↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第二章◆

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/80

第21話

故郷の境界を越え、戦地への過酷な行軍が始まろうとしていた。

温かく湿り気を孕んだ南苑州(なんえんしゅう)の風が進む列を静かに揺らしながら遠ざかってゆくなか、故郷である晶陵の街を遥か後方へ残して俺たちが目指すのは、戦場である 晋陽(しんよう)。

陣頭に高く掲げられた朱地の軍旗――【焔紋赤虎旗(えんもんせきこき)】が、湿った空気を切り裂くように激しくたなびいている。旗に染め抜かれたのは、黒い炎の縞を持つ一頭の猛虎。かつて実の母から一族を焼き尽くす災厄の炎と忌み嫌われた俺が産み落とされた夜の紅光――その鮮烈な朱の色を、俺は乱世の闇を焼き尽くす炎、そして孤高の覇道の象徴としてこの旗に宿していた。


馬背の上で揺られるたび、身に纏った玄色の甲冑が重く鈍い音を立てるものの、その冷徹な鉄の塊の下では、夜を徹して鸞が縫い上げてくれた猛虎と飛鸞の戦袍が、まったく異なる別の熱となって俺の皮膚に触れていた。直接肌に絡む絹布の滑らかな質感と、そこに吸い込まれていた彼女の体温の残照が、張り詰めかけた身体を内側からじりじりと温め続けている。


報される戦況はどれも逼迫したものばかりであり、待ち受ける敵軍が実に四十二万に及ぶのに対し、迎え撃つこちらの味方はわずか数千に過ぎない。晋陽の地で待ち受けるのは、網の目のように張り巡らされた罠と地平を埋め尽くす鉄の波による包囲網であり、一歩間違えれば、この命など容易く乱世の塵に帰すだろう。

だが、俺は死ぬわけにはいかない。絶対に、だ。




(俺がここで倒れれば、あの冷たい世界に鸞を一人取り残すことになる。……誰が鸞を守るというのだ)




大渭国の再興という大義も、不敗の名誉も、男としての誇りも、今の俺にとっては塵芥ほどの価値もない。生きて鸞の腕の中へ帰るためなら、俺はどんな泥を啜り、どれほど過酷な地獄に身を落としても構わなかった。たとえどんな手段を使ってでも生きて鸞の元へ這い戻ること――それだけが、俺に課せられた絶対の誓い。

手綱を握り締める拳に力がこもって鉄の小手が軋むなか、俺は鎧の下の熱を深く抱きかかえ、決戦の地を見据えて馬腹を猛烈に蹴り上げた。


そうして辿り着いた戦場では、天を裂くような雷鳴とともに叩きつけるような暴風雨が晋陽の地を深い泥濘へと変えていた。

視界を白く遮る激しい雨水が甲冑の隙間から容赦なく流れ込んで体温を無慈悲に奪ってゆくなか、網の目のように張り巡らされた包囲網の内側で、四十二万の軍勢に数千で立ち向かうという完全なる死地が目の前に広がっている。

泥水を蹴り立てて敵兵の波を斬り伏せるたび、握った剣の柄が雨と生温かい液体でぬめりと滑り、幾百もの刃が俺の命を刈り取ろうと迫ってすれすれをかすめてゆく。死の風に晒されて疲弊はとうに限界を超え、息を吸い込むたびに灼けるような痛みが胸を支配していた。

ここで力尽きれば、そのまま無数の足に踏みにじられ、乱世の塵として消え去るのみ。そうして底知れぬ死の恐怖が、冷たい影のように背筋を這い上がろうとした、まさにその時であった。




(――熱い)




凍てつくような泥雨のなか、身体の奥底が火傷しそうなほどの熱量を放ち始めたのは、玄色の甲冑の下、直に吸い付いていた猛虎と飛鸞の戦袍の存在ゆえであった。夜を徹して鸞が縫い上げてくれたその布に込められた祈りと、初夜の褥で分かち合った温もりが、消えかけていた生命の火を爆発的に呼び覚ましてゆく。


懐の組紐が心臓の位置で確かに脈打っているような錯覚を覚えるなか、ここで死ねば、あの晶陵の箱庭に彼女を一人残すことになるのだと猛烈な覚悟が込み上げる。約束した通り、俺の命はもう俺一人のものではなく、あいつの元へ生きて帰るためなら、名誉も、誇りも、人間の形すら捨てて修羅になってやる。



「俺に続け……! 一歩も退くな!」



血を吐くような咆哮を上げ、俺はわずか十三騎の精鋭を率いて、四十二万の敵本陣へ向けて猛然と馬首を巡らせた。眼前の大軍など、魂の飢えに比べれば恐るるに足りない。

嵐を切り裂いて泥濘を駆け抜ける狂乱の視界のなか、その混沌の最中、激しい雨幕の向こう側にふっとあり得ない色彩が浮かび上がった。




(……鳥?)




