第94話 王国への帰路
獅心を腰へ戻して間もなく、中央の方からブラノールが歩いてきた。
身につけているのは、いつもと変わらないシャツとスラックス。
最後に現れた魔族を相手にしていたはずだが、身体に目立った傷はなく、足取りにも疲労は感じられなかった。
「セフィリア。出発の準備が整うまで、もう少し休んでいろ」
「ですが、私はもう大丈夫です」
「魔力は戻り切っていないだろう」
セフィリアが何かを言い返そうとする。
だが、ブラノールの視線を受け、諦めたように肩を落とした。
「……分かりました」
「従騎士を一人連れていけ。もう一人は、魔導艇の出発準備に加われ」
「はい」
セフィリアは俺へ軽く頭を下げると、従騎士とともに治療用の天幕へ戻っていった。
残った従騎士も魔導艇へ向かう。
周囲に人がいなくなったところで、ブラノールが俺を見る。
「先ほどは、セフィリアを守ってくれたことに礼を言う」
「俺は西側を守っただけです」
「それで十分だ。君があの魔族を止めていなければ、封鎖が終わる前にセフィリアまで届いていた可能性がある」
ブラノールの視線が、壊れた木柵の向こうへ向けられる。
「林の奥に潜んでいた魔族は、僧侶の位階にある個体だった」
「僧侶……」
「魔族が自らを分ける位階の一つだ。レッサーデーモンや、君が斬った魔族よりも上に位置する」
「倒したんですか?」
「ああ。亀裂が閉じる直前に姿を現した。逃がしてはいない」
短く答える。
そこに自らの戦果を誇る様子はなかった。
「僧侶は、自ら勇者へ向かうつもりはなかったようだ。君が戦った魔族や魔物を使い、防衛線を崩そうとしていた」
「自分は林に隠れたままですか」
「そういう戦い方をする個体もいる。魔族は力だけで動くものばかりではないということだ」
昨日から続いていた魔物の襲撃。
西側へ入り込んできたレッサーデーモン。
封鎖が始まったあと、林から現れた魔族。
すべては拠点の守りを調べ、勇者へ至る道を作るためのものだった。
「ただ、僧侶にとっても、君の存在は想定外だったらしい」
「俺が?」
「西側に配置された冒険者の一人が、送り込んだ魔族を倒すとは考えていなかったのだろう」
ブラノールの視線が、俺の腰にある黒鞘へ移る。
「最後の一撃は見ることができなかったが、セフィリアや周囲の兵から話は聞いている。あの魔族を一人で斬ったそうだな」
「一人ではありません。周りの冒険者に、ほかの魔物を止めてもらっていました」
「そう答えるところも含めて、報告どおりらしい」
ブラノールの口元がわずかに緩む。
「一つ、確認したい。帝国元老院のレオン・クレハルトは、君の兄か?」
「はい」
「やはりそうか。君の兄姉を含め、クレハルトの名は王国騎士団にも知られている」
兄は帝国元老院の一席を預かり、姉は王国で術式の研究を続けている。
二人の名が知られていることは、不思議ではなかった。
「特に、君の父上や祖父上とは、一度闘ってみたいと思っている」
魔族の話をしていた時よりも、わずかに声が弾んでいた。
「……機会があれば、伝えておきます」
「頼む」
『この騎士団長も、強い相手には目がないみたいね』
セレスの声が意識へ響く。
『あなたの家族には、そういう人間を引き寄せる何かでもあるのかしら』
「俺に聞かれても分からない」
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
セレスの声へ答えたことを誤魔化す。
ブラノールは気にした様子もなく、再び俺へ目を向けた。
「だが、家名だけで君を評価するつもりはない」
先ほどまでより、少しだけ声が低くなる。
「今回の働きは、間違いなく君自身のものだ。クレハルトの名が魔族を斬ったのではない。君が積み重ねてきたものが、あの一撃へつながった」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。見たままを話しただけだ」
ブラノールが魔導艇の方を見る。
王国騎士や従騎士たちが、積み込む荷物を確認していた。
「君は、王国へ帰る予定だったと聞いている」
