第27話
分厚い木扉を押し開いた瞬間、むせ返るような香油と獣脂の匂いが肺の奥を容赦なく塞いでゆく。
極彩色の装飾がギラつく渭北の仮宮の寝所――普段であれば足を踏み込んだだけで胃の底が激しくせり上がるほどの強烈な拒絶を覚える空間ではあったものの、今の俺はひどく鈍麻した足取りのまま、重い絨毯の上をただの肉塊のように進むほかなかった。
(もう、どうでもいい)
ただ一人、あの温かな水の故郷へ還るためだけに、血を吐く思いで護り抜いてきた魂の純潔。
唯一の命綱であったあの絹布の手紙から赤い組紐が抜け落ちていたと知った極寒の夜、鸞の心が完全に俺から離れ見捨てられたのだと悟った瞬間に、かろうじて形を保っていた生きるための理性が音を立てて粉々に砕け散っていった。
俺の心臓は、完全に凍結している。
「……彪様」
褥の奥で重い真紅の帳が揺れ、豪奢な夜着を纏った郭聖通が静かに身を起こした。
愛なき祝言から一年というものただの一度も肌に触れられることのなかった女は、一切の光を失って深い泥濘のように濁りきった俺の瞳を見上げると、微かに息を呑む。
衣が擦れる甘ったるい音を立てながら、聖通がすがりつくようにしてこちらへ膝行してきた。
「まだ、だめですか。……どうか……、私にお情けを」
湿り気を帯びたねっとりと媚びるような声音が耳底にまとわりつき、渭北の将兵どもが絶えず突きつけてくる跡継ぎという名の無機質な圧力と、目の前の女からの哀願が重くのしかかる。
だが、自暴自棄となった俺の五内を動かしたのは、そのどちらでもなかった。俺の世界のすべてであった彼女に拒絶された今となっては、この身体を不浄から守り抜く価値など、どこにも残されてはいないのだから。
「……分かりました」
零れ落ちた音は自分でも耳を疑うほど平坦な、一切の体温が抜け落ちたただの氷の響きであった。
「渭北との同盟の証……。貴女の望む通り、妻としての責務を果たしていただこう」
褥へと歩みを進めるものの、下腹部を焦がすはずの欲情も胸を突き動かす情熱も、ただの一滴すら湧き上がりはしない。
目を閉じれば頬を染めて艶やかに微笑む女の貌が映るが、その焦点はひどくぼやけ、ただ血脈を繋ぐための空虚な器という役割しか認識していなかった。
褥の脇の卓に置かれた、小ぶりの青磁の瓶へと手を伸ばす。
手のひらに落とした香油は、凍傷の痕が残る皮膚の熱を冷ややかに奪いながら、ぬるりと広がっていった。
口付けを交わすことはしない。その柔らかな長髪を梳くことも、頬の輪郭をなぞることもしない。
それらの慈しみはすべて、晶陵の河のほとりで生涯を誓ったただ一人の妻、鸞のためだけに捧げ尽くした神聖な祈りであり、どれほどこの身が泥の底に沈もうとも、その領域だけは他の誰にも踏み入らせるつもりはなかった。
「明かりは、落とします。……背を向けてください」
感情を完全に排した声で告げ、卓上で揺れていた一本の蝋燭の火を息でふっと吹き消す。
一瞬にして視界を完全に奪い去る、漆黒の闇。
これで、目の前の女の顔を見ずに済む。
(鸞。お前が俺を見限ったから、俺は……ついに獣へ身を落とす――)
魂を削り取るような夜が、静かに明けてゆく。
白み始めた夜明けの淡い光が、目張りの隙間から冷え切った仮宮の寝所へと差し込んできた。
なめし革の長椅子で身を強張らせていた俺は、鉛のように重い身体をゆっくりと起こす。昨夜の愛など微塵もない交わりの痕跡は、俺の肉体に重い罪悪感と拭いがたい穢れの感覚だけを深く刻み付けていた。
乱れた衣服を機械的に整え、感情の抜け落ちた冷たい視線を寝台へと向ける。
真紅の天蓋の奥では、郭聖通が艶やかな吐息を漏らしながら身を起こしていた。
「……彪様、お慕いしています」
その頬に浮かぶのは、確かな歓喜と勝利の陶酔の色。
遠い故郷で待つ妻に対し己の肉体が打ち勝ったのだという傲慢な優越感が透けて見えるが、彼女に向けられる俺の瞳は、一切の光を宿さない漆黒の空洞でしかなかった。
(……好きに思い込むがいい)
身体はくれてやった。だが、俺の魂の最も深い場所にある聖域だけは、誰の一指たりとも踏み込ませはしない。
俺は無言のまま、むせ返るような香油と獣脂の匂いが淀む寝室に背を向け、極寒の北風が吹きすさぶ外の世界へと足を踏み出していった。
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