第28話
――それから、月日が血と泥の海の中を容赦なく通り過ぎてゆく。
俺は心を完全に殺した修羅となり、ただひたすらに盤面を睨み、刃を振るい続けた。
気づけば、鸞と離れて遠征に出てから、すでに五年目の終盤に差し掛かろうとしている。
俺はついに兄の仇である劉莽の首を刎ね、簒奪された大渭国の玉座を取り戻した。
そうして天下を統べる覇者『昭虎帝』として即位し、都を中州・洛華へと遷都していたのである。
あの絶望の夜から郭聖通の妊娠が発覚するまでのひと月ほど、ただひたすら義務として交わりを重ねて宿した種は、渭北の将兵どもが渇望した通りに芽吹き、郭聖通の腹から長男が産み落とされた。
陣営が跡継ぎの誕生に沸き返る中、俺はただ遠くの鉛色の空を見つめるばかりであった。
俺は万民がひれ伏す絶大な権力を手に入れた。
だが胸の内は依然として底知れぬ冷たい虚無だけが支配しており、魂の命綱であった組紐を失って完全に凍てついてしまった心と抜け殻になった肉体だけが、覇業という名の歯車をただ無機質に回し続けている。
中州に築かれた広大な後宮の執務室には、冬の到来を告げるひんやりとした風が吹き込んでいた。
冬の寒さに閉ざされた北の原野に比べればいくらか暖かく、故郷の晶陵よりは少し肌を冷やすような、のどかな冬の昼下がり。窓から差し込む淡い光が、俺の纏う黒い玄衣の裾を静かに照らしている。
南苑州の晶陵から、外交官であり側近の耿翼が洛華の宮殿へと帰還した。
拝礼する彼の表情はひどく硬く、その手には一通の重々しい木簡が握られている。
「――陛下。晶陵の陰識殿より、書状をお預かりしてまいりました」
耿翼から差し出された木簡を受け取った瞬間、部屋の空気が一瞬にして完全に固まった。
そこに刻まれていたのは、鸞の兄である陰識の冷徹な筆致。
『我が陰家の娘を、返していただく。至急離縁の手続きを。』
本来ならば、妻の側から夫へ離縁を申し出ることなど許されない。
夫がどれほど不義理を重ねようと、どれほど道理に背く行いをしようと、離縁を切り出す資格は男の側にしか与えられていないのが世の理であり、鸞自身がそれを口にすることは決して叶わないのだ。
だからこそ、陰家の当主である識が、兄として、そして家の長として、この手続きを代わりに背負ったのだろう。
妹一人に泣き寝入りをさせず、彼女の代わりに正式な絶縁を突きつけるという、命懸けの越権行為を。
郭聖通を正妻として迎え、長男まで成した俺の元へ、大事な妹を側室として差し出すような真似は断じてしないという修復不可能な絶縁の宣告。
息を詰める俺の前で耿翼はさらに深く首を垂れ、震える声音で陰識から託された苛烈な伝言を口にした。
「陰識殿からは、さらに口頭にて陛下への伝言を預かっております……。『寧のことは案ずるな。亡き昂との誓い通り、彼女は引き続き我が陰家が命に代えてもこの地で庇護し続ける。だが――あの男とはこれにて縁を切る。陰家の娘は、誇り高き正妻である。二人目の妻や、ましてや他人の後ろに跪く妾のような扱いを受けるわけにはいかぬ。二度と、我が妹に関わるな』と」
耿翼の言葉が耳底へ突き刺さった瞬間、視界のすべてが真っ赤に染まるほどの衝撃が俺の頭蓋を激しく殴りつけた。
ギリリ、と握りしめた手の中で分厚い木簡が悲鳴を上げて砕け、指の骨がミシミシと鳴る。
組紐を失い、鸞に見捨てられたと絶望の底に沈んでいた俺の魂に、その時、全く別の異質な感情が爆発的に燃え上がった。
(――ふざけるな)
分厚い玄色の軍衣の下で、とうに冷え切っていた猛虎の血が凄まじい熱を持って一気に沸騰し始める。