「はい。今回の依頼を終えたら、そのつもりでした」
「私たちも一度帝都へ戻り、女帝への報告を済ませたあと、王国へ帰還する」
ブラノールが俺へ向き直る。
「魔導艇には一人分の余裕がある。よければ、君も乗るといい」
「いいんですか?」
「セフィリアも、そのつもりでいるようだ」
刀を見せたあと、セフィリアが何も言わずに戻ったとは思えない。
おそらく、先にブラノールへ頼んでいたのだろう。
「私も異論はない。陸路を使うより、はるかに早く王国へ戻れる」
「それなら、お願いします」
「決まりだな。明朝、帝都を発つ。それまでに用事を済ませておけ」
「分かりました」
ブラノールは頷くと、拠点の撤収を指揮するため中央へ戻っていった。
その日の夕刻。
王国騎士団の魔導艇は、撤収する帝国兵たちよりも先に帝都へ帰還した。
帝都の発着場へ降りると、ブラノールたちはそのまま帝国宮殿へ向かった。
俺は一度別れ、依頼の報告をするため帝国ギルドへ向かう。
数日離れていただけだが、帝都の街並みを歩くのは久しぶりに感じられた。
道場から聞こえてくる掛け声。
行き交う人々の足音。
屋台から漂う肉や香辛料の匂い。
亀裂の周辺で感じていた魔素の偏りも、この場所までは届いていない。
帝都は、俺たちが出発した時と変わらず動き続けていた。
ギルドへ入ると、一階の受付は依頼帰りの冒険者たちで混み合っていた。
受付で名前を伝えると、報告書を書くより先に、ギルド長室へ行くように言われる。
階段を上がり、扉を叩く。
「どうぞ」
中から返ってきた声に従い、扉を開けた。
白いシャツと黒いスラックスを身につけたギルド長が、机の向こうに座っていた。
出発前と変わらない柔らかな笑みを浮かべている。
「お帰りなさい、レグルスさん」
「まだ、戻ったという報告もしていませんが」
「王国騎士団から、先に知らせが届いています」
机の上には、封を切られたばかりの書類が置かれていた。
「亀裂は無事に封鎖。周囲にいた魔物と魔族も討伐された。あなたは西側の防衛に加わり、現れた魔族の一体を倒したそうですね」
「そこまで書かれているんですか?」
「ええ。十分な働きだったと、騎士団長からも評価されています」
ギルド長が書類を一枚取り、俺の前へ置く。
依頼の達成を認める証明書だった。
「今回の功績は、王国の所属ギルドへも正式に送っておきます。階級の審査材料にはなるでしょう。ただし、帝国側で勝手に階級を変更することはできません」
「それで構いません」
「欲がありませんね」
「階級を上げるために行ったわけではありませんから」
「そうでしたね。あなたは、頼まれた場所を守りに行っただけでした」
依頼を受けた日に、自分が口にした言葉だった。
ギルド長は椅子へ深く座り直す。
「報酬については、一階の受付で受け取ってください。魔族の討伐分も上乗せされています」
「分かりました」
証明書を受け取り、部屋を出ようとする。
だが、扉へ手を伸ばす前に足を止めた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「どうして、俺をあの依頼へ送ったんですか?」
ギルド長は、すぐには答えなかった。
机の上で両手を組み、こちらを見ている。
「あなたなら、亀裂が閉じるまで防衛線を守れると思ったからです」
「強い魔族が現れると、知っていたんですか?」
「いいえ。ただ、亀裂を閉じようとすれば、向こう側も抵抗するでしょう。勇者と騎士団長が中央に立つのなら、敵はその外側を狙う。それくらいは予想できます」
「それで、俺を?」
「あなたなら、どこへ配置されても、その場所を守ると思いましたから」
柔らかな口調だった。
だが、俺がどのように答え、どう動くのかを、初めから知っていたようにも聞こえた。
『嘘は言っていないわね』
セレスが呟く。
『でも、すべてを話しているわけでもないわ』
俺も同じように感じていた。
「結果として、私の判断は間違っていなかったようです」
ギルド長の視線が、俺の腰にある黒鞘へ向けられる。
「新しい刀も、無事に役目を果たしたようですね」
「そのことも、報告書に書かれていたんですか?」
