第84話 見抜く者たち
農村を発ってから二日後の午後。
穀倉地帯を抜けた俺たちは、帝都の外門を通り抜けた。
見慣れ始めた石造りの建物と、武器を携えて行き交う人々。遠くからは、修練場で打ち合う金属音が聞こえてくる。
農村に滞在していたのは僅かな時間だった。
それでも、魔物の咆哮と村人たちの歓声に囲まれていたせいか、帝都の雑踏が以前よりも遠く感じられた。
左肩の傷は、帰路の間にほとんど塞がっている。
腕を大きく回せば僅かに痛むが、日常の動作に支障はなかった。
腰には、黒い鞘へ納められた新しい刀。
その後ろには、焦げ茶色のグリモアを吊るしている。
セレスは村を出る前に幻影を消していた。
姿を映せるようになったからといって、常に出しておく必要はないらしい。人目がある場所では、これまでどおり声だけで俺の傍にいる。
『どうかしたの?』
「いや。帝都へ戻ってきたと思っただけだ」
『ほんの数日離れていただけでしょう?』
「その数日で、随分変わったからな」
腰の刀へ触れる。
以前よりも僅かに長い鞘。
歩くたびに伝わる重さにも、まだ慣れていない。
『刀だけではないわ』
「ああ」
無属性の魔力は、今も全身を巡り続けている。
その流れへ意識を向ければ、風、火、水、そして新たに得た土の性質を感じ取ることができた。
第四階層で生まれた黄金色の魔力を、今すぐ再現することはできない。
それでも、一度繋がった感覚は身体の中に残っている。
帝都へ入って間もなく、ヴァレリアが足を止めた。
「私はこのまま、元老院へ報告に向かいます」
彼女が俺へ向き直り、丁寧に頭を下げる。
「レグルス殿。今回の任務では、ご同行いただきありがとうございました」
「こちらこそ。ヴァレリアさんが村人を避難させてくれていたから、俺も魔物との戦いに集中できました」
「それぞれが役目を果たした結果です。それでも、あなたがいなければ被害はさらに大きくなっていたでしょう」
ヴァレリアは姿勢を戻し、俺の左肩へ視線を向けた。
「傷の具合はいかがですか?」
「ほとんど塞がっています。もう問題はないと思います」
「そうですか。ですが、無理はなさらないでください。魔物を討伐した直後に鍛錬へ向かうようなことは、お控えになった方がよろしいかと」
『随分と正確に、あなたの行動を読んでいるわね』
セレスの声には答えず、ヴァレリアへ頷く。
「はい、気を付けます」
「本当にお願いいたします」
ヴァレリアは僅かに困ったような表情を浮かべた後、もう一度頭を下げた。
「元老院への報告は、私が済ませておきます。討伐の報酬についても、後日受け取れるよう手配いたします」
「分かりました。お願いします」
「はい。それでは、またお会いしましょう」
ヴァレリアは元老院の方角へ歩いていった。
人の流れの中へ消えていく背中を見送ってから、兄の屋敷へ向かう。
『真っ直ぐ屋敷へ戻るのね』
「ほかに寄る場所もないからな」
『そのまま修練場へ向かわないか、確かめただけよ』
「今日は休む」
『昨日も同じことを聞いた気がするわ』
「今日は本当だ」
『そう願っているわ』
帝都の中央部から少し離れ、兄の屋敷へ続く道へ入る。
門を開ける前から、庭の奥より風を切る音が聞こえていた。
一定の間隔で繰り返される、重く鋭い音。
門を開けて中へ入る。
兄は修練場の中央に立ち、長剣を振るっていた。
濃紺の着流しに、小柄な身体には不釣り合いな長剣。頭上から振り下ろされた刃が、地面へ触れる寸前で止まる。
そこから刃を返し、斜め下から振り上げる。
一つ一つの動きは遅い。
だが、足から腰、背中、肩を通して、剣の先まで力が途切れていなかった。
俺が門を閉めると、兄の長剣が止まった。
「戻ったか」
「はい。ただいま戻りました」
兄が長剣を肩へ担ぎ、こちらへ歩いてくる。
最初に見たのは、左肩に巻かれた布だった。
「怪我をしたのか」
「飛翔する魔物に少し掠められました。傷は浅いです」
「そうか」
兄はそれ以上、傷について尋ねなかった。
代わりに、俺の足元から腰、肩へと視線を移していく。
「何かありましたか?」
「立ち方が変わった」
言われて、自分の足元を見る。
意識して構えているわけではない。
両足を肩幅ほどに開き、普段どおり立っているだけだった。
「自分では分かりません」
「前は、何もしていなくても身体のどこかが動こうとしていた。今は下が浮いていない」
