第79話 弟を借りに
日の出前。
薄暗い庭の中央で、俺は兄さんと向かい合っていた。
兄さんは濃紺の着流しの袖を肘まで捲り、両手を下ろしたまま立っている。長剣は庭の端にある壁へ立てかけられていた。
俺も武器は持っていない。
腹部を起点に魔力を巡らせ、円環を整える。
全身へ薄く流した魔力が肉体を強化する。そこから、必要に応じて風、水、火の属性へ切り替える。
だが、最初からどこか一つへ力を寄せることはしない。
兄さんがどう動くのか。
それを見てから、身体が選ぶ。
『昨日より、考え込まずに済みそう?』
「やってみるしかないな」
「セレスと話してる場合か」
「準備はできています」
兄さんが僅かに腰を落とす。
「昨日みたいに、掴まれてから力の流れを考えるなよ」
「分かっています」
「なら、構えろ」
両拳を身体の前へ上げる。
兄さんの右足が、僅かに前へ出た。
足先が地面へ触れる。
次の一歩で円へ入ってくる。
そう感じた瞬間、門の向こうから金属を打つ音が響いた。
兄さんの動きが止まる。
「こんな朝から誰だ」
兄さんが構えを解き、門へ向かう。
俺も魔力を基準の流れへ戻し、その後を追った。
門を開くと、外には背の高い女性が立っていた。
長い濃紺の髪を背中で束ね、白い上着に厚手の青い八分丈のズボンを身につけている。腰の後ろには、長槍を収納した黒い金属筒が下げられていた。
ヴァレリア・アークシェルド。
帝国四名家の一つ、アークシェルド家の後継者だった。
「おはようございます、レオン」
「朝から何の用だ、ヴァレリア」
「急なお願いがありまして」
ヴァレリアさんの視線が、兄さんから俺へ移る。
「弟君を、しばらく私に貸していただけませんか」
「物みたいに言うな。本人に聞け」
「では、改めて」
ヴァレリアさんが俺へ向き直る。
「レグルス殿。討伐へ同行していただけませんか」
「俺が、ですか」
「ええ」
ヴァレリアさんは腰に下げていた革製の鞄から、一通の書状を取り出した。
封蝋には、帝国の地方行政を示す紋章が刻まれている。
「昨日の夕刻、帝都東方にある放牧村から、アークシェルド家へ正式な討伐依頼が届きました」
「家へ直接、討伐依頼が来るんですか」
「現地の駐屯兵だけでは対処できないと判断された場合、四名家である私の家へ協力を求めることがあります。今回の対象は数が多いうえ、一種類ではありません」
ヴァレリアさんが書状を開く。
「確認されているのは、グラスウルフが六体。アイアンボアが三体。そしてレイザーホークが二体です」
「三種類で、十一体……」
「目撃された数だけです。実際には、もう少しいると考えた方がいいでしょう」
グラスウルフは集団で獲物を追い込む狼型の魔物だ。
アイアンボアは金属にも似た硬い外皮を持ち、正面からの突進で荷馬車すら横転させる。
レイザーホークは空から獲物へ急降下し、刃のような爪で肉を斬り裂く鳥型の魔物だった。
いずれも一体であれば、熟練した兵士でも対処できる。
だが、性質の異なる三種が同じ場所へ現れたとなれば、話は変わる。
「すでに家畜が襲われ、駐屯兵にも負傷者が出ています。今のところ村人に犠牲者はいませんが、魔物の行動範囲は村へ近づいています」
「それなら、急いだ方がいいですね」
「はい。今日中には到着したいと考えています」
兄さんが、ヴァレリアさんの持つ書状へ目を向ける。
「お前一人でも片づけられるだろ」
「すべてが同じ場所にいるのであれば」
ヴァレリアさんが書状を畳む。
「しかし、魔物は放牧地、街道、林の三方で確認されています。私一人では、逃げた魔物が村へ向かうことまで防ぎ切れません」
「第十二席が出る依頼にしては、随分と面倒そうだな」
兄さんの言葉に、俺はヴァレリアさんを見る。
「第十二席……?」
ヴァレリアさんは驚いた様子もなく、小さく頷いた。
「元老院第十二席。それが、私のもう一つの立場です」
