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比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第一章◆

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第01話

洛華(らくか)へと向かう馬車の中。車輪が轍を軋ませる、単調で重苦しい音が響く。


故郷である晶陵(しょうりょう)よりは幾分か涼しいものの、まだ柔らかな温もりを残す中州(ちゅうしゅう)の風。

御簾の隙間から滑り込み、私の頬を撫でていく。


かつて「小虎(シャオフー)」と呼び慕った彼――今は昭虎帝(しょうこてい)として天下に君臨する劉彪(リュウ ヒョウ)様に呼び寄せられ、私は都へと向かっていた。

彼と正式な離縁を確約してもらうために。


私の信じる道に、二人の妻はあり得ない。

静かに目を閉じると、馬車を抜ける風の代わりに、遠い日の温かな記憶が蘇る。私がどうしても譲れなかった、夫婦の在り方の原風景。


――春の陽光が、晶陵の豊かな大地を柔らかな黄金色に染め上げていたあの頃。


庭を吹き抜ける風は微かな湿り気を帯びてひどく暖かい。

傍らの卓上からは、淹れたての花茶の甘い香りが白い湯気となって静かに立ち上る。

幼い私は縁側の片隅に座り、指先に滑らかな絹の刺繍糸を絡ませながら、少し離れた場所にいる二人をじっと見つめていた。


視線の先には、並んで腰を下ろすお父様とお母様の姿。


決して華美ではないが上質な衣を纏い、静かな威厳を漂わせるお父様。

その傍らで、凛とした気品を崩さず寄り添うお母様。

お父様が手にした竹簡に目を落としていると、お母様が絶妙な間合いで温かい茶器を差し出す。

大仰な言葉など交わさずとも、二人の間には互いの影を踏むことのない、絶対的な敬意と深い慈しみが流れていた。


広大な敷地を持つ陰家には、邸を維持するための多くの使用人や侍女たちが控えている。

だが、こうした私的な奥の領域においては、お母様が自ら細やかにお父様を支えていた。豪族としての豊かな暮らしの中にありながらも、他者の手を借りず、ただ互いだけを労り合う静謐な営みをしていた。


大人になった今ならわかる。世間を見渡せば、力を持つ男が幾人もの妻や妾を囲うことは、当然のように容認されている事実。

血脈を絶やさぬため、あるいは他家との繋がりを盤石にするため、多妻という制度は社会の理としてまかり通っていたのだと。


けれど、南苑州(なんえんしゅう)・晶陵には、そのような濁った論理は欠片もなかった。


温暖な気候と豊かな水資源に恵まれたこの地では、政略という名の鎖で無理やり血を繋ぎ合わせるような、殺伐とした家門の存続を必要としなかった。

何より、お父様は『三徳』――謙虚に身を持し、決して陽の当たる場所で目立たず、人知れず影で善行を積むこと――を魂の芯として体現していた。

権力を誇示するための飾りとしての側室など、お父様には無用の長物だったのだ。


生涯、ただ一人の妻を愛し抜き、並び立って歩む。

互いだけを映し出す両親の背中こそが、幼い私にとっての世界のすべてだった。



争いの喧騒も、政治の泥も届かない、完全に守り抜かれたこの温かな箱庭。

ここで私は、「夫婦」というものの唯一絶対の形を、細胞の隅々にまで教え込まれていた。


甘い花茶の香りを胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥まで清々しい熱が満ちていく――そんな、遠く失われた春の記憶。




