第86話 帝国ギルド長
リヴィアとの手合わせから、二日が過ぎた。
身体を起こすたびに残っていた胸の痛みも、今朝にはほとんど消えている。
最後に受けた《命脈闘法・崩嶺靠》は、肩が触れた程度にしか見えなかった。
だが、実際には足元から腰、背中、肩へと通された力が、一点へ集められていた。受けた瞬間よりも、翌朝の方が身体の奥まで痛んだほどだ。
『あれを五割で受けて、二日で動けるようになったのだから、十分ではないかしら』
「次に受けたときも、立っていられるとは思えないがな」
『次も受けるつもりなの?』
「受けずに返す」
寝台の上へ広げていた荷物をまとめる。
帝国へ来たときよりも、荷物そのものは減っていた。
兄から渡された古い片手剣も、もう存在しない。
片手剣は一振りの刀へ形を変え、今は俺の腰へ納まっている。
黒い鞘の中央には、横たわる獅子を思わせる紋様。柄尻から伸びた組紐は、獅子の尾のように緩く垂れていた。
その後ろへ、いつものようにセレスを吊るす。
『王国へ戻る前に、一度確認しておきましょう』
「何をだ」
『帝国で、あなたが積み重ねたものよ』
セレスの表紙へ手を置き、魔力を流す。
淡い光が広がり、目の前へ半透明の板が現れた。
――――――――――――――――
名前 レグルス・クレハルト
レベル 20
契約 【黄道十二宮契約者 獅子宮適合者】
契約物 【グリモア《セレス》】
獅子宮 【第四階層踏破】
固有能力 【未踏領域】
称号【ネメアの獅子】
付随特性《獅子の誇り》《孤高の獅子》
基本行為
刀技《極》体術《極》
基本行為連結
《刀技流転》
派生技 斬る《袈裟吼絶》突く《獅牙突》
叩く《獅噛破打》弾く《獅吼爪弾》
武術《命脈闘法》
派生技 《獅吼爆炎》《獅子琉掌》《獅爪疾脚》
秘奥義
《壱之太刀・試/獅吼・一閃(風)》
取得技能
【魔力円環】(身体強化・魔力操作)
統合魔力強化《環》
属性強化 風《速》 火《剛》
水《瞬》 土《堅》
取得魔法
【生活魔法】
【基礎四属性魔法】
(風・火・水・土)
努力蓄積 82,731
星器(刀)
種別 概念星器
名称 ――――
位階 第一位階
概念 《不滅》
――――――――――――――――
「体術も、《極》……」
刀技と同じ位置に、体術の文字が並んでいる。
体術を極めたなどとは思わない。
リヴィアの五割にさえ届かなかった俺が、そう考えるはずがない。
だが、拳、肘、肩、膝、脚。身体そのものを使って戦うための基本は、俺の中で一つに繋がった。
その答えが、武術《命脈闘法》なのだろう。
『《極》は、誰よりも強くなったという意味ではないわ。その基本行為が、今のあなたの中で一度完成したということなのでしょうね』
「ここから、また作り直せるということか」
『刀技と同じようにね』
視線を下げる。
魔力操作と身体強化は、個別の技能ではなく【魔力円環】へ統合されていた。
風の《速》。火の《剛》。水の《瞬》。土の《堅》。四つの性質を保ったまま、一つの円環として巡らせる強化には、《環》という名が与えられている。
「《環》か」
『魔力円環の中で、四つを一つの輪として巡らせるから《環》。随分とそのままの名前ね』
「だが、間違ってはいない」
四つの属性を、無属性の魔力円環へ重ねる。
リヴィアとの手合わせでは、僅かな時間しか保てなかった。それでも、偶然できたものではない。技能として刻まれた以上、もう一度同じ場所へ辿り着ける。
その下にある星器の欄を見る。
名称だけが、長い横線のままだった。
『やはり、名前は表示されないのね』
「まだ一度も、こいつで戦っていないからかもしれない」
鞘へ左手を添える。
種別は、概念星器。
位階は第一位階。
そして、宿している概念は《不滅》。決して傷つかないという意味ではない。刃が欠け、折れたとしても、魔力を与えれば再び元の形へ戻る。