「いいえ」
ギルド長が目を細める。
「今のあなたを見れば分かります」
それ以上尋ねても、答えは返ってこない。
そう判断し、俺は扉を開けた。
「失礼します」
「レグルスさん」
呼び止められ、振り返る。
「王国への道中も、お気をつけて」
「……ありがとうございます」
ギルド長は、変わらない笑みを浮かべていた。
一階で報酬を受け取り、ギルドを出ようとする。
その時、酒場の方から声をかけられた。
「おい。まさか、そのまま逃げるつもりじゃないだろうな」
振り返ると、西側を一緒に守った年長の冒険者が、仲間たちと卓を囲んでいた。
包帯を巻いた右肩を気にする様子もなく、左手で木杯を持ち上げている。
「王国へ帰る前に、一杯奢ると言ったはずだ」
「覚えています」
「なら座れ。明日の朝には出るんだろ?」
「どうして知っているんですか?」
「騎士団の魔導艇に乗って帰る奴がいるって、もう噂になってるぞ」
情報が広まるのが早い。
俺が卓へ近づくと、空いていた席の前へ木杯が置かれた。
「一杯だけです」
「分かってる。無理に酔わせるつもりはない」
注がれたのは、帝国で作られた麦酒だった。
周囲の冒険者たちも、それぞれの杯を持ち上げる。
「西側を守り抜いたことに」
「亀裂が閉じたことに、じゃないのか?」
「どっちでもいい。俺たちが生きて戻れたことに乾杯だ」
木杯が打ち合わされる。
俺も杯を合わせ、少しだけ麦酒を口へ含んだ。
苦みの奥に、穀物の甘さが残る。
長く話したわけではない。
本当に、一杯飲んだだけだった。
それでも席を立つ時には、帝都へ来たばかりの頃よりも、この場所を離れることが少しだけ惜しく感じられた。
翌朝。
俺は荷物を持ち、帝都の魔導艇発着場へ向かった。
空はよく晴れている。
発着場には複数の輸送艇が並び、その中に王国騎士団の紋章を掲げた細長い高速艇が停泊していた。
乗り場の前には、兄が立っている。
「見送りまで来ていただかなくてもよかったのですが」
「王国へ帰る弟を、見送るくらいはする」
兄の視線が、俺の荷物へ向けられる。
「忘れ物はないか?」
「ありません」
「本当にか?」
「何度も確認しました」
『保護者みたいね』
セレスの声を聞き流す。
兄の視線が、俺の腰へ移る。
黒鞘へ向けられたまま、しばらく動かなかった。
「その刀、もう名はつけたのか?」
「どうして分かったんですか?」
「持ち方が変わった。帝国を発つ前は、まだ自分のものとして迷いがあった」
兄が黒鞘を見つめる。
「今は違う」
俺は柄へ手を添えた。
「獅心です」
「獅心……」
「獅子の心臓を意味する古い言葉です。獅子宮から持ち帰った刀で、魔力を与えると心臓のように脈打つので」
名前を聞いた獅心が、黒鞘の内側で小さく鼓動する。
兄もその脈動に気づいたのか、わずかに目を細めた。
「いい名だ」
「はい」
兄は一度だけ頷いた。
「今度は、その名ごと折るなよ」
「はい」
俺は黒鞘を握り直す。
「折らないように、もっと強くなります」
「なら、それでいい」
発着場から、搭乗を促す鐘が聞こえてくる。
王国騎士たちが次々と魔導艇へ乗り込み始めていた。
「兄さん」
「何だ?」
「次に帝国へ来た時は、手合わせをお願いします」
帝国へ来てから、兄とは一度も剣を交えていない。
以前の俺なら、挑んでも相手にならなかった。
今でも、兄へ届くとは思っていない。
それでも、次に会う時までには、その背中へ近づいていたかった。
「分かった」
兄が静かに頷く。
「その時までに、獅心を使いこなしておけ」
「はい」
「レグルスさん」
魔導艇の乗降口から、セフィリアが呼んでいる。
その後ろには二人の従騎士が控え、出発の準備を進めていた。
「行ってきます」
「ああ。父上たちにも、よろしく伝えておけ」
「分かりました」
俺は兄へ頭を下げ、魔導艇へ向かった。
「おはようございます、レグルスさん」
「ああ。おはよう」
「帝国での用事は、すべて終わりましたか?」
「終わった。もう王国へ帰れる」
「それならよかったです」
セフィリアが俺の荷物を見て、首を傾げる。
「荷物は、それだけですか?」