◆◇◆




その清々しい熱を胸に抱いたままの、ある日の午後。

陽の光がいくらか柔らかさを増した頃、私たちは陰家の書斎に集まっていた。


静謐な部屋に、心地よい墨の清冽な香りが漂う。

私が竹簡に向かって慎重に小筆を走らせていると、隣からひょいと顔が覗き込んできた。


小鸞(ルァンちゃん)、その字、すごく綺麗ね。私にも書き方を教えてちょうだい」


私より一つ年下になる(ネイ)だった。彼女は屈託のない笑みを浮かべ、甘えるように私の袖を引く。


「寧は筆の進みが早すぎるのよ。もう少し肩の力を抜いて、ゆっくり息を吐きながら書いてごらんなさい」


私が微笑みながら手本を示すと、彼女の向こう側に座っていた弟の(キン)が、くすくすと控えめに笑う。


「寧姉、また鸞姉様に甘えているの? 僕の方がもう先まで書き写し終わったよ」


「ちょっと歆! 貴方、私より年下のくせに生意気よ!」


頬を膨らませる寧と、どこか涼しげな顔で筆を置く歆。

家も血筋も違うはずなのに、私たち三人の間には、実の姉弟と何一つ変わらない底なしの情愛が結ばれていた。


私たちが楽しげに言い合っていると、書斎の廊下から大きな足音が近づいてきた。


「おい、ちびっ子共! ちゃんと勉学に励んでいるか!」


部屋の空気を一気に震わせたのは、劉昂(リュウ コウ)の豪快な声だった。

真夏の太陽のように眩しい陽の気を纏った彼が姿を見せると、書斎がぱっと明るくなったように錯覚する。


「昂、あまり大声を出すな。彼らの気が散るだろう」


劉昂の背後から、兄の(シキ)が静かな声で窘めた。

華美な装飾を嫌い、常に冷静沈着な兄の姿は、劉昂とは対極にある。だが、その静かな瞳の奥には、私たちを慈しむ揺るぎない光が宿っていた。

昂の放つ圧倒的な『陽』の力と、兄の『陰』の冷静さ。対照的な二人の兄は、若くして家長としての重圧を背負いながらも、私たちにとってこれ以上なく強固で頼もしい盾であった。


「堅いことを言うな、識。こいつらが笑って過ごせているなら、それで十分じゃないか」


「……お前という奴は」


呆れたように小さく息を吐く兄の肩越しに、もう一人、静かに微笑む気配。


小虎だった。

すっかり背も高くなり、大人びた青年へと成長しつつある彼は、昂のように大声を上げることも、兄のように厳しく窘めることもない。

ただ、部屋の入り口に立ち、私たちを優しく見つめている。

その穏やかで温かな眼差しと視線が交わった瞬間、胸の奥がきゅっと鳴り、淡い熱がふわりと頬を染めていく。



ただの頼もしい「お兄様」への思慕とは少し違う、背伸びをしたくなるような甘い憧れ。

当時の私はまだ、この感情に名前をつけることはできなかったけれど――彼に見つめられるだけで、息が止まりそうになるほど胸が鳴る。


まだ家の存続という重圧を知らぬ幼き者たちを、分厚い壁となって守り抜く兄たち。

外の世界がいかに過酷であろうとも、彼らという絶対的な庇護者がいる限り、私たちのこの温かな箱庭が脅かされることなどあり得ない。


墨の香りと、昂の笑い声、そして彼――小虎の、静かで優しい見守りの視線。

私は、この決して壊れることのない防壁の中で、心からの安堵と、小さな淡い恋心に包まれていた。




◆◇◆




夕暮れの気配が近づき、書斎に差し込む光が淡い茜色を帯び始めた頃。


寧と歆が縁側に出て庭の梅の木を見上げながら何やら楽しげに話し込み、二人の兄たちも少し離れた卓で茶を飲みながら談笑を始めていた。

その穏やかなざわめきから切り離されるように、小虎が私の背後へと静かに腰を下ろす。


彼が身を乗り出すと、ふわりと清冽な白檀の香りが私の鼻先を掠めた。


(ルァン)。ここはもう少し、筆を寝かせたほうがいい」


すっかり声変わりをした、低く穏やかな声が耳元に落ちる。

同時に、彼の手が背後から伸びてきて、竹簡に向かっていた私の小さな右手を、すっぽりと優しく包み込んだ。

日頃から剣や筆を握るために鍛えられた、少し骨ばった大きな手のひら。

背中に、すっかり大人びて分厚くなった彼の胸板の熱を感じる。

触れるか触れないか――ただ布擦れの音が微かに響くほどの、切なくも甘い距離。



いつもは大人たちの中で真面目で慎重な顔をしている彼が、私の前でだけ見せてくれる無防備な素顔。

たまらなく甘やかな優越感に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


彼の温かな熱に導かれるまま筆を走らせていると、ふと、廊下を通りかかった侍女たちのひそやかな囁き声が耳に届く。


「まあ、ご覧なさいな。劉家の若君と私たちのお嬢様……まるで一枚の絵のようですわ」


「ええ、本当にお似合いのお二人。いつか必ず、立派なご夫婦になられることでしょうね。私たちも今から楽しみでなりません」


庭を掃く使用人たちも、手を止めて目を細め、私たちを温かく見守っている。

晶陵の誰もが、私たちを微笑ましい幼馴染として祝福し、未来を疑っていなかった。

周囲に公認された、絶対に揺らぐことのない繋がり。その圧倒的な安心感が、私をこの上ない幸福で満たしていく。


「……気が散っているわよ、小虎(シャオフー)