「ヴァレリアさんが、元老院の……」
「末席ですが、席を預かっていることに変わりはありません」
『四名家の後継者に、元老院第十二席。随分と肩書きを隠していたのね』
「隠していたわけではないだろ。俺が知らなかっただけだ」
以前、ヴァレリアさんから体術を教わったときも、元老院の話は出なかった。
長槍を持たず、拳が届く場所へ立つことだけを教えられた。
そのときから、動きに隙がないことは分かっていた。
だが、元老院の席へ座るほどの実力者だとは思っていなかった。
「ですが、どうして俺を同行者に選んだんですか」
「レオンの実力については、私もある程度知っています」
兄さんは元老院第十席だ。
同じ席を持つ者であれば、試合や仕事を通じて力量を知る機会もあるのだろう。
「しかし、レグルス殿がどの程度戦えるのかは、まだ知りません。以前、少しだけ相手をしましたが、あのときは体術を学び始めたばかりでした」
「あれから、どれほど変わったのかを知りたいということですか」
「ええ。今後、共に動くことがあるかもしれません。その前に、あなたがどの程度戦えるのかを見ておきたいのです」
「討伐へ連れていく程度の力はあると?」
「足手まといを連れていくほど、討伐を軽く見てはいません」
ヴァレリアさんは迷うことなく答えた。
「以前のあなたにも、自分の身を守る力はありました。今の実力を知らないというだけで、戦えないとは考えていません」
「なるほどな」
兄さんがヴァレリアさんを見上げる。
「だが、本当にそれだけか」
「何のことでしょう」
「リヴィアだ。あいつから何か言われたな」
ヴァレリアさんが僅かに黙る。
その反応だけで、兄さんの問いが正しいことは分かった。
「……昨日、リヴィア殿から連絡がありました」
「リヴィアから?」
「同行者を探しているのであれば、レグルス殿を連れていってはどうかと。それとなく勧められただけです」
「命令されたわけじゃないんだな」
「もちろんです。レグルス殿を選んだのは、私自身の判断です」
リヴィアは別れ際、ここから先は実際に使いながら覚えろと言っていた。
その言葉どおり、俺が実戦へ出る機会まで用意していたらしい。
「ヴァレリアさんも、リヴィアを知っているんですか」
「以前から、少し縁があります」
ヴァレリアさんはそれ以上を話さなかった。
兄さんも口元へ僅かな笑みを浮かべるだけで、何も付け加えない。
元老院第十二席のヴァレリアさんと、以前から縁がある。
さらに、アークシェルド家へ届いた依頼まで知っていた。
リヴィアがただの武術家ではないことは、もう疑いようがない。
だが、本人が話していないことを兄さんが教えるつもりはない。
それは昨日、すでに聞いていた。
「それで、お前はどうする」
兄さんが俺を見る。
「行きます」
「リヴィアに勧められたからか」
「それだけではありません」
討伐対象が村へ近づいている。
俺が同行すれば防げる被害があるのなら、断る理由はなかった。
「俺にも戦える力があり、その力を必要としている人がいます。なら、行くべきです」
「修練の続きだと思ってるなら、やめておけ」
兄さんの目が鋭くなる。
「討伐は、お前が成長するためにあるんじゃない。村人が襲われる前に、魔物を確実に仕留めるための仕事だ」
「分かっています。依頼を果たすことを最優先にします」
兄さんは俺の目を見たまま、しばらく黙っていた。
「なら、行ってこい」
「はい」
「今朝の手合わせは、帰ってからだ」
「もちろんです。次こそ、一度は転がしてみせます」
「言うようになったな」
兄さんの口元が僅かに上がる。
ヴァレリアさんが懐から小さな懐中時計を取り出した。
「出発は一刻後です。帝都の東門で待っています」
「すぐに準備します」
「武器と二日分の荷物を。何も起きなければ、明日の夜には戻れるでしょう」
ヴァレリアさんが一礼し、門を出ていく。
腰の後ろにある金属筒が、歩みに合わせて僅かに揺れていた。
