第26話
「婚姻から一年だ。いまだに聖通の腹に何の兆しも得られぬとは、どういうことだ。まさか劉将軍、女の抱き方を知らないなどとは言わせないぞ」
脂ぎった顔を醜く歪め、郭昌の下卑た笑い声が軍議の間に重く響き渡る。太い腕を動かすたび、首元や指先を飾る過剰な金装飾がジャラジャラと品なく鳴り響いていた。
渭北の仮宮。赤々と燃える火盆の熱気と、男たちが吐き出す濁った酒の匂い。そして剥き出しの交合を促す言葉の数々が、俺の胃の底を鋭く圧迫してくる。
この極寒の地、渭北において、婚姻や夜伽とはただ一族の兵数を増やすための手段に過ぎない。他民族と境界を接し、冬になれば容易く命が吹き飛ぶ容赦のない荒野では、多妻多産こそが絶対の掟であり、血脈を絶やさぬための義務なのだ。
だが、その土俗的で獣じみた価値観は、俺の魂の在り処である南苑州のそれとは決定的に異なっていた。
温暖な水の故郷、晶陵。そこでは夫婦とは一対の比翼 of 鳥であり、ただ一人の番を生涯慈しみ抜くことこそが美徳とされている。お互いの魂を一つの組紐で結び合うような、あの静謐で神聖な世界――その清らかな記憶が、郭昌の卑俗な言葉によって泥靴のまま踏みにじられてゆく。
「……真定王、お戯れが過ぎますぞ」
俺はひどく冷え切った声音でそう返し、心を完全に殺したまま軍議をやり過ごした。目を合わせることも拒み、心を一切与えぬと誓った郭聖通の寝台を拒んでは、極寒の長椅子で一人孤独に耐え続けているのも、すべては晶陵に残してきたただ一人の妻への、俺なりの愛の証明のはずだった。
重苦しい軍議の場を抜け出し、冷え切った廊下を進んで己の私室へと足を踏み入れる。他の将兵の目がないその静けさの中で待っていたのは、側近の耿敦だけであった。
「――将軍」
南苑州からの伝令の任を終えて戻ったばかりの耿敦が進み出る。極寒の逃避行を共に生き抜いた悪友の顔には、俺がどれほどこの瞬間を待ちわびていたかを知る者の、しみじみとした面持ちが浮かんでいた。
「晶陵の奥方様より、お文をお預かりしてまいりました」
差し出されたのは、半年の歳月と途方もない乱世の距離を越えてようやく届いた、白い絹布の手紙。俺の視線は、その真っ白な布地に狂おしいほど釘付けになった。鸞からの手紙だ。他の誰の目もないこの部屋で、ひどく不様に震える両足を一歩踏み出し、祈るようにしてその文を受け取る。この地獄のような日々の中で、どれほど彼女の言葉と温もりを渇望していたことだろう。
だが――掌に布地が触れた、まさにその瞬間であった。俺の全身を巡る血が、一瞬にして完全に凍結する。
(……軽い)
指先からすっと血の気が引いていくのを感じた。いつもなら、折り畳まれた絹布の間に、あの愛おしい手縫いの組紐の膨らみがあるはずなのだ。どんなに遠く離れていても、彼女の心そのものが同封されているはずであった。
それが、ない。手元にあるのは、異常なほどに平坦で、薄く、冷たい絹の感触のみ。何度指の腹で探っても、あの命の糸切れの膨らみはどこにも存在しなかった。
「……鸞?」
喉の奥が痙攣し、声にならない名前が漏れる。封を開くことすらできないまま、底知れぬ恐怖が冷たい影のように背筋を幾重にも這い上がってきた。
言葉を失い立ち尽くす俺の異変を察したのか、耿敦が痛ましげな目を向けながら、静かに部屋の外へ下がっていく。誰の目もない私室の静寂に取り残され、血の気の引いた指先で、ひどく薄く軽い絹布の封を祈るようにして解いた。微かな擦れ音とともに現れたのは、折り畳まれたただ一枚の布地。