憧れのお兄さんに向かって、私がわざと少し背伸びをするように、からかいを込めて幼名で呼ぶ。

すると彼は少し照れたように微苦笑をこぼし、私の手を包む力をほんの少しだけ強めた。


私を囲い込む彼の手のひらの熱と、白檀と花茶が混じり合う甘い空気。

私はただ彼から伝わる温もりに身を委ね、この静かで完璧な時間を、魂の奥底にまで刻み込んでいた。




◆◇◆




やがて穏やかな月日が流れ、私たちの完璧な箱庭にも、少しずつ外の世界の風が吹き込み始めた。

彼――小虎が、己の知恵を磨き、没落した家を再興するという父の遺言を果たすため、遠く永安(えいあん)へ遊学に旅立つ日が近づいていたのだ。


出発を間近に控えたある日。私たちは、晶陵を流れる広い河のほとりに立っていた。


吹き抜ける川風は少し肌寒く、私の髪を静かに揺らす。けれど、すぐ隣に立つ彼の大きな体から伝わってくる静かな熱が、私を温かく包み込んでいた。

遠くを見つめる彼の横顔は、書斎で見せていた穏やかなそれとは違い、これから先の未来を見据えるような、男としての微かな緊張感を帯びている。


ふと、水際の葦の茂みから、一対の白い水鳥が羽ばたいた。

二羽の鳥は連れ立って、澄み切った高い空へと舞い上がっていく。寄り添い、互いの羽音を確かめ合いながら、一つの魂を分かち合うように飛んでいく。

その姿を、私たちは黙って見送った。


鳥たちの姿が見えなくなった後、彼がゆっくりと視線をこちらへと下ろす。

私も自然と顔を上げ、彼を見つめ返す。



漆黒の瞳と、視線が絡み合った。

言葉は、何一つ交わさなかった。大仰な愛の誓いも、未来への悲壮な約束も必要なかった。

ただじっと見つめ合う、その静寂のなかに、狂おしいほどの切実な感情が満ちていく。


もうすぐ、私たちは遠く離れ離れになる。

長い間、この温かな手にも、不器用で優しい笑顔にも触れることができなくなる。胸の奥が締め付けられ、冷たい水が染み込んでくるような寂しさが込み上げてくる。



けれど――彼の瞳の奥底に揺れる、ただ私だけを映し出すその絶対的な光を見た瞬間、寂しさは不思議と甘い熱へと変わっていった。


彼がどれほど私を大切に想い、私がどれほど彼を愛おしく想っているか。

触れずとも、言葉にせずとも、ただ視線が交差するだけで、痛いほどに伝わってくる。距離など私たちの絆を裂くことはできない。心はすでに、あの一対の鳥のように、分かち難く結びついているのだから。


寂しさの底に満ちていく、甘く切ない幸福。

私は愛おしさを堪えきれず、彼に向けてふわりと微笑んだ。

すると彼も、張り詰めていた顔つきを微かに崩し、私のすべてを肯定するような、ひどく優しく、泣き出しそうなほど愛おしげな笑みを返してくれた。


視線だけで通じ合う、この圧倒的な繋がり。

どれほど離れていても、必ずまた隣で羽を休める日が来る。私はそう、微塵の疑いもなく信じ切っていた。




◆◇◆




――ガタン、と馬車が大きく揺れ、私はふっと我に返った。

冷たい風が、再び容赦なく御簾の隙間から入り込み、私の頬を打つ。


あの日、河のほとりで無言のうちに信じ合った完璧な愛の箱庭は、やがて吹き荒れる乱世の嵐と、血と泥に塗れた戦乱の世に巻き込まれて、跡形もなく粉砕されてしまった。

言葉すらいらなかったあの至福の記憶こそが、今、私の心を最も深く、回復不能なまでに抉り出す絶望の刃となっている。


彼が待つ都・洛華への道のりはまだ遠い。

私はかつての淡い恋心を振り払うように、離縁の決意を再び強く胸に抱きながら、冷え切った指先をそっと握りしめた。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


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