第87話 勇者セフィリア
帝都西門を出たギルドの馬車は、乾いた車輪の音を響かせながら西へ進んでいた。
荷台に乗っているのは、俺を含めて帝国ギルドから派遣された数名の冒険者。それぞれ武器を抱え、揺れに身を任せている。
遠ざかっていく帝都の外壁を眺めながら、腰へ手を添えた。
そこにあるのは、黒い鞘に収められた一振りの刀。
兄から預かった古い片手剣と、獅子宮から持ち帰った錆びた刀。その二つが重なり、今の形になったものだ。
重さにも長さにも違和感はない。
まるで、初めからそこにあったように腰へ馴染んでいる。
それでも、まだこの刀で何かを斬ったことはなかった。
『さっきから、何度も確かめているわね』
意識の内側に、セレスの声が響いた。
「気になるからな」
『刀の方も、あなたにどう扱われるのか気にしているかもしれないわよ』
「刀がか?」
『そういうこともある、という話よ』
どこか含みのある答えだった。
黒鞘から手を離し、揺れる幌の隙間から街道の先を見る。
『それにしても、不自然ね』
「何がだ」
『王国へ帰ろうとした日に亀裂の討伐依頼を持ち込まれて、現地には勇者がいる。しかも、あなたを送り出したのが、あのギルド長でしょう?』
細身の身体に白いシャツと黒いスラックス。柔らかな物腰の奥に、何を考えているのか分からない男の顔が浮かぶ。
『偶然にしては、少し出来すぎているわ』
「俺もそう思う」
『それでも引き受けたのね』
「亀裂を放置すれば、近くにいる人間が死ぬ。それに、俺は亀裂を閉じるために呼ばれたわけじゃない」
依頼を受けた時にも確認している。
俺の役目は、現地の防衛に加わること。亀裂へ近づくかどうかは、勇者と現地責任者が判断する。
「頼まれた場所を守る。それでいい」
『あの男が、本当にそれだけで済ませるつもりならいいのだけれど』
セレスの声が消える。
代わりに、向かい側へ座っていた冒険者の声が聞こえてきた。
「なあ、本当に勇者がいるんだよな?」
「ああ。王国の勇者セフィリア。騎士団長まで一緒に来ているらしい」
「それなら、俺たちが行く必要はあるのか? 勇者一人で片づけられるんじゃないか」
別の冒険者が、呆れたように鼻を鳴らした。
「勇者が亀裂を閉じている間、誰がその背中を守るんだ。魔物は待ってくれないぞ」
「それが俺たちの仕事というわけか」
「そういうことだ」
御者台から、会話を聞いていた男が振り返る。
「亀裂が見つかったのは三日前だ。帝国兵と先行した冒険者が周囲を封鎖しているが、出てくる魔物の数は減っていない。魔族らしき姿も確認されている」
「勇者はもう戦ったのか?」
「現地へ着いてからは、小規模な群れを何度か退けている。ただ、亀裂の状態が安定しないらしい。封鎖を行うのは明日の予定だ」
今日一日、防衛線を維持する。
言葉にすれば、それだけの依頼だった。
だが、帝国ギルド長が王国へ帰ろうとしていた俺へ、わざわざ持ち込んだものだ。何事もなく終わるとは思えない。
帝都を出た直後まで、街道の両側には帝国の広大な穀倉地帯が続いていた。
しかし、西へ進むにつれて畑で働く者の姿は減っていった。
道端には置き去りにされた農具が転がり、荷物を積んだ馬車が反対方向へ走っていく。避難する住民を誘導する帝国兵の姿も見える。
さらに進むと、街道上に簡素な検問が設けられていた。
馬車が速度を落とす。
御者がギルドから渡された書類を見せると、兵士は荷台を確かめ、険しい顔で西を指した。
「ここから先は、いつ魔物が出てもおかしくない。気をつけろ」
検問を抜けると、空気が変わった。
血や煙の臭いではない。
周囲の魔素が、一つの方向へゆっくりと流れている。
この感覚には覚えがあった。
獅子宮で感じたものほど濃くはない。だが、自然に生じた流れではなかった。
何かが周囲の魔素を引き寄せている。
「見えたぞ」
誰かが言った。
幌の外へ目を向ける。
遠くの空間に、一本の黒い線が浮かんでいた。
地面から伸びたものではない。何もない空間が縦に裂け、その奥から黒い光が漏れている。
距離があるにもかかわらず、見つめていると身体の内側を引かれるような感覚があった。
あれが亀裂。
魔族たちがいる場所と、この世界をつなぐ穴だった。
帝都を出て半日ほど。
馬車は、亀裂から離れた場所に築かれた臨時拠点へ到着した。