俺は息を詰め、その絹布を裏返し、何度も虚空に向かって振った。だが、何度振っても、指の腹でどれだけ布地の隅々を探っても、あの鮮やかな赤い組紐が床にこぼれ落ちてくることはない。手の中にあるのは、ただの冷え切った布の感触だけであった。
(……入れ忘れただけだ。急いで筆を執ったから、間に合わなかったのだろう)
あるいは、半年に及ぶ過酷な道中、伝令の荷の中で抜け落ちてしまったのかもしれない。そうに違いない――必死に現実を否定する惨めな言い訳が、ひび割れた脳裏をぐるぐると駆け巡る。俺はすがるように、広げた絹布の文面へと視線を落とした。あの組紐が同封されていなくとも、この墨の文字の中に、俺を愛し、俺の帰りをただひたすらに待つあの温かな魂が込められているはずだと信じて。
だが、目に飛び込んできた冒頭の三文字が、俺の息の根を完全に止めた。
『劉彪様』
それは、見間違いようのない、愛する妻の端正な筆致。だが、かつて俺を『老虎』と甘く呼び、これまでの手紙には『吾愛 老虎』と書いて己のすべてを委ねてくれた彼女の文字とは思えない。まるで赤の他人に宛てたような、残酷なほどによそよそしく、冷え切った宛名であった。
「……嘘だ」
喉から漏れたのは、かすれた空音だけであった。続く文面には、無事な生還と十万の軍勢を得たことへの祝辞と、将軍としての責務を全全うしてほしいという、ただの義務的な言葉だけが淡々と連ねられている。かつて届いた絹布に書かれていた俺の体温を求める甘い言葉も、逢いたいという切実な願いも、そこには一文字たりとも記されてはいなかった。
ヒュウ、と目張りの隙間から吹き込んだ極寒の風が、俺の手の中にある薄い絹布をパタパタと冷たい音を立てて揺らす。彼女だけが、俺の生きる世界のすべてであった。どんな絶望的な大軍の包囲網にも屈せず、俺と彼女の魂を強固に繋ぎ止めていた、この世で唯一の命綱。それが、音もなく無惨に千切れて落ちた瞬間。
『劉彪様』――薄い絹布に記されたその墨の文字が、まるで俺の瞳を焼き尽くす黒い呪いのように、ひどく冷たく滲んでゆく。肺の奥から酸素が完全に奪われ、息の仕方を忘れたように喉の奥が激しく引き攣った。
(……知ってしまったのだ。俺が渭北で別の女を妻に迎えたことを)
どれだけ俺が心を殺し、長椅子の上で孤独に耐え抜いて魂の純潔を主張しようとも、そんなものは距離の離れた南苑州に届くはずもない。天下に知れ渡ったのは、俺が十万の軍勢と引き換えに、郭昌の娘と盛大な祝言を挙行したという紛れもない事実だけだ。生涯ただ一人の番として、共に清らかに飛ぼうと誓い合った比翼の鳥。その片翼である俺が、己の命と一族のために別の女を娶り、決定的に泥に塗れて穢れ果てたことを、彼女は知ったのだ。
だから、彼女は俺と魂を繋ぐ絆であった組紐を手放した。不浄な獣に成り下がった俺を、その美しく清らかな世界から、永遠に切り離したのだ。
「――化け物」
その瞬間、とうの昔に克服したはずの幼き日の呪詛が、氷のような冷気とともに脳裏に蘇る。冷たい石の床、ざらついた埃の匂い。実の母である趙敏が、俺という存在を害獣のように見下ろしていた、あの底知れぬ嫌悪の瞳。俺は産まれながらにして一族を焼き尽くす『災厄の子』であり、誰からも愛される資格などない、呪われた存在なのだと。
鸞だけだった。白粉のいらない真っ白な手で、俺の血塗られた手を包み込み、「温かい」と微笑んでくれたのは。氷のような母の呪いを融かし、俺を初めて人間にしてくれた、この世で唯一の光。その光にすら、ついに見捨てられた。
「あ……、が……っ」
