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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第二章◆

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第18話

息の詰まるような逃避行の末、晶陵の屋敷に辿り着いた時、夜は最も深い底にあった。


凍てつく未明の冷気が疲弊しきった肉体を容赦なく刺し、莞から馬を潰す勢いで狂ったように駆け抜けて全身にこびりついた兄の血と泥は、すでに黒く乾きかけて衣服とともに身体を不快に強張らせていた。


静まり返った陰家の門を潜り抜けると、微かな灯りを掲げた背の高い人影――兄と無二の親友であり、この陰家を束ねる陰識(イン シキ)がそこに立ち塞がる。

揺れる灯火の下、彼の顔には血と泥に塗れた俺の姿を見た瞬間にすべてを悟ったような張り詰めた気配が漂っており、俺の尋常ならざる様相と、そこにいるはずの兄の不在が、何よりも雄弁に真実を物語っていた。



「彪……お前、その身体の血は……まさか、昂はどこへ行った」



陰識の低く震える声に、俺は割れた唇をきつく噛み締め、ただ首を横に振ることしかできず、喉の奥が引き攣って言葉が出ない。

その瞬間、普段は決して感情を乱すことのない識が掲げた灯りを激しく震わせ、夜の静寂を切り裂いて邸内へと響き渡るような、声を詰まらせた問いを投げかけてきた。



「……あの昂が、なぜ……ッ!」



その決定的な絶報が風に乗って奥へと吹き抜けてゆく。

兄が死に、強固な盾が砕け散った今、あの簒奪者の矛先は間違いなく残された劉家と、親しいここ陰家へ、そして何より、可憐な鸞へと向けられる。

あの男の汚い手が彼女に届くことだけは、何があっても阻止しなければならなかった。



「識。俺は、鸞を娶る。……今夜、だ」



血を吐くような低い声が響くと、陰識の目が鋭く細められ、手にした燭台の火が彼の中の怒りとともに激しく揺れ動いた。



「狂ったか。昂が死んだのだぞ。喪中の身で婚儀など、人の道に反する!」



平時であれば決して犯してはならない絶対の禁忌であると分かっていても、今の俺にとっては、そんな礼教の壁など破り捨てるべき薄紙に等しい。

俺は一歩踏み出し、血と泥に塗れた拳を強く握りしめると、爪が掌に食い込んで新たな血がじわりと滲み出した。



「道など知るか……! 明日には追手が来るかもしれない。あの男の魔手が鸞に届けば、すべてが終わる。だから、今すぐ俺の妻にする!」



足元が崩れ落ち、無限の暗闇へと真っ直ぐに堕ちてゆくような喪失感のなかで、彼女という温かな光だけが、冷え切った魂をこの世界に引き留めるたった一つの命綱であった。



「俺にはもう、あいつしかいないんだ……! 誰にも、神にすら、彼女だけは奪い取らせない!」



それは血の海に沈む寸前、ただ一つの安息を掻き抱こうとする飢えた獣の悲鳴であり、血走る瞳で射抜かれた陰識は、ギリ、と奥歯を噛み締め、やがて深く目を閉じた。



「……行け。だが、妹を悲しませたら、亡き昂との約束があろうと俺がお前を斬る」



道を譲る親友の声を背に受けながら、俺は屋敷の最奥へと足を進め、彼女の部屋の扉を激しく押し開けた。


静寂が満ちていた室内に冷たい夜気が一気になだれ込むなか、そこに立ち尽くしていたのは、薄絹の夜着を纏っただけの鸞であった。

その真っ白な肌と琥珀色の大きな瞳が俺を真っ直ぐに捉えた瞬間、俺の足元は激しく揺らぐ。




(見るな。こんな姿の俺を、見ないでくれ)




今の俺は、衣服に兄の血を吸わせ、内に復讐の獣を解き放った化け物であり、その無惨な姿を知れば、いくら俺を全肯定してくれた彼女とて、怯えて逃げ出すに違いないという底知れぬ孤独が胸の奥を容赦なく抉る。