刀を失った俺が手にしたものとしては、出来すぎているほどの力だった。
「名前は、こいつを振ってから考える」
『あなたが決めるの?』
「決めていいならな」
半透明の板を閉じる。
そこに、気という文字はなかった。
兄やリヴィアの身体から立ち上った、魔力とは異なる揺らぎ。今の俺は、それを見ることができる。だが、見えることと使えることは同じではない。
まだ、俺の力ではないということだ。
荷物を持って部屋を出る。
中庭へ向かうと、朝の空気を切り裂く音が聞こえてきた。
兄が、いつものように長剣を振っている。
一度振るたびに、長い刃が寸分違わぬ場所を通る。踏み込む足も、腰の高さも変わらない。
兄は最後の一振りを止め、長剣を肩へ担いだ。
「今日、出るのか」
「はい。一度、王国へ戻ります」
「そうか」
兄の視線が、俺の荷物から腰の刀へ移る。
「少し振っていけ」
「出発前にですか」
「その刀を持ってから、まともに振ってないだろ」
荷物を中庭の端へ置く。
鞘を腰から外し、左手で支えた。
親指で鍔を押す。
銀色の刃が鞘を離れ、中央を走る黒い筋が朝日を受けた。
以前の刀よりも僅かに長い。
だが、重さは不思議なほど手に馴染んでいた。
右足を前へ置き、刀を上段へ構える。
息を吐く。
足から腰へ力を通し、肩、肘、手首を経て切っ先へ届ける。
一振り。
刃が空気を裂いた。
そのまま刀を返し、横へ薙ぐ。踏み替えながら切っ先を引き、正面へ突き出した。
刀を止める。
僅かな遅れも、重心のずれもなかった。
「悪くない」
「兄さんにしては、随分と素直ですね」
「まだ、悪くないだけだ」
刀を鞘へ戻す。
「《不滅》だからといって、雑に使うなよ」
「分かっています。直ることと、折れないことは違いますから」
「ならいい」
兄が長剣を背負い直したところで、屋敷の正門から呼び鈴の音が届いた。
間を置かず、使用人が中庭へ姿を現す。
「レグルス様。帝国冒険者ギルドから、使いの方がお見えです」
「俺に?」
「はい。王国へ発たれる前に、ギルドへお立ち寄りいただきたいと」
兄が僅かに眉を上げた。
「誰からだ」
「帝国冒険者ギルド長から、とのことです」
ギルド長が、俺を直接呼んでいる。
帝国で受けた依頼の報告は、ヴァレリアさんが済ませているはずだった。報酬も既に受け取っている。
「兄さんは、ギルド長を知っているのですか」
「顔と立場だけはな。考えていることまでは知らん」
「行った方がいいと思いますか」
「行け。あの男が、用もなく誰かを呼ぶとは思えん」
その言葉が、余計に気になった。
荷物をもう一度部屋へ預け、刀とセレスだけを腰へ戻す。
王国へ向けた出発は、少し遅れることになりそうだった。
帝国冒険者ギルドは、帝都の中央から僅かに外れた大通りに建っている。
王都のギルドよりも横に広く、三階まで吹き抜けになった受付広間には、朝から大勢の冒険者が行き交っていた。
掲示板の前で依頼を選ぶ者。
長い遠征から戻り、素材を運び込む者。
武器を預け、受付で損傷の証明を受けている者もいる。
入口で名前を告げると、受付の女性は手元の書類を見ることもなく立ち上がった。
「お待ちしておりました。ギルド長室へご案内します」
「到着する時間は伝えていませんが」
「いついらしてもお通しするよう、申しつけられております」
階段を上がり、さらに奥の廊下を進む。
最上階にある扉の前で、受付の女性が足を止めた。
二度、扉を叩く。
「レグルス・クレハルト様をお連れしました」
「どうぞ」
返ってきた声は、思っていたよりも柔らかかった。
扉が開く。
室内に置かれているのは、大きな机と応接用の椅子、それから壁一面の書棚だけだった。
帝国最大のギルドを束ねる者の部屋にしては、飾り気がない。
