第93話 獅心《コル・レオニス》
亀裂が閉じてから、三時間ほどが過ぎていた。
すでに朝日は高く昇り、臨時拠点を囲む木柵と荒れた地面を明るく照らしている。
空間を縦に裂いていた黒い亀裂は跡形もなく消えていた。周囲の魔素も、ゆっくりと本来の流れへ戻り始めている。
それでも、拠点の中に勝利を喜ぶ声はなかった。
帝国兵たちは倒れた魔物の死体を運び、冒険者たちは林の中に残党が潜んでいないかを調べている。
負傷者の治療と後方への移送も続いていた。
魔族の死体だけは別に集められ、王国騎士たちによって調査用の天幕へ運び込まれている。
俺は西側の壊れた木柵の近くへ腰を下ろしていた。
身体に問題はない。
ただ、戦いで消耗した魔力は、まだ半分ほどしか戻っていなかった。
腰には、黒鞘の刀がある。
戦いの最中に見せていた脈動は収まり、今は何事もなかったように沈黙している。
『さすがに、魔力は戻り切っていないようね』
セレスの声が意識へ響く。
「半分は戻った」
『半分しか、でしょう?』
「亀裂は閉じた。すぐに戦う必要もない」
『そういう問題かしら』
「動くには十分だ」
『相変わらず、自分のことになると扱いが雑ね』
呆れたような声だった。
返事をする前に、足音が近づいてきた。
「ここにいたか」
昨日から西側を守っていた年長の冒険者だった。
斧を背負い、包帯を巻かれた右肩を左手で軽く押さえている。
「林の中はどうでした?」
「魔物の姿はない。残っている気配も、今のところ見つかっていないそうだ」
男が俺の隣へ腰を下ろす。
「どうやら、生きて帝都へ帰れそうだな」
「亀裂は閉じましたから」
「それだけじゃないだろ」
男が壊れた木柵の向こうへ目を向ける。
そこには、戦いの跡が深く残っていた。
抉れた地面。折れた武器。乾き始めた黒い血。
「お前があの魔族を止めていなければ、西側は抜かれていた。そうなれば、勇者まで届いていたかもしれん」
「一人では止められませんでした」
「俺たちが倒したのは、横へ流れてきた魔物だけだ」
「それを止めてもらったから、魔族に集中できたんです」
俺が答えると、男はしばらく黙ったあとで笑った。
「そういうことにしておくか」
立ち上がり、服についた土を払う。
「帝都へ戻ったら、一杯奢らせろ」
「俺は王国へ帰る予定です」
「なら、帝国を出る前だ。逃げるなよ」
「分かりました」
男は満足そうに頷くと、仲間たちのもとへ戻っていった。
『少しは冒険者らしくなったんじゃない?』
「酒を奢られることがか?」
『仲間と戦って、帰ったあとに約束をすることがよ』
「そういうものか」
『そういうものよ』
セレスの声が消える。
代わりに、また足音が聞こえてきた。
今度の足音は先ほどよりも軽い。
顔を上げると、セフィリアがこちらへ歩いてきていた。
戦いの汚れは落としているが、顔にはまだ疲労が残っている。
封鎖に使った魔力も、完全には戻っていないのだろう。
少し離れた場所には、二人の従騎士が控えていた。
「もう歩いてもいいのか?」
「はい。先ほどまで、治療用の天幕で休んでいました」
「なら、まだ休んでいた方がいい」
「そうしたいのですが、その前に一つ、果たしていただきたい約束があります」
セフィリアの視線が、俺の腰へ向けられる。
「刀か」
「はい」
セフィリアの表情がわずかに明るくなる。
「依頼は終わりました。今度こそ、見せていただけますよね?」
「ああ。約束だからな」
俺は立ち上がると、周囲に人がいないことを確かめた。
黒鞘ごと刀を腰から外し、左手で持つ。
「抜くぞ」
「はい」
「今度は見逃すなよ」
「これだけ近ければ、さすがに大丈夫です」
セフィリアが真剣な表情で刀を見つめる。
俺は右手を柄へ添えた。
戦いの時とは違い、ゆっくりと黒鞘から刀身を引き抜いていく。
朝日を受けた刃が、静かな光を返した。
銀色の刀身の中央を、刃元から切っ先まで一本の黒い線が貫いている。
傷でも、刃文でもない。表面に描かれているというより、鋼の奥へ黒い何かが封じ込められているように見えた。その部分だけは朝日を返さず、差し込む光を吸い込んでいる。
