第19話
分厚い木製の天蓋が、重い影を褥の隅へと落としていた。
目張りされた窓枠が外の世界の冷気を完全に遮断し、南苑州の晶陵にあるこの寝所だけが、絶対的な熱を帯びた箱庭と化している。背中を預ける硬い木枠の感触と、素肌に絡みつく絹布の滑らかさに身を委ねれば、昼間のあいだ固く張り詰めていた身体の強張りが、水に泥が溶けてゆくように少しずつ解きほぐされていくようだった。
部屋の隅に置かれた一本の蝋燭がパチリと灯芯を爆ぜさせ、淡い橙の揺らぎを土壁へ優しく投げかけている。室内に甘く満ちているのは、微かな白檀の香りと、先ほどまで二人で口にしていた花茶の清らかな残り香。兄の血と泥、そして鉄の味に塗れた凄惨な記憶が、この温かな香りを吸い込むたびに胸の奥底から静かに押し流されていった。
(ここだけが、俺の帰るべき常世なのだ)
一歩外へ踏み出せば、偽帝の眼を欺くため、牙を隠した修羅として盤面を睨み続けなければならない。けれど、この閉ざされた愛の空間に戦の泥濘を持ち込むことだけは絶対にしないと心に固く誓い、深い息を肺いっぱいに吸い込んでから、やがて静かに吐き出した。
視線の先、揺れる灯火の傍らには、文机に向かうひとつの愛しい影があった。明日俺が身に纏うための地味な衣を、細い指先が静かに折り畳んでいる。彼女が身じろぎするたび、淡い紅梅色の絹衣がすり、と柔らかな音を立て、白粉など引かずとも透き通るようなうなじが、頼りない炎に照らされて美しく浮き上がっていた。
かつて陰家の義父母の後ろ姿に重ね、羨望とともに焦がれていた家族の情景。生涯ただ一人の妻を娶り、その髪を梳くという、凍てついた俺の世界には決して手の届かないはずだった原風景が、今、己の寝所のすぐ目の前に広がっている。
胸の奥底で重く濁っていた葛藤が音を立てて崩れ落ちてゆき、この無垢な光を誰の目にも触れさせず、今すぐこの両腕の中に完全に囲い込んでしまいたいという衝動に駆られた。胸の奥で眠る野獣が渇ききった喉を鳴らす。
「……鸞」
かすれた低い声が、部屋の静寂を優しく溶かした。衣を整えていた長い睫毛が跳ね、澄んだ琥珀色の瞳がこちらへと向けられる。
「はい、老虎。どうなさいましたか?」
「……もう休もう。こちらへ来てくれないか」
俺は膝を軽く叩き、自身の掌をゆっくりと差し出した。掌を斜めに横切る硬い剣だこが、今はひどく不器用に小刻みな震えを帯びている。差し出された手を見つめた彼女は、目元をふわりと緩めると、躊躇いもなくその手を取ってくれた。
(ひどく、小さくて柔らかい……)
ざらついた俺の掌に包まれたその指先は、少しでも力を込めれば容易く砕けてしまいそうなほど細い。そのまま手首を引き、彼女を寝台へと導けば、俺の広げた両膝の上へと跨るようにして彼女が静かに腰を下ろした。膝と膝、太腿と腰が寸分の隙間もなく密着し、淡い紅梅色の絹が心地よく擦れ合う布地越しに、火傷しそうなほど高い体温と柔らかな重みが直に伝わってくる。
「……老虎」
至近距離で見見下ろす琥珀色の瞳が、微かな光を反射してしっとりと潤んでいた。紅を引いていない鮮やかな唇から、甘く愛おしい響きがこぼれ落ちる。
俺は彼女の細い腰を抱いていた手を背中へと滑らせ、黒く艶やかな長髪の根元へと指を潜り込ませてゆく。ゆっくりと指の腹でその髪を梳き、もう片方の手で透き通るような頬をそっと包み込めば、硬い掌の感触に彼女は微かに目を細め、体温を求めるように頬を擦り寄せてきた。