窓際に、一人の男が立っていた。
細身の身体に、白いシャツと黒いスラックス。外套も礼服も身につけていない。
整った顔立ちと鋭い目元を持ちながら、口元に浮かべた笑みのせいか、威圧感はなかった。
「ようこそ。出発前にお呼び立てして、申し訳ありません」
男が応接用の椅子を示す。
「お久しぶりですね。どうぞ、お掛けください」
俺が腰を下ろすと、ギルド長も向かいの椅子へ座る。
机の上には、既に数枚の書類と俺の冒険者登録証が置かれていた。
「今日は、二つお話があります。まずは、こちらから済ませましょう」
ギルド長が登録証を指先で押し、俺の前へ滑らせる。
記されていた階級が、DからCへ変わっていた。
「……Cランク?」
「はい。本日付で、あなたをCランク冒険者として登録しました」
「俺は、昇格試験を受けていません」
「通常は必要です」
「なら、なぜ」
ギルド長が、書類の一枚を持ち上げる。
「浮遊大陸での活動記録。王国ギルドから共有された依頼達成記録。そして、元老院第十二席ヴァレリアから提出された、先日の討伐報告です」
書類の端には、見覚えのあるヴァレリアさんの署名があった。
「複数の機関と、元老院の席を持つ者によって、あなたの実績は確認されています。現在のDランクでは、任せられる仕事と階級が釣り合っていません」
「だから、試験を省いたんですか」
「帝国冒険者ギルド長の権限による特例です。ただし、昇格は一階級のみ。実力だけでなく、継続した信用と判断力も含めて評価するのが、冒険者の階級ですから」
一階級。
それでも、王都でDランクへ昇格して以来、止まっていた階級が、帝国を離れる直前に再び動いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。あなたが既に積み上げたものを、正しい位置へ動かしただけです」
ギルド長が、残る書類へ手を置く。
「それと、このあとお話しする件を断っても、昇格が取り消されることはありません」
「まだ、何も聞いていませんが」
「依頼を受けることが昇格の条件だと、誤解される前にお伝えしておこうと思いまして」
柔らかな口調は変わらない。
だが、俺が何を疑うかまで、先に読まれているようだった。
『やはり、昇格を伝えるためだけに呼んだわけではなさそうね』
「ええ。そのとおりです」
ギルド長が、何でもないことのように答えた。
腰のセレスへ視線を落とす。
『……今、私に答えたの?』
俺は椅子から立ち上がりかけ、目の前の男を見据えた。
「あなたは、何者なんですか」
「帝国冒険者ギルドの長ですが。先ほど、そう名乗ったはずですよ」
「そういう意味で聞いているんじゃない」
「おや、違いましたか」
ギルド長は穏やかな笑みを崩さず、机の上の書類を揃えた。
「長くギルド長を務めていると、相手の考えていることくらいは分かるようになるものです」
「セレスは、口に出していない」
「それは不思議ですね。偶然、返事が合ってしまったのでしょう」
『完全にとぼけるつもりね』
ギルド長は再びセレスの言葉に反応するように微笑んだが、今度は何も答えなかった。
人の考えを読んだのか。
それとも、本当にセレスの声が聞こえたのか。
どちらにしても、普通の人間にできることではない。
「さて、私のことよりも、今はあなたにお伝えすべきことがあります」
「話を逸らすんですか」
「急ぐ話なのです。私の正体よりも、ずっと」
ギルド長が一枚の地図を机へ広げた。
帝都と周辺の街道が描かれている。指先が示したのは、帝都から西へ半日ほど進んだ外縁部だった。
「三日前、この一帯で空間の歪みが観測されました」
「空間の歪み……」
「現在は、次元の亀裂が発生しています」
聞き慣れない言葉ではない。
魔族がこちら側へ現れるとき、世界と世界の間には亀裂が生じる。