「土属性を得たからでしょうか」
「土属性?」
「はい。少し説明が難しいんですが……」
兄の視線が、俺の腰で止まる。
新しい刀。
黒い鞘の中央に刻まれた、鬣を広げる獅子の紋様。
「俺が渡した片手剣はどうした」
「それは……」
答えに詰まる。
壊したわけではない。
失くしたわけでもない。
だが、兄から渡された片手剣が、別の刀と一つになったなどと、どこから説明すればいいのか分からなかった。
兄は俺の顔を見た後、小さく息を吐いた。
「アリシアから、少しは聞いている」
「姉さんからですか?」
「王都から手紙が来ていた。お前が地下で古いグリモアと契約したこと。そいつの名がセレスだということ。それから、人には簡単に話せない事情があることもな」
腰のグリモアを見る。
『アリシアは、必要以上のことを話してはいないようね』
聞こえているのは、俺だけらしい。
兄はグリモアへ視線を向けているが、セレスの声へ反応していない。
「隠していたわけではありません。ただ、俺自身も分かっていないことが多くて……」
「全部話せとは言っていない。話せるところだけでいい」
「分かりました」
地下訓練場の崩落に巻き込まれ、古いグリモアを見つけたこと。
その中に宿っていたセレスと契約したこと。
契約によって、獅子宮と呼ばれる場所へ入れるようになったこと。
そこで何度か試練を受け、これまで持っていなかった属性や戦い方を得てきたこと。
《未踏領域》やステータス板のことには触れず、姉へ話したのと同じ程度に説明する。
「今回、獅子宮の第四階層へ入りました。そこで、兄さんからもらった片手剣と、以前から獅子宮にあった錆びた刀が一つになったんです」
「それが、その刀か」
「はい。申し訳ありません」
「なぜ謝る」
「兄さんからもらった剣を、別の形にしてしまったので」
「あれは、お前に渡した剣だ。どう使おうと、お前の自由だ」
兄が黒い鞘へ手を伸ばす。
触れる直前で止まり、俺の顔を見た。
「見てもいいか」
「もちろんです」
腰から刀を外し、鞘に納めたまま兄へ渡す。
兄は左手で鞘を支え、重さを確かめるように僅かに持ち上げた。
「打刀より長いな」
「少しだけですが、重心も前へ寄っています」
「もう振ったのか」
「まだです。長さと重心を確かめないまま、振るつもりはありません」
兄が僅かに眉を上げる。
「お前にしては慎重だな」
「最近、何度も同じことを言われます」
「それだけ無茶をしてきたということだ」
否定できない。
兄は刀を抜かず、そのまま俺へ返した。
「この刀には、契約者とともに成長する力があるそうです。今は、《不滅》という概念が宿っています」
「折れないのか」
「いえ。欠けることも、折れることもあります。ただ、完全に失われることはなく、魔力を与えれば形を取り戻すと聞きました」
兄の目が細くなる。
「なら、折れる刀として扱え」
「え?」
「戻るからといって、折っていいわけじゃない。受け止めきれない攻撃へ刃を出せば、折れる。それは今までと変わらん」
「……はい」
「刀に《不滅》があっても、お前まで不滅になるわけじゃないからな」
「分かっています」
『さすが、あなたのお兄様ね。言うべきことがよく分かっているわ』
セレスの声が、どこか楽しそうに聞こえた。
「兄さんになら、姿を見せてもいいんじゃないか」
『そうね。アリシアから話を聞いているのなら、隠す必要もないでしょう』
腰からセレスを外し、掌へ載せる。
焦げ茶色の表紙に刻まれた獅子の紋章が、淡く輝いた。
白い光がグリモアの上へ集まり、小さな人の輪郭を作る。
長い銀髪。
金色の瞳。
白いワンピースを身につけた、小さな女性。
セレスの幻影がグリモアの上へ降り立ち、兄へ顔を向けた。
『初めまして、レオン。あなたがレグルスのお兄様ね』
兄は目を僅かに見開いた。
だが、長剣へ手を伸ばすことも、後ろへ下がることもない。
「本当に人の姿を取るのか」
『幻影よ。本体はこのグリモア。触れることも、物を持つこともできないわ』
「アリシアの手紙には、そんなことまで書かれていなかった」
『この姿を得たのは、昨日のことだもの』
「そうか」
兄はセレスをしばらく見つめた後、腕を組んだ。
「こいつの面倒を見ているらしいな」
『見ているというより、目を離すと何をするか分からないのよ』