「鸞。お前が、俺の腕の中にいる。……それだけで、狂いそうなほど幸せだ」
喉の奥から絞り出した音は、切実な祈りのようでもあった。
重なり合った胸の奥から、トクン、トクンと、互いの鼓動が完全に同期して響き合っているのが伝わってくる。戦場では容赦なく敵を討つこの腕が、今は最も壊れやすい宝物を扱うように、触れるか触れないかの距離で彼女の背中の線をなぞっていた。吸い寄せられるように、彼女の少し開いた唇へ、己の唇をそっと重ね合わせる。
「……んっ」
微かな甘い吐息を飲み込み、角度を変えて何度も深く唇を重ねた。互いの熱が触れ合い、呼吸が甘く混じり合ってゆく。ひたすらに焦がれ続けた渇きを潤す甘露のような熱に浸りながら、彼女のすべてをこの身の内に溶かし込んでしまいたいという衝動と、彼女の輪郭を確かめるような静かな愛撫が、身体の隅々にまで深く沁み渡っていく。果てのない熱の波の中で、俺は己の魂を完全に彼女と同化させていった。
◆◇◆
蝋燭の火が静かに燃え尽き、青白い月明かりだけが窓の隙間から細く差し込む夜の底。ひとつの夜着の下で素肌を寄せ合い、互いの体温だけを頼りに穏やかな呼吸を繰り返していた。
「……老虎。もし、私達に子供ができたら、どんな子に育ってほしいですか?」
俺の胸元に耳を押し当て、微微睡むような声が不意に静寂へ落ちる。
その愛おしい問いかけに、俺は彼女の平らで柔らかなお腹へとそっと掌を滑らせ、温もりを確かめるようにゆっくりと円を描いた。
「そうだな……もし生まれてきてくれるなら武勇も、才覚もいらない。ただ、元気に生まれてきてくれればそれでいい」
言葉を落とすと、胸元の小さな頭が安心したようにすりすりと動く。黒い髪を優しく撫でながら、脳裏の奥にこびりつく暗い残響を思い返していた。実の母から『災厄』と蔑まれ、冷たい土の匂いのなかで息を潜めていた幼き日の記憶が蘇る。俺とお前の間に生まれる命には、あんな凍える夜を絶対に歩ませはしない。
「……できれば、三人ほしいな」
「まあ。三人、ですか」
喉の奥でくすくすと鳴る甘い音を受け止めながら、その愛おしい身体をさらに深く腕の中へと抱き込む。
「ああ。俺たちの子供は、間違いなくこの世に祝福される。俺たちの愛情だけで包み込んで、光の中だけで育てよう」
俺が血の泥を啜ってでも手に入れる未来は、すべてこの腕の中にある命のために存在するのだから。その確かな熱を信じ、俺は静かに目を閉じた。
だが――。
世界が最も深く沈み込む、夜明け前の静寂の中。
ひゅん、と冷たい風が目張りの隙間を鳴らした直後、遠く晶陵の街の境界の向こうから、軍馬のいななきが微かに空気を震わせた。続いて聞こえてきたのは、無数の金属が擦れ合う、重く冷たい甲冑の跫音。
(砂時計が、落ち切ったか)
わずか半年。それが、天が俺たちに許した甘く短い蜜月のすべてだったのだろうか。
この完璧な箱庭の終わりが近づいている。偽帝の果てしない猜疑心が俺を死地へと引き摺り出し、この腕の中から彼女を引き剥がそうとする。この甘い香りも温かな体温もない、凍てつく鉄の匂いだけの過酷な夜が訪れようとしていた。
背筋を這い上がる死地の気配に奥歯を噛み締めながら、俺は胸元で微睡む細い背中を、二度と手放すまいと骨が軋むほど強く、強く抱きしめ続けていた。
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