第02話
穏やかな墨の香りが、夜の帳が下りた自室にふわりと漂う。
指先に触れるのは、永安から届いたばかりの絹布。
絹糸がわずかにほつれた縁を、爪の腹でなぞる。
彼――老虎が認めた、秀麗な文字の連なり。
墨の乾いた跡には、まだ彼の指の圧の名残があるような気がして、私は文字の上をそっと辿った。
遠く離れていても、彼が私を想い、同じ未来を見据えているという確かな証。
胸の奥に灯る、火桶の炭がじんわりと熱を持つような温もり。
その甘い余韻を抱いたまま、灯芯の爆ぜる小さな音を子守唄に、私は静かに微睡みの底へと沈んでいく。
どれほどの時が過ぎたのだろうか。
不意に、晶陵の静寂を切り裂く、狂ったような早馬の蹄音が鼓膜を打った。
びくりと肩が跳ね、夜着のまま身を起こす。
冷え切った夜気が、素肌に粟を立たせていく。
心臓だけが、寝間着の薄い布地を内側から叩くように、どくん、どくんと存在を主張し始めた。
ただならぬ気配。
遠く、表門のほうから、普段は決して感情を乱すことのない兄の、怒鳴るような切羽詰まった声が響く。
「……昂が死んだのだぞ!」
風に乗って微かに、けれど決定的な凶報として届いたその一言。
――劉昂将軍が、死んだ?
劉家を支える最強の盾であり、周囲を眩しい陽光で照らすかのようなあの長兄が。
頭が追いつくより早く、指先から急速に体温が奪われる。
布団を握る手から、みるみるうちに感覚が抜けていった。
心臓が、肋骨を打ち破らんばかりの早鐘を鳴らし続ける。
罠だと知りながら赴いたあの偽帝の宴で、最悪の惨劇が起きた。
ならば、彼は。
私の愛しい老虎は、無事なのか。
たった一人で、血の海に取り残されているのではないか。
喉の奥が極端に狭まり、息を吸うことすら苦しい。
居ても立っても居られず、暗闇の中で震える足を床に下ろした、その時。
ドスッ……、ドスッ……。
深い夜の静寂を破り、重く、引きずるような足音が廊下を近づいてくる。
床板を軋ませるその鈍い響きが、嫌な振動となって剥き出しの足裏に伝わっていく。
遠くで犬が一声吠え、直後に降り下ろされた分厚い静寂が、足の震えを加速させた。
近づいてくる気配は、かつて知る穏やかな青年のものではない。
扉の隙間から幾筋も這い込んできたのは、むせ返るような濃密な鉄の匂い。
生温かく、ひどく生臭い、大量の血の悪臭。喉の奥に直接張り付くような、重く粘つく空気。
まるで地獄の底から這い出してきた修羅が、すぐそこまで迫っているかのような死の気配。
けれど、私の足は逃げることを拒絶する。
扉の向こうにいる存在が、私の愛しい彼であってほしい。そして同時に、彼がこれほどまでに凄惨な血に染まっていないことを、ただ痛いほどに祈りながら。
私は息を呑み、暗闇の中で、血の匂いが充満し始めた扉を真っ直ぐに見つめていた。
バンッ、と。
木戸がけたたましい軋みを上げ、荒々しく押し開かれる。
薄明かりの中に立っていたのは、見知らぬ修羅。
玄色の武官服はどす黒く濡れそぼり、ぽたぽたと足元の床へ赤黒い染みを落としていく。
その一滴一滴が、静まり返った部屋にひどく大きな音を立てて響いた。
無数の血飛沫がこびりついた顔立ち。乱れた前髪の奥から私を射抜くのは、飢えた獣のような、深い絶望と殺気を宿した双眸。
だが、その狂気を孕んだ瞳の奥底に、ひび割れるような『彼』の脆い痛みが覗いている。
「老虎……?」
震える唇から、かつて河のほとりで呼び慣れた名がこぼれ落ちる。
その瞬間、彼を辛うじて支えていた見えない糸が断ち切られた。
崩れ落ちるように巨体が私の足元へ膝をつき、強引に腰を抱き寄せられる。
骨が軋むほどの力で、腹部に顔を押し付けられた。
「……すまない、鸞。お前を、こんな地獄に巻き込む」
絞り出すような低い声はひどく掠れ、小刻みに震えている。
常に感情を爪の奥に隠し持っていたはずの彼。それが今はなりふり構わず、ただ一つの熱にすがりつく迷子のように打ち震えるその広い背中。
腹部越しに伝わる彼の荒い吐息と、打ち付けるような心拍の振動。
抱きしめられた腕からは、生温かい血の感触が薄絹の夜着を越えてじわりと滲み込んでくる。まだ温もりを保ったその赤黒い液体の重みに、指先が竦む。
誰の血か、何があったのか。問い詰める必要などない。
周囲を照らしていたあの兄君が、もうこの世にいないのだということだけは、痛いほどに直感で理解できた。
胸を抉られるような悲鳴を飲み込み、私はそっと両腕を伸ばす。
血に濡れた彼の冷たい頬を、両の手のひらで包み込んだ。
こびりついた赤黒い染みを、指の腹でゆっくりと拭い去るように撫でていく。乾きかけた血の粒が、皮膚の凹凸に沿ってざらりと指先に引っかかった。
「老虎……私は、どこへも行きません」
大きな、広いはずの背中が、今は酷く小さく見えた。
彼が生きている。ただそれだけでいい。
明日には、彼を追う刺客がこの穏やかな晶陵を血の海に変えるかもしれない。
それでも、構わない。
彼が修羅となって血の泥濘を歩むというのなら、私もまた、その隣で共に地獄を歩む。
冷え切った彼の魂を、私の体温で温め直したい。
「……俺の魂を繋ぎ止めておけるのは、もう、お前だけだ」
私に向けられた、ひどく切実な依存。
まるで溺れる者が藁にもすがるように、岩のような腕がひたすらに私の腰を締め付ける。
その震えを宥めるように、私は彼から漂う鉄と焦げた匂いごと、広い背中を深く抱きしめ返す。
私の肌から香る柔らかな花茶の匂いが、少しでも彼の凍りついた肺葉を温めてくれるようにと祈りながら。
やがて、彼は震える腕に力を込め、地の底から絞り出すように私へ告げた。
「……お前だけは、絶対に誰にも奪わせない。今すぐ、俺の妻になってくれ」
彼の切実なまでの執着。彼を独り地獄へ歩ませはしないという私の覚悟。
私は迷うことなく深く頷き、すぐさま彼の血と泥を落とし、密かな契りの場を整えるために動き出した。
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