「ああ」
「ずいぶん少ないのですね」
「必要なものは持っているからな」
腰には獅心。
その反対側にはセレスのグリモアがある。
帝国へ来た時より、持っている物の数は増えていない。
それでも、身につけたものは大きく変わっていた。
命脈を巡る魔力円環。
何も持たずとも戦うための体術。
自分を中心に描く円。
そして、名を得た新しい刀。
すべて、帝国で手に入れたものだった。
「そろそろ出発する。二人とも、中へ入れ」
背後からブラノールの声が聞こえた。
帝国宮殿から戻ったばかりなのか、先ほどまでよりも着ている服が整っている。
俺とセフィリアは魔導艇へ乗り込んだ。
乗降口が閉じられる。
低い駆動音とともに船体が揺れ、艇を支えていた術式が淡い光を放つ。
魔導艇が、ゆっくりと地面から浮かび上がった。
窓の外で、兄の姿が小さくなっていく。
その向こうには、帝国の街並みが広がっていた。
元老院の円形議場。
幾つもの道場。
遠くまで続く穀倉地帯。
『ようやく王国へ帰るのね』
セレスの声が意識へ響く。
「ああ」
『ずいぶん遠回りしたわ』
「無駄じゃなかった」
『ええ。それは認めるわ』
腰の獅心へ手を添える。
黒鞘の奥から、小さな鼓動が返ってきた。
『その刀も、同じことを言っているみたいね』
「刀は話さない」
『そのうち、本当に話し始めるかもしれないわよ』
「それは困る」
『どうして?』
「一人増えるだけでも騒がしくなりそうだからな」
『誰のことを言っているのかしら?』
セレスの声が低くなる。
「レグルスさん」
向かい側へ座ったセフィリアが声をかけてきた。
「何だ?」
「王国へ着くまで、まだ時間がありますよね?」
「ああ」
「獅心について、もう少し聞いてもいいですか?」
「見るだけじゃなかったのか?」
「見たら、もっと知りたくなりました」
セフィリアが期待のこもった目を向けてくる。
『ほら、もう一人増えたわよ』
楽しそうなセレスの声を聞きながら、俺は窓の外へ目を向けた。
魔導艇は帝都の外壁を越え、王国へ向けて速度を上げていく。
俺は帝国へ来た時、刀を失っていた。
何も持たずに戦う術を求め、自分の未熟さを確かめるため、この地へ足を踏み入れた。
帝国を離れる今、腰には獅心がある。
次にこの地へ戻る時、俺がどこまで進んでいるのかは分からない。
ただ、その時まで振り続けることだけは決めていた。
王国騎士団の魔導艇が帝都を発つ、少し前。
帝国宮殿の謁見室では、ブラノールが女帝への報告を行っていた。
「亀裂は完全に封鎖されました。周囲の魔素も、すでに正常な流れへ戻り始めています」
「再び開く可能性は?」
「今のところ、その兆候はありません」
玉座に座る女帝が、わずかに頷く。
「勇者の状態はどうだ」
「魔力の消耗は残っていますが、身体に異常はありません。王国へ戻る頃には、ほぼ回復しているでしょう」
「そうか。僧侶級の魔族は?」
「私が斬りました。周辺に潜伏していた魔族も、確認できた限りではすべて討伐しています」
女帝の表情は変わらなかった。
他国の勇者が帝国内で傷つけば、大きな問題となる。
亀裂の封鎖と僧侶の討伐も、国家にとっては重要な報告だった。
それでも女帝は、すべてを予想していたかのように静かに聞いている。
「以上が、今回の亀裂に関する報告です」
「分かった。王国へは、こちらからも正式な書状を送ろう」
「ありがとうございます」
ブラノールが頭を下げる。
報告を終え、退出しようとした時だった。
「ところで、小さき獅子はどうであった?」
聞き慣れない呼び方に、ブラノールが顔を上げる。
「小さき獅子……冒険者のレグルス・クレハルトのことですか?」
「ああ、その者だ」
「魔族を相手に大した負傷もせず、斬り伏せましたが……」
「そうか、そうか……」
勇者の無事を聞いた時にも変わらなかった女帝の表情が、そこで初めて動いた。
その口元に、わずかな微笑が浮かぶ。
それが一人の若者の成長を喜ぶものなのか。
いつか自らの前へ立つ獅子を待ち望むものなのか。
ブラノールには、その微笑の意味を読み取ることができなかった。




