第83話 巡るものの果て
最初に変わったのは、足元だった。
獅子の紋章を中心として、床へ刻まれた幾重もの円が光を帯びていく。
外側から内側へ。
四つの円を順に巡った光が、俺の両足へ集まった。
だが、何かが現れる気配はない。
騎士人形も、魔物も、武器の置かれた台座もなかった。
「これが試練なのか?」
『もう始まっているのかもしれないわ』
腰に吊るしたセレスから、普段よりも静かな声が返ってくる。
『床の光をよく見なさい。あなたが呼吸するたび、同じ速さで動いているわ』
息を吸う。
外側の円から、光が一つ進んだ。
吐く。
今度は内側の円へ流れる。
床の光は、俺の呼吸ではなく、その内側にあるものへ反応していた。
腹部を起点に、無属性の魔力を全身へ巡らせる。
脚から腰。
腰から背中、肩、腕。
そこから再び腹部へ戻し、途切れることのない円を作る。
床に刻まれた光が、同じ速さで動き始めた。
「魔力の円環を見ているのか」
『そのようね。けれど、巡らせるだけなら、あなたは既にできているでしょう?』
「ああ」
それだけで終わるとは思えない。
無属性の魔力は、身体の中を滞りなく巡っている。
歩いても、戦っても、今では意識せずに保てるようになった流れだ。
それでも、床の四つの円はすべて白いままだった。
一度、両手を握る。
巡る魔力の一部へ風の性質を重ねた。
脚へ力を集めたわけではない。
全身を巡る円環そのものへ、風を通していく。
身体の内側を通り抜ける魔力が、僅かに速さを増した。
次の瞬間。
俺の身体から、緑色の魔力波が広がった。
風が吹き抜け、黒いシャツの裾が大きく揺れる。
魔力波は円形空間の壁へ届き、再び中央へ戻ってきた。
床に刻まれた最も外側の円が、緑色へ変わる。
「一つ目……」
『風属性ね』
緑色の光は消えない。
無属性の魔力を土台にしたまま、風属性の流れが円環を巡り続けている。
床の次の円が、淡く明滅した。
まだ足りない。
今度は、胸の奥へ熱を感じた。
拳へ集め、《獅吼爆炎》として放ってきた力。
だが、今は一箇所へ集めない。
巡り続ける無属性の魔力へ、火属性の性質を重ねる。
風によって速さを増した流れへ、熱と力が加わった。
魔力が身体の内側から押し広げられる。
「ぐっ……」
火属性の出力が上がりすぎた。
円環そのものが膨らみ、魔力経路を内側から圧迫する。
風が火を煽っている。
止めるのではない。
押し込めるのでもない。
呼吸を整え、膨らんだ力を全身へ分ける。
右腕だけではなく、左腕へ。
上半身だけではなく、両脚へ。
一箇所へ集まろうとする熱を、円環のすべてへ通していく。
赤い魔力波が、身体から放たれた。
緑色の風へ重なるように広がり、二つ目の円を赤く染める。
風と火。
二つの属性が、無属性の流れの上を同時に巡っている。
『二つを一度に使っているのね』
「ああ。切り替えているわけじゃない」
どちらも、俺の中にある。
一つを止めてから、もう一つを動かす必要はなかった。
三つ目の円が光る。
火によって広がろうとする魔力へ、水属性を通した。
掌から相手の内部へ流し、《獅子琉掌》として形にした力。
水は円環の隙間へ入り、風と火の間を繋いでいく。
速すぎた風を受け止める。
膨らみ続ける火を、身体の隅々まで運ぶ。
魔力が、これまで以上に滑らかに全身へ行き渡った。
青色の魔力波が広がる。
緑と赤の光へ重なり、三つ目の円を満たした。
風が速める。
火が押し出す。
水が繋ぐ。
三つの属性は互いを打ち消すことなく、無属性の円環を通り続けていた。
残るのは、最も内側にある一つの円。
だが、俺が持つ属性は、既にすべて使っている。
「最後は、どうすればいい」
『私にも分からないわ。けれど、第四階層が求めているものなら――』
セレスの声が止まる。
足元の獅子紋が、強く輝いた。
床へ置いた両足が重くなる。
何かに押さえつけられたわけではない。
石床の奥から、これまで感じたことのない魔力が伝わってきていた。
速さはない。
火のような熱も、水のような流れもない。
ただ、そこに在り続ける。