幾度も魔物と魔族を斬ったにもかかわらず、刃こぼれは一つもない。刀身に残っていた血も拭い終えている。黒線の片側には、穏やかに波打つ刃文が根元から切っ先まで続いていた。
「刀身の中に、黒い線が……」
セフィリアの視線が、刃元から切っ先へゆっくりと動く。
「この形になった時からある」
「傷ではないのですか?」
「ああ。触れても段差はない。ただ、刀の内側まで続いているように見える」
「まるで、この刀の中を通る道のようですね、それに思っていたより、細いのですね」
「騎士剣とは使い方が違うからな」
「でも、弱いとは感じません」
セフィリアの目が、刀身の上をゆっくりと動いていく。
「静かなのに、眠っているだけのような……そんな感じがします」
「同じようなことを、セレスも言っていたな」
「セレス?」
腰にあるグリモアへ目を向ける。
「この本の名前だ」
「あの本に、名前があったのですね」
『本ではなく、私にあるのだけれど』
セレスは、セフィリアには聞こえていないほど小さく呟いた。
不満そうな声を聞き流し、俺は刀を持ち直した。
「先ほど、あの魔族を斬ったのも、この刀ですよね?」
「ああ」
「最後の一撃は、見ることができませんでした」
「亀裂を閉じていたんだから、当然だろ」
「分かっています。それでも、少し残念です」
セフィリアは名残惜しそうに刀身を見つめる。
「持ってみてもいいですか?」
「やめた方がいい」
「駄目ですか……」
目に見えて落ち込む。
俺は少し考えたあと、刀を鞘へ戻した。
「柄へ触れるだけならいい」
セフィリアが顔を上げる。
「本当ですか?」
「俺が鞘を押さえておく。勝手に抜くなよ」
「はい。絶対に抜きません」
俺は黒鞘を横向きに持ち、柄をセフィリアへ向けた。
セフィリアが右手を伸ばす。
少しためらってから、指先で柄巻へ触れた。
「失礼します」
そのまま、ゆっくりと柄を握る。
次の瞬間だった。
黒鞘の内側で、刀が強く脈打った。
一度。
戦いの最中に感じたものと同じ、重い鼓動。
続けて、もう一度。
二度目の鼓動とともに、セフィリアの指の隙間から淡い光が漏れた。
亀裂を閉じる際に見せていたものと同じ光だった。
「何……?」
髪の毛よりも細い光の筋が、セフィリアの掌から柄の内側へ引き込まれていく。
俺は反射的にセフィリアの手首をつかみ、柄から引き離した。
光の筋が途切れ、刀の脈動も止まる。
「大丈夫か?」
「はい」
セフィリアは自分の右手を見つめた。
「痛みはありません。ただ、ほんの少しだけ、身体の中から何かを引かれたような……」
少し離れて控えていた従騎士が足を踏み出す。
だが、セフィリアが左手を上げて制した。
「本当に大丈夫です。驚いただけですから」
「悪い。こんなことになるとは思わなかった」
「レグルスさんが謝ることではありません」
セフィリアは黒鞘の刀を見る。
怯えた様子はない。
むしろ、先ほどまで以上に興味を持ったようだった。
「この刀が、私の魔力を吸ったのでしょうか?」
「たぶんな」
『レグルス』
セレスの声が響く。
『今の、分かった?』
「魔力を吸ったんじゃないのか?」
『ええ。でも、あなたの魔力を吸う時とは違うわ』
俺は黒鞘へ意識を向けた。
刀の内側には、これまで感じたことのない微かな光が残っている。
魔力量が増えたわけではない。
刀そのものが強くなった様子もなかった。
それでも、確かに何かが加わっている。
『取り込んだというより、あの子の魔力の形を覚えた……そんな感じね』
「魔力の形?」
『勇者の魔力は、あの子自身のものだけではないわ。もっと別の何かが重なっている』
「勇者として与えられた力か」
『おそらくはね。刀がそれを使えるようになったわけじゃない。ただ、その性質を自分の中へ刻んだのよ』
力を奪ったのではない。
セフィリアにしか存在しない魔力の一部へ触れ、その形を記憶した。
「何のために?」
『そこまでは分からないわ』
セレスの声が少しだけ低くなる。