木柵と土塁で囲まれた内部では、帝国兵や冒険者、治療術師たちが慌ただしく行き交っている。破損した武器を抱えた者や、肩を借りながら治療用の天幕へ運ばれていく者もいた。
拠点の一角には、帝国では見慣れない紋章を掲げた魔導艇が停泊している。
通常の輸送用よりも一回り小さく、細長い船体をした高速艇。王国騎士団が所有するものだろう。
馬車を降りた俺たちは、受付を担当する兵士へギルド証を提示した。
「帝都からの増援だな。武器と荷物を持って、あちらへ集まってくれ。まもなく配置の説明が始まる」
指示された場所へ向かう途中、治療用の天幕の前で足を止めた。
一人の少女が、負傷した冒険者の傍らにしゃがんでいる。
治療術師が傷口を塞ぐ間、血に汚れた布を受け取り、新しい布や水を手渡していた。
腰には剣を帯びている。
だが、騎士というよりも、戦場へ出ることを覚えたばかりの少女に見えた。
「セフィリア様」
王国騎士の一人が、少女へ声をかけた。
「帝国ギルドから、増援の冒険者たちが到着しました」
「分かりました。すぐに向かいます」
少女が立ち上がる。
服の裾についた土を軽く払い、こちらへ振り返った。
俺たちへ向けられた視線が、一人ずつを確かめるように動く。
やがて、俺の腰に差された黒鞘の刀で止まった。
そのまま顔へ上がり、少女の目がわずかに見開かれる。
「……あなたは」
俺も、その顔には見覚えがあった。
以前、まだ互いの名前も知らなかった頃に、一度だけ声をかけてきた少女だ。
腰に差していた刀へ興味を示し、見せてほしいと頼んできた。
「あの時、刀を見せてほしいと言っていた」
少女の表情が明るくなる。
「覚えていてくださったのですね」
「珍しい頼みだったからな」
「刀を持っている方も、珍しかったので」
王国騎士が俺たち二人を見比べた。
「お知り合いなのですか?」
「以前、一度だけお会いしたことがあります。ただ、あの時はお互いに名前も名乗っていませんでした」
少女は俺へ向き直り、姿勢を正した。
「改めまして、セフィリアです」
彼女が勇者であることは、以前会った時から知っていた。
けれど、あの時は互いに名前を名乗らなかった。
セフィリア。
それが、あの時の少女の名前だった。
「レグルス・クレハルトです」
クレハルト。
その家名には覚えがあった。
王都の魔術学園で知り合った、アリシアと同じ家名だった。
「レグルスさん……」
確かめるように名前を口にしたセフィリアの視線が、再び黒鞘の刀へ向けられる。
「その刀は、以前お持ちだったものとは違うのですか?」
「あの刀は折れた。これは帝国で手に入れた、新しい刀だ」
「そう、だったのですね……」
セフィリアはわずかに目を伏せた。
だが、すぐに新しい刀を見つめ直す。
「それでしたら、今度こそ見せていただいてもいいですか?」
以前と変わらない問いかけだった。
黒鞘へ手を添える。
「まだ、この刀で実戦をしていない」
「では、私が最初に見ることになるのでしょうか」
「これからの仕事次第だ。抜くことになれば、嫌でも見ることになる」
「分かりました。その時は、見逃さないようにします」
セフィリアは小さく笑うと、ほかの冒険者たちへ向き直った。
「勇者セフィリアです。明日、私が亀裂を閉じます。それまで、この場所を守るために、皆さんの力を貸してください」
勇者として命じるのではなく、協力を求めて頭を下げる。
冒険者たちは一瞬戸惑ったものの、それぞれ頷きを返した。
その直後だった。
地面の奥から、低い振動が伝わってきた。
天幕を支える柱が揺れ、積まれていた空箱が音を立てて倒れる。
拠点内の誰もが動きを止め、同じ方向を見た。
空間に浮かぶ黒い亀裂が、鼓動するように明滅している。
一度。
二度。
そのたびに周囲の魔素が吸い込まれ、細かった裂け目がわずかに左右へ広がっていく。
「亀裂が……」
セフィリアの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
反射的に剣の柄へ手を伸ばしている。
俺も黒鞘を握り、広がり始めた亀裂を見据えた。
拠点に警戒を告げる鐘が鳴り響く。
封鎖の予定は、明日。
だが、亀裂の向こう側にいる何かは、それまで待ってくれるつもりはないらしい。