揺らぐことなく、すべてを下から支えている。
「土属性……」
獅子紋から伸びた黄色い光が、両足を通して身体へ入る。
足首。膝。腰。背骨を上り、肩から両腕へ。
重い。
だが、動きを妨げる重さではなかった。
風によって速くなった流れを受け止め、火によって増した力に身体が耐えられるよう、骨と関節を支えている。
水がその力を全身へ運ぶ。
土は、止めるための属性ではない。
動き続ける身体が崩れないよう、その中心を支える力だ。
黄色い魔力波が、俺の身体から放たれた。
四つ目の円が、鮮やかな黄色へ変わる。
緑。赤。青。黄。
四つの円が異なる色を持ち、俺を中心として巡り続ける。
『すべての円が埋まったわ』
「まだだ」
扉は開かない。
床の光も止まらない。
それどころか、四つの円は少しずつ中央へ近づいていた。
最も外側にあった緑色の円が、赤色の円へ重なる。
赤と青。青と黄。
四つの光が、一つの獅子紋へ集まってくる。
同時に、俺の中を巡る属性も互いへ近づいた。
風が火を煽る。
火の熱が水を押し広げる。
水が土の重さを全身へ運び、土が風の速さを受け止める。
均衡が僅かに崩れれば、どれか一つが突出する。
風へ寄れば、火が膨らむ。
火を抑えようと水を増やせば、身体の内側へ流れる力が強くなりすぎる。
土へ力を寄せれば、円環そのものが重くなる。
「一つずつ考えるな……」
カイウスから教わったことを思い出す。
相手の拳を見てから、どのように受けるのかを考えていては遅い。
リヴィアからも、何度も同じことを言われた。
掴まれてから、力の流れを考えるな。
頭で最後まで決めてから、身体を動かそうとするな。
今、必要なのは四つの属性を個別に操ることではない。
すべてを、一つの円として巡らせることだ。
足裏で床を捉える。
土が身体を支える。
そこから生まれた力を、水が全身へ繋ぐ。
火が力を押し出し、風が次の場所へ運んでいく。
そのすべてを載せたまま、無属性の魔力が腹部を起点に巡り続ける。
四つの属性が、一つの円環へ重なった。
その瞬間。
身体の内側から、白い光が溢れ出した。
白を芯として、その周囲を淡い黄金色が包んでいる。
黄金の魔力波が円形空間を駆け抜けた。
床の四つの円が、同時に輝く。
緑も、赤も、青も、黄も。
すべての色が白い光の中へ重なり、やがて獅子の鬣を思わせる黄金色へ変わった。
魔力波が壁へ届く。
低い音が、第四階層全体を震わせた。
獣の咆哮にも似ている。
だが、目の前に敵はいない。
円形空間そのものが、俺の魔力へ応えた音だった。
両手を握る。
身体が軽い。
それでいて、足元は少しも揺らがない。
拳へ力を込めれば火が押し出し、その力を水が腕の先まで繋ぐ。風は次の動きへ身体を運び、土が骨と関節を支えている。
どれか一つを選んだ強化ではない。
四つの属性を円環へ重ねた、合成強化。
『ようやく、すべてが繋がったのね』
「ああ」
黄金色の魔力は、全身を巡り続けている。
だが、長く維持できるほど完成してはいない。
左肩の傷が熱を持ち、呼吸も少しずつ荒くなってきた。
無属性の円環を保ったまま、重ねている属性の出力を落としていく。
身体への負担が軽くなった。
それでも、先ほどまで存在しなかった土属性は、確かに俺の中を巡っている。
『今のあなたなら、土属性による《堅》も使えるでしょう。ただし、最初から四属性を同時に使おうとはしないことね』
「分かってる。今のは、この階層の力があったから形になった」
『本当に分かっているのかしら』
「少なくとも、村へ戻ってすぐ試すつもりはない」
『少しは学んだようね』
セレスの声に、僅かな笑いが混じった。
その直後。
腰に吊るしていたグリモアが、大きく震えた。
「セレス?」
『待って。これは、私が動かしているのではないわ』
留め具が外れ、焦げ茶色の古い本が宙へ浮かび上がる。
表紙に刻まれた獅子の紋章が、黄金色に輝いた。
同時に、腰へ差していた片手剣が鞘ごと持ち上がる。
兄から渡された、古い片手剣。
俺が帝国へ来てから持ち歩き続けてきた武器が、手を触れていないにもかかわらず鞘から抜けた。