空中で彷徨う俺の太い指先が、無様に小刻みに震え、一人の女の柔らかな髪に触れることすらできず、ただ暗闇の中で行き場を失って力なく宙を掻いた。


だが、行き場を失っていた俺の指先を、ふっと温かなものが包み込む。


微かな絹擦れの音。

淡い紅梅色が視界に揺れ、鸞が両手で俺の右手をそっと掬い上げてゆく。

血と泥に塗れたこの汚い手を、彼女は少しの躊躇いもなく自身の真っ白な頬へと引き寄せた。


すり、と――冷え切った俺の掌に、柔らかな温もりが擦り寄せられる。

彼女はそっと両腕を伸ばすと、血に濡れた俺の冷たい頬に自身の柔らかな手のひらを添え、こびりついた赤黒い染みを、指の腹でゆっくりと拭い去るように優しくなぞってくれた。


肌越しに真っ直ぐ伝わってくる、彼女の静かで確かな脈打ち。

トクン、トクンというその規則正しい命の音が、耳底で鳴り響き続けていたあの呪詛の声を、波が砂をさらうようにそっと消し去っていった。



「老虎(ラオフー)……私は、どこへも行きません」



春の風のように柔らかな声が静寂の部屋に響き、その圧倒的な受容の言葉を聞いた瞬間、極限まで張り詰めていた全身の筋肉が、内側からドロドロと融け落ちてゆくような圧倒的な弛緩が俺を襲う。

堪えきれず、俺は彼女の細い肩へと縋り付くように顔を埋めた。



「鸞……っ」



首筋に触れる唇から、堰を切ったように熱い息がこぼれ落ちる。



「すまない、鸞。お前を、こんな地獄に巻き込む……っ」



ただ、この少女を確かな『妻』という鎖で俺の腕の中に繋ぎ止めなければ正気を失ってしまうという、激しい焦燥と狂気的なまでの保護欲のまま、俺は彼女の華奢な身体を強く、強く抱きしめ返した。


陰識が人を手配し、目張りされた窓の向こうから忍び寄る敵の影を警戒するなか、我々は屋敷の一角にある奥座敷へと場所を移した。

数本の蝋燭だけが頼りなく揺れる室内は、息が詰まるような重苦しい静寂に完全に支配されている。

列席しているのは、ごく僅かな身内と親しい友人たちのみ。戸口で血の気の引いた顔で警戒にあたる者たちも、座して杯を見つめる者たちも、皆が一様に口を閉ざしていた。

彼らから俺たちに向けられる視線は、冷たい刃のように肌を刺す、ひどく痛ましく悲痛なものでしかなかった。


兄の血に塗れた衣服のまま、身内の死を悼むべきこの瞬間に婚儀を強行する。

それは、人の道を完全に外れた暴挙であった。

明日にでも追手が迫り、命を奪われるかもしれない地獄の淵へと、俺は誰よりも清らかで無垢なこの少女を、強引に引き摺り込んだのだ。

罪悪感と自己嫌悪が、刃となって胸の奥をズタズタに切り裂いてゆく。俺の身体からは隠しきれない荒い呼吸が漏れ、火傷しそうなほどの強い熱気が絶えずあふれ出していた。


カチャリ、と。

震える指先で手にした粗末な陶器の杯が、微かな音を立てる。

静寂の中、隣に座る鸞へと視線を向けた。


本来ならば金銀の絢爛な花冠を戴くべき頭には、ただ一本、素朴な木の簪が挿されているだけだった。

淡い紅梅色の絹衣を纏う彼女は、血と泥に塗れた俺の隣で、ひどく不釣り合いなほどに澄み切って可憐であった。

周囲の哀しげな視線など一切意に介さず、彼女はただ真っ直ぐに俺の目を見つめ返してくる。

揺れる炎を映す琥珀色の瞳には、迷いも、怯えも、後悔すら微塵もない。


そこにあったのは、俺という修羅の業をすべて受け入れ、ともに運命を背負い抜くという強烈なまでの覚悟と安堵であった。

その瞳に見つめられた瞬間、俺の胸に渦巻いていた罪悪感すらもが、圧倒的な救済の光に呑み込まれてゆく。



「……鸞」



熱を帯びた呼気とともに、彼女へと杯を差し出す。

白く冷え切った指先が、素焼きのざらついた杯をしっかりと受け取った。


互いに杯を煽る。

喉の奥を焼き尽くすような鋭い酒の熱さが、二人の命を永遠に縫い止める確かな楔となって、胸の底へと真っ直ぐに落ちていった。




(俺は今、世界で一番幸せな男だ)




明日、この命が散ろうとも構わない。

俺は今日、すべての世界を敵に回し、人の道を外れてでも、ただ一つ欲しかった初恋を己の腕の中に囲い込んだー。

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