第20話
明け方の冷気が足元から音もなく這い上がってくるなか、数刻前まで二人を甘く包み込んでいた微睡むような熱は、出陣を告げる重い銅鑼の響きとともに容赦なく霧散していった。
薄闇に沈む寝所を支配するのは冷たく鈍い金属音ばかりであり、擦れ合う鎖帷子の響きや革紐を締め上げる硬い軋みが、現世の戦乱を否応なしに突きつけてくる。重い玄色の甲冑を身に纏うたび、鉄の冷徹さが全身を過酷に強張らせてゆくようであった。
不意に背中へと重なった柔らかな質感は、夜通し針が進められた絹布の手触り。地に伏す黄金の虎と、その頭上を導くように舞う鮮やかな青と赤の鳥――愛しい妻が縫い上げてくれた猛虎と飛鸞の戦袍が広い肩を優しく覆ってゆくものの、背伸びをして衣を掛けてくれる彼女の指先は、触れた端から急速に熱を失っていくのが痛いほどに伝わってくる。
これから最愛の番から遠く距離を置き、この凍てつく鉄の塊だけを肌身離さず生きていかねばならないという容赦のない現実が、俺の喉の奥をきつく締め付けていた。
「……鸞」
振り返り、その華奢な肩を力強く引き寄せる。
「っ……」
冷たい鉄の胸当て越しに伝わってくる、細い身体の小刻みな震え。同時に、俺の胸の奥で早鐘のように打つ切実な心拍が彼女の手元へと直に響いてゆき、とん、とん、と早く、けれど確かに脈打つその命の振動を、彼女はそっと確かめるように受け止めていた。
奥歯を噛み締め、零れ落ちそうな涙を必死に堪えながら、彼女は二本の組紐を俺の掌へ優しく握らせてくれる。
「一本は、貴方の無事を祈って。もう一本は……どれほど離れていても、魂だけは離れないようにと願いを込めて」
掌に伝わる、幾晩もかけて結ばれたであろうざらついた感触。その愛おしい重みが、彼女の声よりも雄弁に離れがたい想いを俺の胸へと突き刺してくる。
「これを……私だと思ってください、老虎。どんなに遠く離れていても、私の魂は常に貴方の傍にあります」
「ああ……分かっている」
ざらついた赤い絹糸の感触を指先で愛おしむように包み込み、俺は甲冑の奥、心臓に最も近い懐へと深くしまい込んだ。指先に残る彼女の体温の残照が、腹の底に眠る獣へ、生存に対する凄まじい執着を呼び覚ましてゆく。
(……懐にあるこの赤い糸だけが、俺の命を現世に繋ぎ止めている)
甲冑の隙間から心臓の最も近くに収められた手製の組紐の膨らみへそっと指先を這わせれば、ざらついた絹糸の感触が、目を閉じれば今もすぐそこにいる妻の赤く染まった目尻を鮮明に思い出させる。
名誉も、将としての誇りも、今の俺には何の意味も成さず、生きて彼女の元へ帰るためなら、どんな泥を啜り、いかなる過酷な境遇に身を落とすことになろうとも構わない。魂をどれほどの闇に売ろうとも、この腕の中にある唯一の光へ帰ることだけが俺の戦う理由なのだから。
「必ず生きて、この場所へ……お前のもとへ帰る。俺の命は、もう俺一人のものではないからな」
「はい……お待ちしております」
行かないでと叫びたげな彼女の唇の震えをすべて呑み込むように、俺は愛しい番を一度だけ深く抱きしめた。
外から全軍の出立を告げる角笛が鳴り響き、低く長く尾を引く音が地を重く震わせているなか、無言で踵を返して扉の外で嘶く黒馬へと跨った。一度でも振り返れば二度とこの地を離れられなくなることを互いに知っているからこそ、ただの一度も振り返ることなく、晶陵の屋敷を後に疾駆してゆく。
鸞がこの時渡したのは、『如意結』と『同心結 』の組紐です。
↓意味はこんな感じ↓
如意結:願望成就や成功、強力な魔除け
同心結:揺るぎない愛
どちらの組紐も繊細で面白いのでぜひ中華街などで探してみてください!
少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります……!
(※評価は後からでも変更・取り消しが可能です!)
また、【ブックマーク】に追加していただけますと、更新後すぐに続きをお読みいただけます。
また明日19:00にお会いしましょう!