『今すぐ何かが変わるわけではない。でも、この刀がいつか今より上の位階へ進むものなら、覚えた形が鍵の一つになるかもしれないわね』
位階。
今の刀が、さらに別の何かへ変わる可能性。
俺は黒鞘を見つめた。
刀は再び沈黙している。
先ほど勇者の魔力を吸ったことさえ、初めからなかったようだった。
「レグルスさん?」
セフィリアの声に顔を上げる。
「どうしました?」
「いや。刀が魔力を奪ったわけじゃないらしい」
「違うのですか?」
「ああ。セフィリアの魔力を覚えただけだ」
セフィリアは右手を握ったり開いたりしながら、首を傾げる。
「不思議ですが、私もそんな気がします」
「分かるのか?」
「吸い取られたというより、触れたところだけを確かめられたような感覚でした」
もう一度、黒鞘へ視線を向ける。
「まるで、この刀に私の魔力を覚えられたような……」
セレスと同じ答えだった。
「それなら、悪い気はしません」
「勝手に魔力を取られたのにか?」
「ほんの少しですから。それに、忘れられるよりはいいと思います」
「刀に覚えられて、嬉しいものなのか?」
「初めて会った時から、ずっと見せてほしいと思っていた刀ですから」
「これは、あの時の刀とは違うぞ」
「それでも、レグルスさんの刀であることは同じです」
セフィリアが柔らかく笑った。
返す言葉が見つからず、俺は黒鞘へ目を落とした。
「そういえば」
セフィリアが尋ねる。
「この刀には、銘があるのですか?」
「銘?」
「名前です。これだけ特別な刀なら、何かあるのではないかと思って」
答えようとして、口を止めた。
兄から預かった古い片手剣。
獅子宮から持ち帰った、錆びた刀。
二つが重なり、今の姿になった。
完成した時から、俺はただ新しい刀と呼んでいた。
名をつけようと考えたことはなかった。
「まだない」
「そうなのですか?」
「ああ」
「少し意外です」
セフィリアが黒鞘を見つめる。
「これほど生きているような刀なのに、名前がないのですね」
生きているような刀。
魔力を与えるたび、刀は柄を握る掌の中で脈打つ。
まるで、身体の内側で絶えず動き続ける心臓のように。
獅子宮から持ち帰った刃。
その奥で刻まれる鼓動。
一つの言葉が、自然と浮かんだ。
「獅心」
「ししん?」
「獅心」
口にした瞬間、黒鞘の内側で刀が小さく脈打った。
セフィリアの目が見開かれる。
「今、反応しましたよね?」
「ああ」
『どうやら、気に入ったみたいね』
セレスの声にも、わずかな笑みが混じっていた。
「獅子の心臓を意味する、古い言葉だ」
俺は黒鞘を握り直す。
「獅子宮から持ち帰った刀で、魔力を与えるたびに心臓みたいに脈打つ。だから、獅心だ」
「いい名前です」
セフィリアが小さく頷く。
「レグルスさんにも、この刀にも合っています」
「俺にも?」
「はい。理由は、うまく言えませんが」
「そうか」
「それに、名前が決まる瞬間を見ることができました」
嬉しそうに笑い、今度は柄ではなく黒鞘へ指先で触れる。
「よろしくお願いします、獅心」
呼びかけに答えるように、刀がもう一度だけ脈打った。
「やっぱり、生きているみたいですね」
「刀は生き物じゃない」
『本当に、そう言い切れるのかしら?』
セレスの問いに、俺は答えなかった。
セフィリアの魔力を吸ったことで、獅心がすぐに強くなったわけではない。
斬れなかったものを斬れるようになったわけでも、新しい力を得たわけでもなかった。
ただ、その内側には今まで存在しなかった何かが刻まれている。
勇者だけが持つ、固有の魔力の形。
いつか刀が次の位階へ進む時、その形が何をもたらすのかは分からない。
俺は獅心を腰へ戻した。
重さも長さも、これまでと変わらない。
それでも、名もなかった時とは違う。
黒鞘の奥に眠る鼓動が、先ほどよりもはっきりと感じられた。
『獅心、ね』
セレスが、確かめるようにその名を口にする。
『あなたの刀、いったい何になるつもりなのかしら』
その問いへの答えを、今の俺はまだ知らない。
黒鞘の奥から、返事の代わりのような小さな鼓動が伝わってきた。




