第17話
第二章は劉彪視点の物語です。
陰鸞を愛していた劉彪がどうして重婚することになったのか…
ぜひ見届けてください!
上質な漆が塗られた卓の上で微かに揺れ動く灯明の炎が、広間の冷え切った空気を不気味に切り裂いていた。
南苑州・莞の広間にて、上座に深く身を沈めた劉莽が、薄ら笑いを浮かべながら玉の杯を持ち上げる。
「劉昂将軍。此度の類まれなる武功、まことに見事であった。劉家の武勇、まさに天下の至宝。さあ、朕からの直々の祝いだ。飲み干すがよい」
ねっとりとした粘り気のある声音が静まり返った床板を幾重にも這うようにして伝わり、差し出されたその杯からは、饐えたような、鼻腔を刺す不自然に甘い香りが漂っていた。
末席に控えていた俺の首筋に、冷たい氷の刃を押し当てられたかのような鋭い悪寒が駆け抜けてゆく。
(飲んではならない――兄上!)
膝の上に置いた拳に力がこもり、指の関節が白く浮き上がってギリギリと骨が鳴るが、ここで杯を拒めば、それを合図に周囲の御簾の裏から一斉に伏兵の刃が飛び出してくるのだろう。
乱世の盤面を完璧に整えた男の冷酷な視線が、逃げ場のない檻のように俺たちの身を過酷に縛りつけていた。
張り詰めた静寂のなか、長兄・劉昂の大きな背中はびくりとも動かなかった。
兄はただ、濁った甘い香りを放つ杯をじっと見つめ、次の瞬間、広間の梁を震わせるほどの豪快な笑い声を響かせた。
「陛下の御恩、我が血肉に変えて報いましょう」
迷いのない太い腕が杯を一気に傾け、ごくりと喉仏が大きく上下する音が、ひどく引き伸ばされた時間の中で俺の耳底に届いた。
数拍の間、堂内を支配した不気味な静寂を破るようにして、直後、ゴボッという粘り気のある異音が空気を切り裂く。
兄の屈強な身体が大きく痙攣し、割れた唇からどす黒い血の塊が床へとぶちまけられた。
ガシャンッ、と玉の杯が石の床に砕け散る高い音を合図に周囲の空気が一変し、御簾が一斉に引きちぎられ、甲冑を激しく擦り合わせる音とともに武装した伏兵たちが怒涛の如く雪崩れ込んでくる。
鼻腔を塞ぐのは、むせ返るような生温かい血の匂いと饐えた毒酒の香り。
莞の宴会場は、一瞬にして肉を裂き、骨を砕く鈍い音が乱反射する凄惨な場へと変貌し、薄暗い松明の光が揺れる視界の先で、大樹のような巨体が無数の槍に深く貫かれてぐらりと傾いてゆく。
「兄上……ッ!」
声にならない絶叫が喉の奥をズタズタに切り裂いて血の味が口中に広がり、一族の最強の盾であった兄の頑強な身体から黒い血がとめどなく溢れ落ちて床の溝を赤く染め上げていった。
助けに入ろうと床を蹴った俺の動きを、血走った兄の眼光が鋭く射抜いてその場に縫い止める。
――来るな。
槍の雨を浴び、血を吐きながらも、その瞳だけは激しく俺を突き放していた。
「劉莽……! 貴様は俺を殺せても、劉家の魂までは殺せんぞ……!」
何本もの槍が深々と肉に突き立てられたまま、兄は仁王立ちになり、遥か上座で冷笑を浮かべる簒奪者へと血みどろの咆哮を叩きつけると、最後の力を振り絞り、暗がりに身を潜める俺へと視線を向けた。
「彪……走れ! 劉家の火を、絶やすな……ッ!」
ドォン、と――俺の世界を支えていた巨大な山が、冷たい床へと崩れ落ちる重い地響きが轟いた。
その瞬間、俺の頬に生温かい血の飛沫がぽつりと跳ねてこびりつき、遥か上座で劉莽が満足げに唇を歪めて嗤う顔が、ひどく緩慢な時の流れの中で瞳の奥に焼き付いてゆく。
ギリ、と奥歯が嫌な音を立てて砕けて鉄の味が喉へと流れ込み、父の遺言であった『虎の爪を隠せ』という絶対的な鎖を、俺の奥底に潜んでいた獰猛な本能が、鋭い牙で無残に噛みちぎっていた。
理性を繋ぎ止めていた細い糸が音を立てて焼き切れ、視界のすべてが真っ赤な血の色に染まり上がる。
(この場にいる敵をすべて引き裂いてでも、生き残る)
温厚な青年というこれまでの仮面を内側から引き裂き、血に飢えた猛虎が漆黒の夜へと完全に解き放たれ、迫り来る伏兵の囲いを引きちぎるようにして突破した俺は、奪い取った馬の背に飛び乗った。
漆黒の闇夜を馬の蹄が暴力的に切り裂いてゆく。
莞の宴会場から血路を開き、俺は故郷である晶陵へと狂ったように馬を駆り続けていたが、冷たい夜風が容赦なく熱を奪っていくなかでも、敵の返り血を浴びたこの身体からは濃密な血と鉄の匂いがどこまでも重く立ち上り続けている。
(必ず、俺の手で引き裂いてやる……!)
胸の奥で煮えたぎる復讐の炎が視界を赤く染め上げるが、晶陵の境界線へと近づくにつれ、その怒りすらもが氷点下へと凍りつかせるほどの絶対的な恐怖が、背筋を幾重にも這い上がってきた。
兄という強大な盾を失った今、あの猜疑心の塊である簒奪者が次に狙うのは誰か――俺からすべてを奪い、完全に絶望させるために、真っ先に手を伸ばす先は決まっている。
(鸞!)
彼女の貌が脳裏に浮かんだ瞬間、心臓を直接鷲掴みにされたように胸の奥が激しく軋み、奴は必ずあの命綱を奪い去り、無残に踏みにじろうとするだろうという確信が胸を支配した。
(誰にも、指一本触れさせない……!)
ただ、あの少女が誰かの手に奪われるかもしれないという想像だけで、腹の底で暴れ狂う獣が世界そのものを破壊しかねないほどの狂乱を呼び起こす。
手綱を握る指にさらに力がこもり、爪が掌の肉に深く食い込んで血が滲むなか、あの愛おしく無垢な光を、誰の目にも触れない安全な場所へ、俺の腕の中へ今すぐ完全に囲い込まなければならないという衝動に駆られ、途方もない独占欲と狂気的なまでの保護欲によって己の輪郭がドロドロに塗り潰されてゆく。
血に塗れた修羅は、ただひたすらに己の唯一の番を求めて、夜の闇をどこまでも駆け抜けていった。
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