『帰ってきた翌日に、また出発することになったわね』
「しばらくは兄さんのところで修練するつもりだったんだけどな」
『帰ってくれば、続きはできるでしょう?』
「ああ」
兄さんへ一礼し、部屋へ戻る。
荷物の大半は、昨日運び込んだままだった。
分厚い靴を履き直し、動きやすい黒い長衣の上から外套を羽織る。二日分の食料と水を鞄へ詰め、兄さんから預かった古い片手剣を腰へ吊るした。
その後ろへ、セレスを固定する。
『リヴィアから直接聞かされなかったことが、気になる?』
「少しだけな」
『あの人なら、あなたが戻った後まで考えていても不思議ではないわ』
「それなら、そう言ってくれてもよかったと思うけどな」
『言葉で全部教えてくれる人ではないでしょう?』
「それもそうだな」
リヴィアから教わったのは、力の配分と流れだった。
静止した状態で扱えるだけでは足りない。
考えてから身体を動かしているうちも遅い。
異なる相手を前にしたとき、必要な力を必要な場所へ流せるのか。
今回の討伐で、それを確かめることはできる。
だが、兄さんの言うとおり、魔物は修練のために用意された相手ではない。
討ち漏らせば、村の人間が襲われる。
俺の成長よりも先に、依頼を果たさなければならない。
準備を終えて庭へ戻ると、兄さんが門の前で待っていた。
「忘れ物はないか」
「ありません」
「魔物の数だけを見るな。三種いるなら、動きも狙う場所も違う」
「はい」
「ヴァレリアから離れすぎるな。あいつの槍が届く範囲にいれば、そう簡単には死なん」
「そこまで強いんですか」
「本人に聞け」
「兄さんも、リヴィアと同じことを言うんですね」
「余計なことを話さないだけだ」
兄さんが門を開く。
「気をつけて行ってこい」
「行ってきます」
帝都の東門へ着くと、ヴァレリアさんは二頭の馬を連れて待っていた。
片方の鞍には、討伐に必要な荷物が括りつけられている。
「時間どおりですね」
「お待たせしました」
「では、出発前に現地の位置を確認しておきましょう」
ヴァレリアさんが一枚の地図を広げる。
帝都から東へ伸びる街道。その先にある放牧村を囲むように、三つの印が記されていた。
北側の林に、グラスウルフ。
西側の街道に、アイアンボア。
南側の丘陵に、レイザーホーク。
「三種とも、違う方向から村へ近づいているんですね」
「ええ。目撃された場所も、生息域も異なります」
「偶然、同じ村へ向かっているということですか」
「今のところは、そう考えるしかありません」
ヴァレリアさんが地図を畳む。
「魔物同士が争った痕跡もありません。なぜ別々の魔物が同時に現れたのか、その理由は分かっていません」
「原因を調べることも依頼に含まれていますか」
「原因の究明は二番目です。まずは村人の安全を確保し、確認されている魔物を討伐します」
「分かりました」
馬の背へ乗り、手綱を握る。
ヴァレリアさんも隣の馬へ跨がった。
「レグルス殿」
「はい」
「今のあなたがどの程度戦えるのか、見せていただきます」
「期待に応えられるようにします」
「私の期待ではありません。現地で必要とされる働きをしてください」
「……はい」
『兄弟子が違っても、教えることは似ているわね』
「そうだな」
ヴァレリアさんが馬を進める。
俺もその後へ続き、帝都の東門を抜けた。
広い街道の先には、朝日に照らされた麦畑と放牧地が続いている。
そのさらに先で、本来なら同じ場所へ集まるはずのない三種の魔物が、一つの村へ近づいていた。
ヴァレリアさんは、俺の実力を知りたいと言った。
俺も、今の自分がどこまで戦えるのかを知らない。
だが、これから向かう場所にいるのは、力を測るための相手ではない。
倒さなければ、誰かの命を奪う魔物だ。
全身を巡る魔力の流れを確かめ、手綱を握り直す。
今度は、迷って拳を止める相手ではなかった。




