち切ってしまったのだから。




(……これで、よかったのだわ)




何も残されていない手のひらをさらに強く握り締め、自分自身を納得させるように心の中で何度も反芻する。

一度は失われたと絶望したあの方の命が、こうして今もこの世界に息づいている――その奇跡の引き換えとして私が妻の座を失うことなど、天が私の最も切実な祈りを聞き届けてくれた証に他ならないのだから。あの方が無事におられるのなら、それ以上の幸福を貪るなどあまりに罰当たりというもの。どれほど胸の奥が引き裂かれそうに痛もうとも、決して嫉妬に狂う見苦しい女へと身を落とすわけにはいかなかった。


あの方を万民が仰ぎ見る至高の君主とするために。

そして、一人の夫をただ一人の妻が支えるべしという、亡き父から魂に刻み込まれた陰家の娘としての矜持を守り抜くために。


馬車を揺らす風が、彼が命を懸けて駆け抜けた晋陽の大地を優しく撫で上げてゆく。窓掛けの向こうに広がる乾いた麦畑を真っ直ぐに見据えながら、私は愛する夫を永遠に手放すという重い決意を、ただ静かに胸の奥へと刻み込んでいた。

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