「何が起きている」
『私にも――』
セレスの声が途切れる。
足元の獅子紋が左右へ割れた。
石床の奥から、一振りの刀がゆっくりとせり上がってくる。
赤黒い錆に覆われた刀身。
傷みきった柄巻き。
第一階層で何度も握り、第二階層で台座から引き抜いた刀だった。
「錆びた刀……」
間違えるはずがない。
斬ることすらできないまま、突き、叩き、弾くことを教えてくれた刀。
第三階層には存在しなかった刀が、再び俺の前へ現れた。
宙に浮かぶグリモアから、白い光が溢れる。
光は小さな人の輪郭を作り出していく。
長い銀髪。
金色の瞳。
白いワンピースを身につけた女性。
ただし、その身体は小さく、長身の女性をそのまま縮めたような姿をしていた。
足元は床へ触れていない。
淡い光をまとい、グリモアの上へ浮かんでいる。
「セレス、なのか?」
小さな女性が、自分の両手を見下ろす。
それから顔を上げ、俺へ微笑んだ。
『ええ。声だけでは、そろそろ不便だと思っていたところよ』
口元が動き、聞き慣れた声が空間へ響く。
「身体を得たのか?」
『幻影よ。本体は今までどおり、このグリモア。私はそれを媒介にして姿を映しているだけ』
セレスが宙で一度回る。
長い銀髪と白い衣服が、動きに合わせて軽く揺れた。
『触れることも、物を持つこともできないわ。けれど、あなたの隣へ立つくらいはできるでしょう?』
返事をするより先に、強い光が視界を塞いだ。
兄から受け取った片手剣。
獅子宮の錆びた刀。
二振りの武器が、同時に中央へ引き寄せられる。
片手剣の幅広い刀身が、白い光の中で輪郭を失う。
錆びた刀から、赤黒い錆が剝がれ落ちた。
落ちた錆は床へ届く前に、黒い光の粒へ変わっていく。
二つの光が重なる。
硬い金属音。
続いて、何かを打ち延ばすような澄んだ音が、何度も円形空間へ響いた。
一度。
二度。
三度。
音が重なるたび、光の中に新たな刀の形が生まれていく。
やがて、最後の音が響いた。
白い光が収まる。
宙に残っていたのは、片手剣でも、錆びた刀でもなかった。
銀色の刀身。
俺が以前使っていた打刀よりも、僅かに長い。
反りは緩やかで、刃元から切っ先まで、刀身の中央を一本の黒い線が貫いている。
その下には、黒い鞘。
鞘の中央には、鬣を広げた獅子の紋様が刻まれていた。
柄頭からは、獅子の尾を思わせる一本の組紐が垂れている。
新たな刀が、ゆっくりと落ちてくる。
両手を伸ばし、受け止めた。
掌へ重さが伝わる。
兄から渡された片手剣より軽い。
だが、以前の打刀より僅かに重かった。
それでも、不思議と扱いにくさは感じない。
左手で鞘を持ち、右手を柄へ添える。
これまで何度も繰り返してきた姿勢へ、自然と身体が収まった。
「この刀は……」
『あなたの深層意識が、獅子宮の力へ形を与えたのよ』
セレスが新たな刀の傍へ降りる。
小さな手を伸ばしているが、指先は刀身へ触れることなく通り抜けた。
『錆びた刀には、契約者とともに変化するための器があった。レオンから受け取った片手剣には、今のあなたが剣を振るうために必要な形と力があった』
「それが一つになったのか」
『ええ。あなたの深層意識が望んだ、契約者であるあなたのための武器よ』
柄を握る。
錆びた刀を振り続けた感触。
兄の片手剣を腰へ差し、帝国で歩き続けた時間。
そのどちらも、掌の中に残っている。
「これで完成なのか?」
『いいえ』
セレスは迷うことなく答えた。
『この刀は、まだ最初の位階に立っただけ。あなたが振るい、魔力を流すことで、その力を吸収して成長するわ』
「魔力を?」
『ええ。そして、あなたがいずれ気を扱えるようになれば、それも受け入れる。あなたとともに位階を上げていく武器よ』
気。
兄が《グラジオラス》を放った瞬間に見せた、魔力とは違う揺らぎ。
今の俺には、まだ扱えない力。
「今、この刀にある力は?」
セレスの金色の瞳が、刀身を見つめる。
『宿っている概念は一つ。《不滅》よ』
「不滅……」
『勘違いしないことね。絶対に欠けず、折れないという意味ではないわ』
