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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第二章◆

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第25話

やがて果てしなく長く感じられた狂騒の宴が終わりを告げ、俺は重い足取りのまま、郭聖通が待つ寝所へと向かった。


分厚い扉が開かれた瞬間、鼻腔を容赦なく殴りつけてきたのは、渭北特有の重い獣脂と、むせ返るほどに甘く濃い香油の匂い。胃の底からせり上がるような強烈な嫌悪感に襲われ、部屋を飾る毒々しいほどの真紅の寝具が、まるで泥沼の戦場で見た血の海のように視界へとこびりつく。ここは俺の心を完全に凍死させるために用意された、豪奢で冷たい墓標そのものであった。


扉を背にしたまま、俺は部屋の中央でぴたりと歩みを止める。


部屋の奥、金糸の刺繍が施された真紅の天蓋の下では、豪奢な夜着を纏った郭聖通が艶やかな笑みを浮かべて待ち構えていた。彼女の背後には、俺が部下たちの命を救うために喉から手が出るほど欲した十万の軍勢という、強大な権力の威光がはっきりと透けて見えている。

同盟の証を立てるためには、今すぐあの寝台へと進み、彼女の肌に触れねばならない――それがこの狂った乱世の常識であり、避けては通れぬ残酷な政治の儀式であった。




「……劉将軍」




甘く重い香油の匂いを漂わせながら、郭聖通が誘うように白く長い指を伸ばしてくるものの、俺の足は床板に深く根を張ったようにそこから一歩も動かなかった。




(俺の魂も、この身体の熱も、とうの昔に晶陵にいるただ一人の妻へ捧げ尽くしている)




遠き南苑州の空の下、木の簪一本で俺に愛おしげに笑いかけてくれた、あの春の陽光のような女。俺のすべては鸞のものであり、たとえ天下の覇権を対価にされようとも、俺という存在のたった一欠片たりとも他の女へ明け渡すことなど絶対にできようはずがない。




「私は、渭北との同盟の盟主としてこの部屋に参りました」




重苦しい静寂の中、口から滑り落ちた声は自分でも驚くほど冷徹で、一切の感情が抜け落ちた氷のよう。郭聖通の艶やかな笑みが、その瞬間微かにこわばった。




「劉家と真定王家を結ぶ盟約の証として、私は貴女を妻という座に置く。……だが、私に心は求めないでいただきたい」




「……え?」




「私の妻は、故郷に生涯を誓った娘、ただ一人。貴女を傍に置くことを許すことはあっても、決して心の内側へ踏み込むことは許さない」




肉体的な暴力を振るうことも、声を荒らげることもしない。ただ礼儀正しく、淡々と拒絶の事実だけを突きつける。しかしその言葉は、むせ返るように熱かった豪奢な寝所の空気を、一瞬にして極寒の底へと凍りつかせていた。


宙を彷徨う彼女の白い手を冷徹な目で見下ろしながら、俺は決して越えさせない絶対的な境界線を二人の間に深く引き直し、無情な宣告を残して金銀の装飾がギラつく極彩色の寝台から完全に背を向けた。


部屋の隅、夜気が目張りの隙間から這い上がってくる窓際に置かれた、硬く冷たい革の長椅子。そこへ重い身体を投げ出すと、張り詰めたなめし革の質感が熱を失った背中から容赦なく体温を奪ってゆく。

豪奢な天蓋の奥からは、息を呑んだ郭聖通が屈辱と混乱に震えている気配が広い寝所の静寂を伝って冷ややかに届いてくるものの、俺は外套を深く頭から被り、その存在のすべてを自らの意識から完全に遮断した。




(……身体は、くれてやる。だが、ここだけは……誰にも渡さぬ)




誰に聞かせるでもない呟きを、凍りつくような暗闇へと静かに溶かす。あちらの寝台のぬくもりに甘んじるくらいなら、この骨を刺すような底冷えの中で凍えている方が、どれほど息がしやすく、己の魂の純潔を保てるか分からなかった。


重い衣の懐へと、感覚の鈍い指先を滑り込ませる。

誰の目にも触れぬよう暗闇の陰に隠れてそっと取り出したのは、一通の使い古された絹布――そして、その中に大切に仕舞い込まれた、鮮やかな赤い絹糸で編まれた小さな組紐であった。




「……鸞」




指先がその繊細な結び目に触れた瞬間、胸の奥を締め付けていた冷酷な氷壁が、端から融け落ちていくような圧倒的な弛緩が俺を襲う。


滑らかで、少しざらついた手作りの絹糸の感触。そっと目を閉じれば、南苑州の温暖な風が吹き抜ける晶陵の居間で、白粉のいらない真っ白な手を動かし、俺のために一心に針を進めていた彼女の愛らしい佇まいが、鮮烈な熱を持って脳裏へと蘇ってきた。

この一本の糸切れだけが、血と泥に塗れ、いまや異郷の仮宮で魂を切り売りしている俺を現世に繋ぎ止める唯一の命綱。暗闇の中、俺はこの世界中の何よりも尊い玉を手繰るように組紐を強く握り締め、心臓の最も近い場所へと押し当てていた。


その小さな熱だけを命綱にして、どれほどの時が過ぎただろうか。


やがて目張りの隙間から差し込む光が、冷え切った仮宮の寝所を白々と照らし出していく。一晩中、なめし革の長椅子の上で孤独な冷気に耐えていた肉体は、鉛のように重く強張っていた。


天蓋の奥からは、屈辱の夜を明かした郭聖通の微かな絹擦れの音と張り詰めた息遣いが聞こえてくるが、俺は一度もそちらを振り返ることなく、硬くなった指先で懐の組紐をさらに奥深く、心臓の最も近い場所へと仕舞い込んだ。

これで、魂の純潔は守り抜いた。俺を現世に繋ぎ止める赤い絹糸だけは、一指たりとも他人に触れさせてはいない。




(鸞……お前だけが、俺のすべてだ。どんな泥を啜ろうとも、俺の心は晶陵の箱庭にしか置いていない)




胸の中で最愛の妻の名前を幾度も反芻しながら外套を羽織り、俺は無言で寝所を後にした。


鸞への絶対的な愛と信頼だけを命綱にして、渭北の凍てつく軍務へと再び身を投じてゆく。この地獄のような日々を耐え抜けば、いつか必ず彼女の元へ帰れると固く信じて疑わなかった。

見えない破滅の足音がすぐそこまで忍び寄っていることすら気づかぬまま、俺は懐の確かな熱だけを抱きしめ、焦燥を孕んだ冬の朝の光の中へと真っ直ぐに歩み出していった――。

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