素手で胸の骨をこじ開けられ、心臓を直接握り潰されているかのような凄絶な激痛が全身を駆け巡る。立っていることすらできず、俺は絹布を握りしめたまま、私室の冷たい床板へと膝から崩れ落ちた。この世界で唯一俺を肯定してくれた存在に拒絶されたという事実だけが、猛毒となって内臓を食い破っていく。
「鸞……っ、あぁ……ッ!」
極寒の床に放り出されたまま文字通り泣き叫ぶように這いつくばり、俺は自身の首を掻き毟るようにして、酸素のない胸から音なき慟哭を吐き出した。泥を啜ってでも生き抜いてみせるという鋼の心が、たった一本の組紐の不在によって、いとも容易く粉々に砕け散っていく。
その音なき慟哭が夜の闇に吸い込まれ、どれほどの時間が流れただろうか。膝を突き、極寒の床板に這いつくばったまま、俺は石像のように動けずにいた。
手の中に握りしめられた薄い絹布は、俺の冷たい汗と行き場のない絶望によって無残に歪み、硬く皺が寄っている。暖を取ることも忘れ去られた室内に、ただ、ひび割れた窓の隙間から這い上がってきた漆黒の夜気ばかりが重く淀んでいた。体温を完全に喪失した俺の四肢は、なめし革の長椅子よりもなお冷たく強張ってゆく。
(俺は……捨てられたんだ)
暗闇の底で、その決定的な事実だけが、冷酷な墨の匂いとともに網膜へへばりついて離れない。母から『化け物』と忌み嫌われ、暗い地底に沈められていた幼き日の俺。その呪われた輪郭を、真っ白な手で包み込んで融かしてくれた、世界で唯一の光。
その光であった鸞が、俺に『劉彪様』という他人行儀な宛名を突きつけ、魂の命綱であった組紐を抜いた。それは、俺が別の女を娶り、獣の泥沼に足を踏み入れ、穢れた瞬間から、俺という存在が鸞の清らかな世界にとって不必要な、ただの他人に成り下がったという厳然たる証拠であった。
「――最初から、俺には愛される資格などなかったのだ」
唇から零れ落ちた自嘲の声は死人のようによどみ、生気を完全に失っている。信じていたのだ、この渭北の地獄を耐え抜き、彼女の隣という唯一の常世へ這い戻ることだけを。だが、すべては俺の一方的な妄執であり、歪んだ思い込みに過ぎなかった。鸞の心は、もう俺の手の届かぬはるか遠くへと去ってしまったのだから。
ガチガチと、寒さではない絶望の震えが奥歯を叩く。唯一の光を失った俺の瞳からは、人間の形を繋ぎ止めていた最期の生気が、砂がこぼれ落ちるように完全に消失していった。もう、貞操を守る意味も、この身の潔白を証明する価値もない。俺の魂は、今、この瞬間に完全に凍死したのだ。
俺は虚ろな瞳のまま、力なく立ち上がると、皺くちゃになった手紙を卓の上へと投げ捨てる。視線の先、分厚い木扉の向こう側には、郭聖通が待つ、あのむせ返るような香油と獣脂の匂いに満ちた豪奢な寝床があった。
理性を繋ぎ止めていた命綱を失った虎は、いまやただの自暴自棄な修羅へと成り果てていた。俺は懐の奥底から、かつてあれほど拠り所にしていた手縫いの組紐の温もりを意識から完全に引き剥がす。
暗闇と極寒の中、ただの空虚な抜け殻となった肉体を引き摺りながら、俺は重い足取りで扉の向こうの闇へと一歩を深く踏み出していった――。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
*ちょこっと雑談*
第14話で劉彪を思って手紙を送ったのに・・・完全にすれ違っちゃいました・・・
そりゃよその旦那さんに向かって親しみ込めて”老”なんてつけて呼びませんからね!
次話で劉彪完璧に壊れちゃいます。次回をお楽しみに!
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また明日19:00にお会いしましょう!