柄を握る手へ、僅かに力が入る。
『この刀も、受け止めきれない力を受ければ傷つく。欠けることも、折れることもあるでしょう』
「それなら、不滅とは呼べないんじゃないか」
『いいえ』
セレスが静かに首を振る。
『たとえ折れても、それで終わることはない。あなたとの契約が続き、再び魔力を与えれば、形を取り戻す。壊れることはあっても、完全に失われることはない。それが、この刀に宿った《不滅》よ』
折れることはある。
だが、そこで終わらない。
折れた刀を前にして、自分が振り続けてきた時間まで失ったと思っていた俺が、深い場所で望んだもの。
決して折れない武器ではない。
折れても、もう一度積み重ねられる武器。
「俺が望んだ形、か」
『ええ。随分とあなたらしいでしょう?』
「ああ」
鯉口を切る。
銀色の刀身を、ゆっくりと鞘から抜いた。
黒い線が、黄金色の光を細く反射する。
右足を僅かに引き、刀を構える。
片手剣を持っていたときとは違う。
だが、以前使っていた打刀と同じでもない。
刃が長くなった分、切っ先は遠い。
重心も僅かに前へ寄っている。
それでも、脚から腰、腰から背中、肩から腕へ力を繋げれば、刃の先まで届く感覚があった。
兄が《グラジオラス》で見せたもの。
積み重ねた技は、武器が変わっても失われない。
拳を覚えたからといって、刀を捨てる必要もない。
今なら、その意味が以前よりも分かる。
刃へ無属性の魔力を流す。
刀身の中央を走る黒い線が、淡い黄金色の光を帯びた。
身体を巡る円環と、刀の中を通る魔力が繋がる。
まるで初めから、俺の手へ収まることを知っていたようだった。
『振らないの?』
「今日は振らない」
『あら』
「肩の傷もある。それに、この刀の長さと重心を確かめずに振るうつもりはない」
『第四階層へすぐ入った人とは思えない台詞ね』
「少しは学んだと言っただろ」
刀を黒い鞘へ納める。
小さく澄んだ音が鳴った。
床を覆っていた黄金色の円が、ゆっくりと動きを止める。
背後から石の擦れる音が聞こえた。
閉ざされていた扉が、再び開いている。
『これで第四階層は踏破したようね』
「敵とは戦わなかったけどな」
『今回、向き合うべきものは外にはいなかったのでしょう』
セレスが宙を進み、俺の肩の横へ並ぶ。
『自分の中にある力を、すべて一つへ繋ぐ。それが、この階層の試練だった』
風。火。水。
そして、新たに得た土。
そのすべては、今も無属性の魔力を土台として、身体の中を巡っている。
足元には、俺を支える力。
腰から背中には、力を繋ぐ流れ。
両腕には、いつでも動き出せる魔力。
そして左手には、黒い鞘へ納められた新しい刀。
「この刀に、名前はあるのか?」
『今はまだないわ。付けるのであれば、あなたが決めることね』
鞘の中央へ刻まれた獅子の紋様を見る。
すぐには、言葉が浮かばなかった。
「名前は、もう少し振ってから決める」
『そう言うと思ったわ』
セレスが小さく笑う。
グリモアに手を触れると、足元に獅子の紋章が浮かび上がった。
第四階層の景色が、黄金色の光に包まれていく。
一度、目を閉じる。
次に開くと、村長の家で借りていた小さな部屋へ戻っていた。
窓を覆う布の隙間から、変わらず月明かりが差し込んでいる。
左手には、新たな刀。
机の上には、焦げ茶色のグリモア。
その上へ、銀髪の小さなセレスが腰を下ろしていた。
「戻っても、その姿のままなんだな」
『グリモアを媒介にしている限りはね。消した方がいいのかしら?』
「いや。そのままでいい」
『そう』
セレスはそれだけ答え、白いワンピースの裾を整える。
どこか満足そうに見えた。
新しい刀を壁へ立てかける。
黒い鞘の獅子が、月の光を受けて浮かび上がった。
折れた刀を振り続けた時間。
刀を失い、拳を学んだ日々。
兄から渡された片手剣。
獅子宮で何度も握った錆びた刀。
どれか一つを捨て、別のものへ取り替えたわけではない。
すべてが巡り、重なり、一振りの刀へ繋がった。
ならば、ここからまた積み重ねればいい。
この刀とともに。
今度こそ、俺自身の手で。