「セレス」
『間違ってはいないでしょう?』
兄の口元が、僅かに上がった。
「苦労をかける」
『本当によ』
「二人とも、俺を何だと思っているんですか」
答えは返ってこない。
兄とセレスが、妙に分かり合ったような視線を交わしていた。
やがて、兄が思い出したように口を開く。
「そうだ。今朝、リヴィアの屋敷から使いが来た」
「リヴィアから?」
「お前が戻ったら、屋敷へ来いと言付けがあった」
何のために呼ばれたのか。
討伐の報告なら、ヴァレリアが元老院へ向かっている。リヴィアへ直接伝える必要はない。
兄は長剣を肩へ担ぎ直す。
「リヴィアが自分から呼んだなら、お前の修練も一区切りだろう」
「分かるんですか?」
「俺も昔、少しだけあいつに教わったことがある」
兄がリヴィアを呼び捨てにする理由。
以前から面識があるだけではなく、教えを受けていたらしい。
「初めて聞きました」
「話していなかったからな。リヴィアが呼びつけるのは、何かを始めるときか、終わらせるときだ」
「終わらせる……」
「お前が帝国で身につけたものを、最後に見るつもりなんだろう」
兄の視線が、俺の腰の刀へ向けられる。
「今回は、俺との手合わせはできそうにないな」
「すみません」
「謝る必要はない。次に帝国へ来たときでいい」
兄が俺の肩を軽く叩く。
傷のない右側だった。
「そのときは、俺も今より力を出して相手をしてやる」
「本当ですか?」
「ああ。その刀も、それまでに馴染ませておけ」
「約束ですよ」
「逃げるなよ」
「俺は逃げません」
「なら、楽しみにしておく」
兄はそれだけ告げ、修練場の中央へ戻っていく。
長剣を構え直す背中を見ながら、腰の刀へ手を添えた。
兄と戦う。
今の俺では、まだ四割にも届かないだろう。
それでも、次に帝国へ来るときには、この刀を自分のものとして振るえるようになっていたい。
『随分と先の約束をしたわね』
「先とは限らない」
『その前に、リヴィアとの話が残っているでしょう?』
「ああ」
リヴィアが何を確かめようとしているのか。
考えても、答えは出ない。
だが、兄の言葉が正しいなら、帝国での修練は終わりに近づいている。
俺は自室へ戻り、長旅で疲れた身体を休めることにした。
翌朝。
左肩の布を外し、傷の状態を確かめる。
赤い線は残っているが、腕を回しても痛みはほとんどなかった。
黒いシャツと余裕のあるズボンへ着替え、分厚いブーツを履く。
腰へ新しい刀とセレスを吊るし、兄の屋敷を出た。
帝都の通りは、朝から多くの人で賑わっている。
武器を背負った者。
修練場へ向かう者。
店先で朝食を取る者。
その間を抜け、リヴィアの屋敷へ向かう。
『今日は、刀を使うのかしら』
「分からない」
『使いたくないの?』
「そうじゃない。だが、まだ一度も振っていない刀を、いきなりリヴィアへ向けるつもりはない」
『そうね。それに――』
「それに?」
『リヴィアが見たいものは、刀ではないでしょう』
俺も、同じことを考えていた。
リヴィアの屋敷へ到着し、門を開ける。
建物の中へ入る前に、庭の奥から声が聞こえた。
「遅かったな」
リヴィアは修練場の中央に立っていた。
無駄のない衣服に身を包み、両腕を組んでいる。
足元に武器はない。
いつものように、素手だった。
「昨日、帝都へ戻りました」
「傷は?」
「ほとんど塞がっています」
「見せろ」
左肩の布を外す。
リヴィアは傷へ一度だけ目を向けた後、俺の腕を掴んだ。
肩を前後へ動かし、関節の状態を確かめる。
「これなら問題ない」
腕を離したリヴィアが、今度は俺の正面へ立つ。
顔から胸元、腹部、腰、両脚へ視線を動かしていく。
兄と同じだった。
何も話していないにもかかわらず、俺の中で起きた変化を探っている。
「円環が変わったな」
「分かるんですか?」
「以前より流れが深い。それに、下が安定している」
リヴィアが足を上げ、俺の脛を軽く蹴る。
不意の動きだったが、足元は崩れなかった。
「新しい属性を得たか」
「土属性です」
「なるほど。それで、身体の中心を支えているのか」
リヴィアの視線が、腰の刀へ移る。
「その刀も、出かける前にはなかったものだな」
「ある場所で得ました。兄から受け取った片手剣と、その場所にあった錆びた刀が一つになったものです」
「そうか」
リヴィアは驚くことなく、刀から俺へ視線を戻した。