それは、血と泥に塗れた戦場にはおよそ相応しくない一羽の白い水鳥であった。

外の暴風雨に羽を叩かれながらも、汚濁に満ちた地を嘲笑うかのように真っ直ぐに澄み切った空へと気高く羽ばたいている。泥に一切汚れないその一点の濁りもない白を目にした瞬間、脳裏には、晶陵の古い居間で温かな花茶を淹れていた彼女の、白粉のいらない真っ白な佇まいが鮮烈に重なっていた。




(ああ、鸞……お前は、そこにいるのか)




それは幻影だったのかもしれないが、その純白の羽ばたきは、暗闇の底にいた俺の魂を導く一筋の光そのものであった。




(この美しい鳥を、こんな泥沼には絶対に連れてこない)




彼女の清らかな世界を乱世の汚れから守り抜くためにも、俺がこの手で地獄のすべてを終わらせ、覇者となって迎えに行くしかない。

背中を焼く戦袍の熱が限界を超えた凄まじい力を呼び起こしてゆくなか、俺はただ一羽の白鷺の影を追いかけるように剣を高く掲げ、絶叫する敵兵の渦へと十三騎の血路を開き、深く、どこまでも深く突き進んでいった。


幾多の命を屠り、どれほどの時間が流れただろうか。

やがて分厚い雨雲がひび割れて灰色の空から薄日の矢が晋陽の戦野へと差し込んでくると、すべてを洗い流すかのように吹き荒れていた嵐はとうに過ぎ去っていた。

視線の果てまで続く泥濘にはおびただしい数の兵の骸が折り重なり、むせ返るような鉄の錆と血泥の匂いが重く立ち込めている。刃こぼれした剣を杖代わりに深々と突き立て、俺はそのぬかるみのなかに、ただ一人立ち尽くしていた。


目の前に突きつけられた絶望の壁を前に、十三騎で敵本陣を打ち砕くという奇跡と呼ぶべき勝利を収めたものの、俺の心に天下を救った英雄としての歓喜など微塵もない。玄色の甲冑が無残にひしゃげるほどの激しい疲労が身体に押し寄せていたが、胸の奥では、確かな命の音が激しく脈打っている。

泥に塗れた鉄の小手を外して震える指先で懐へと触れれば、そこには、俺をこの現世に繋ぎ止めた手製の組紐と、決して熱を失わなかった戦袍の柔らかな感触が確かに残っていた。




(……生きて、夜明けを迎えることができた)




ざらついた赤い絹糸を引き出し、血と泥に塗れた口元へとそっと押し当てる。

これで、鸞の元へ帰れる――あの温かな花茶の香りが満ちる晶陵の箱庭へ。俺の帰りをただひたすらに祈って待っているであろう、愛しい妻の腕の中へ。

そうして安堵の吐息を長く零した、まさにその直後であった。


背後から、泥を跳ね上げる真新しい蹄の音が近づいてくる。

現れたのは生き残った味方の兵ではなく、はるか後方の安全な陣からやってきた偽帝・劉莽(リュウ モウ)の使いであり、使者は馬上から俺を見下ろすように冷徹な声で竹簡を読み上げた。



「劉将軍。此度の大勝、誠に見事である。陛下は将軍の武功を高く評価し、ただちに次なる任を下された」



次なる任――その言葉に、熱を取り戻しかけていた血が急速に冷えてゆく。



「将軍はこれより兵を率い、大河を越えよ。渭北(いほく)の平定を命ずる」



「――渭北」



それは、故郷である晶陵とは真逆の方角にある、凍てつく氷雪が支配するもう一つの死地であった。




(帰れない、だと……?)




奴の底知れぬ猜疑心は、圧倒的な武功を挙げた俺を恐れ、さらなる地獄へと追放しようとしているのだと直感する。

視界がぐらりと揺らいだその瞬間、今まで吹いていた生温かい風が反転し、吹き付けてきた冷酷な北風が戦袍の温もりを容赦なく奪い去っていった。這いつくばってでも彼女の元へ帰ると誓ったにもかかわらず、愛しい体温も香りもない、途方もなく遠く冷たい氷雪の世界が、あざ笑うかのように俺の行く手を冷酷に塞いでいた。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります……!

(※評価は後からでも変更・取り消しが可能です!)


また、【ブックマーク】に追加していただけますと、更新後すぐに続きをお読みいただけます。


また明日19:00にお会いしましょう!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。