だが、それが帝都から半日ほどの場所にあるとは思わなかった。
「魔族は、既に出ているんですか」
「下級の個体が数体。今のところ、討伐は完了しています。亀裂はまだ不安定で、高位の魔族が肉体を保ったまま通れる状態ではありません」
「なら、閉じられるんですか」
「その調査と封鎖のために、専門家が帝国へ来ています」
ギルド長が俺を見る。
「勇者セフィリア。現在、彼女が現地で亀裂を調べています」
「勇者が、帝国に……」
勇者は王国に属する存在だ。
魔族の侵攻を示す亀裂が見つかった以上、国境を越えて動くこと自体は不思議ではない。
だが、ギルドが勇者と同じ場所へ人員を送ろうとしていることには、別の疑問があった。
「ギルドは、魔王討伐には関わらないはずでは」
「その原則は変わっていません」
ギルド長が即座に答える。
「ギルドは国家の軍ではありません。勇者の指揮下へ冒険者を組み込み、魔王を討つための遠征へ送り出すこともありません」
地図の上を、指先がなぞる。
「ですが、帝国領内に現れた魔族から住民を守ることまで、放棄したわけではありません」
「ギルドが受け持つのは、亀裂の封鎖ではなく周辺の防衛ということですか」
「そのとおりです。勇者は亀裂の調査と封鎖。帝国軍は街道の封鎖と住民の避難。ギルドは、亀裂から漏れ出した魔族の討伐を担当します」
魔王討伐への参加ではない。
帝国内で起きた災害に対する、冒険者ギルドの仕事だ。
「俺に、その討伐へ参加してほしいと」
「強制ではありません。あなたはこのまま王国へ戻っても構いません」
ギルド長の視線が、俺の腰へ落ちる。
「ですが、参加してみませんか。今のあなたと、その刀ならば、得られるものがあると思いますよ」
鞘へ左手を添える。
まだ名のない刀。
一度も、実戦で振っていない概念星器。
魔族を相手にすれば、この刀がどこまで通じるのかを確かめられる。
その考えが浮かぶ。
だが、それだけを理由にするつもりはなかった。
既に魔族が現れている。
亀裂が広がれば、帝都へ続く街道や周辺に住む者たちが襲われる。
「一つ、確認させてください」
「何でしょう」
「俺に求められているのは、勇者と一緒に亀裂を閉じることですか」
「いいえ。あなたには、現場で防衛に当たる冒険者の一人として参加していただきます。亀裂そのものへ近づくかどうかは、勇者と現地責任者の判断に従ってください」
無理に大きな役割を与えようとしているわけではない。
少なくとも、依頼の形だけを見れば。
『随分と用意のいい話ね』
セレスの声には、明らかな警戒が含まれていた。
俺も同じことを考えている。
帝国を離れる直前の昇格。
新しい刀を得た直後に現れた、魔族との実戦。
そして、セレスの声へ答えた正体不明のギルド長。
偶然だけで、すべてが重なったとは思いにくい。
それでも、亀裂と魔族が現れていることまで嘘だとは思わなかった。
「受けます」
『レグルス』
「何かを隠されているとしても、魔族が出ているなら放ってはおけない」
セレスへ答えた言葉を聞いても、ギルド長は今度こそ反応しなかった。
『……分かったわ。けれど、あの人から目を離しては駄目よ』
「分かってる」
ギルド長が地図を畳み、別の書類を差し出す。
「帝都西門から、正午にギルドの馬車が出ます。現地までは半日ほどです」
「準備して戻ります」
「ええ。王国への帰路を延ばしてしまいますが、長くても数日の予定です」
依頼書を受け取り、立ち上がる。
扉へ向かおうとしたところで、ギルド長がもう一度声をかけてきた。
「レグルスさん」
振り返る。
細身の男は、最初と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「現地では、勇者セフィリアがあなたを待っています」