「聞かないんですか?」
「何をだ」
「その場所についてや、この刀についてです」
「お前が話したければ聞く。話すつもりがないなら、それで構わん」
リヴィアは修練場の端へ歩き始める。
「私が見たいのは、道具の由来ではない。お前がそれを得るまでに、何を積み重ねたかだ」
その背中を追う。
修練場の中央には、以前と同じ円が描かれている。
リヴィアが円の反対側へ立ち、俺へ向き直った。
「レグルス。お前に話しておくことがある」
「何ですか?」
「私は、ある人物に頼まれてお前を鍛えていた」
思わず、リヴィアの顔を見る。
「ある人物?」
「ああ。カイウスがお前を連れてきたのは想定外だったがな」
「誰に頼まれたんですか?」
「今は知る必要はない」
「ですが――」
「いずれ、向こうから姿を現す。そのときに自分で聞け」
それ以上答えるつもりはないらしい。
リヴィアの表情は変わらなかった。
「その人物は、今のお前がどこまで出来上がったのか見たいそうだ」
「今、見ているんですか?」
「さあな」
リヴィアが僅かに口元を上げる。
「気になるなら、探してみるか?」
周囲へ意識を向ける。
建物の窓。
修練場を囲む壁。
遠くにある屋根の上。
人の気配は感じられない。
「分かりません」
「なら、今は私だけを見ていろ」
リヴィアが両腕を下ろす。
「依頼された役目も、今日で一区切りだ。最後に、今のお前がどこまで出来上がったか、私が確かめる」
「手合わせですか?」
「そうだ」
リヴィアの視線が、再び俺の腰へ向けられた。
「刀を使いたければ使え。今のお前が持つものは、すべて使って構わん」
右手を刀の柄へ添える。
銀色の刀身。
中央を貫く黒い線。
魔力を流せば、俺とともに成長していく武器。
だが、この刀を抜くために帝国へ来たわけではない。
柄から手を離し、黒い鞘ごと腰から外す。
「刀は使いません」
「ほう。なぜだ?」
修練場の端へ歩き、刀を壁へ立てかける。
続けてセレスを腰から外し、その横へ置いた。
『決めたのね』
「ああ」
円の内側へ戻り、リヴィアへ向き直る。
両足を開く。
右足を僅かに引き、両手を身体の前へ構えた。
「刀は使いません。あなたから教わったもので、あなたに挑みます」
一瞬の沈黙。
リヴィアの口元が、ゆっくりと上がった。
「いい答えだ」
彼女が左足を半歩前へ出す。
「ならば、私が教えたものを一つ残らず見せてみろ」
腹部を起点に、無属性の魔力を巡らせる。
両脚から腰。
腰から背中、肩、腕。
途切れることなく身体を一周し、再び腹部へ戻る。
風も、火も、水も、土も。
必要になれば、いつでも円環へ重ねられる。
リヴィアは構えを取らない。
両腕を自然に下ろしたまま、俺を正面から見ている。
「今日は五割まで上げる」
「五割……」
「簡単に倒れてくれるなよ」
リヴィアが静かに息を吐いた。
魔力の光は現れない。
風も吹いていない。
それでも、彼女の身体の輪郭が僅かに揺らいだ。
陽炎にも似た、透明な揺らぎ。
肉体の内側に押し込められていた何かが、皮膚を越えて滲み出してくる。
次の瞬間。
見えない波が、リヴィアの身体から放たれた。
空気を震わせながら、修練場を円形に駆け抜ける。
足元の砂が外側へ押し退けられ、壁へ立てかけた刀の組紐が大きく揺れた。
波が身体を通り抜ける。
「ぐっ……」
皮膚が粟立つ。
全身を巡っていた魔力が、内側から強く揺さぶられた。
円環が僅かに乱れる。
足裏へ土属性を通し、崩れかけた身体の中心を支える。
兄が《グラジオラス》を放った瞬間に見せたもの。
魔力とは異なる、薄い揺らぎ。
だが、あの一瞬とは違う。
リヴィアの身体から放たれる力は止まらず、修練場全体を押さえ込むほどの圧力となっていた。
『レグルス』
修練場の端に置いたセレスから、静かな声が届く。
『あれが、レオンの周囲に見えたものの正体よ』
「気……」
呟いた言葉が聞こえたのか、リヴィアの笑みが深くなる。
「見えるのか」
透明な波動をまとったまま、リヴィアが右足を前へ出す。
ただ一歩。
それだけで、拳の届く距離が消えた。
「なら、話は早い」
反射的に腰を落とし、両拳を上げる。
リヴィアの右拳が、身体の前へ構えられた。
「さあ、レグルス」
五割の気が、修練場を震わせる。
「お前が帝国で得たものを、すべて見せてみろ」