俺が己の尊厳を捨て、吐き気を催すような香油の匂いに耐えて別の女の肌に触れたのは、決して天下のためなどではない。ただ生き延びて、もう一度鸞に会うためだ。
泥を啜り、獣に身を落としてでも生き残り、再びあの温かな光の元へ還るためだけに、この地獄を耐え抜いてきたのだから。
それなのに、俺と彼女の絆をこんな一片の書状と言葉で永遠に切り離そうというのか。
光を失っていた暗い瞳に長い間封じ込められていた執着の火が獰猛に宿り、脳裏に鮮明に浮かび上がったのは、春の陽光の中で花茶を淹れていた、唯一の聖域である鸞の愛おしい顔。
たとえ彼女の兄に激しく憎まれようと、彼女をこの血塗られた泥沼に引きずり込むことになろうと、彼女の魂だけは絶対に誰にも渡さない。俺の隣には必ず鸞を座らせる――そう、空虚な抜け殻であった俺の中で、恐ろしいほどに純粋で苛烈な修羅の愛が完全に覚醒した瞬間であった。
◆◇◆
沸騰する血の熱に突き動かされるように即座にその場を立ち上がると、執務を行う奥の広間へと歩を進める。
傾きかけた夕陽が洛華の宮殿の冷たい石床を血のように赤く染め上げるなか、粉々に砕け散った木簡の破片を足元に転がし、俺は静かに文机の前へと腰を下ろした。
部屋を支配するのは、研ぎ澄まされた冷たい墨の匂いと、どこまでも重苦しい静寂。
陰家は、両親から受け継がれた厳格な一夫一婦の理想を何よりも尊ぶ家門だ。兄であり現当主の識が妹の尊厳を守るために突きつけてきた絶縁の言葉は、鸞にとっても決して譲れない誇りそのものなのだろう。
俺が渭北の泥に塗れ、他の女を妻とした時点で、彼女の清らかな世界において俺は忌むべき背信の獣となったのだ。
「鸞……たとえお前に一生恨まれようと、俺は構わない」
筆にたっぷりと冷たい墨を含ませながら、低く掠れた声を夕暮れの暗がりに落とす。
「俺が屈辱に耐え、お前との約定を破り泥を啜り生き延びたのは――ただ、鸞、お前と再び相見え、この腕に抱きしめるためだ」
決して消えることのない獰猛な熱が筆の先へと注ぎ込まれ、大渭国の最高権力者たる『昭虎帝』としての絶対的な力を、ただ一人の女を強引に呼び寄せ、己の檻の中へと縛り付けるためだけに行使することを決意する。
木簡へと、力強い筆致でただ一つの命令を書き記していった。
もう、遠く離れた地で離れ離れになるなど決して許しはしない。
俺が永遠の地獄を歩むというのなら、鸞、お前も共にその底まで連れて行く。
夕日に赤く染まる宮殿から、遠い南苑州の妻へと放たれる強固な意志の波動。
書き上げられた墨文字は、俺を拒絶しようとする美しい青鸞を絡め捕る、決して断ち切らせない強靭な蜘蛛の糸であった。
ただもう一度、あの春の陽光のような微笑みに触れたい、あの花茶の香る我が聖域へ帰りたいという切実な想いだけを胸に、俺は愛する妻をここ洛華へと連れ出すための絶対の命令を下した。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
*ちょこっと雑談*
やっと第01話の時間軸に戻りました!次回から第三章になります。
さて、6年ぶりの再会になるのでしょうか?次回をお楽しみに!
少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります……!
(※評価は後からでも変更・取り消しが可能です!)
また、【ブックマーク】に追加していただけますと、更新後すぐに続きをお読みいただけます。
また明日19:00にお会いしましょう!




