第78話 一歩だけ返す
中庭へ出ると、リヴィアは修練場の端に立っていた。
いつもなら、挨拶より先に数字が飛んでくる。
だが、今日は何も言わない。
俺は中庭の中央へ進み、魔力円環を基準の一で巡らせた。
「何から始めますか」
「必要ない」
「え?」
「ここで教えることは、昨日で終わりだ」
リヴィアは腕を組むこともなく、真っ直ぐ俺を見ている。
「一から百までの出力。部位ごとの配分。無属性から風、水、火への切り替え。動きながらでも、最低限は使えるようになった」
「最低限、ですか」
「数字を合わせられるようになっただけだ。相手へ何を使うかまで、私が決めてやるつもりはない」
ヴァルドとの試合を思い返す。
もし今、同じ場面へ戻れたとしても、最初から正しい出力を選べるとは限らない。
体格も、鍛え方も、それまでに受けた傷も違う。
拳を当てた感触から、次を決める必要がある。
「ここからは、実際に使いながら覚えろ」
「分かりました」
「それと、一度レオンのところへ戻れ」
兄の名前が、何でもないことのようにリヴィアの口から出た。
「兄さんを知っているんですか」
「少しだけ教えたことがある」
「リヴィアが、兄さんを?」
「あれが帝国へ来て間もない頃だ。相手の動きの起こりと、力を正面から受けない方法。それから、足腰の力を武器へ通すところまで教えた」
元老院闘技場で見た《グラジオラス》が浮かぶ。
祖父の《桔梗》を土台に、兄自身の身体と長剣へ合わせて作り直した技。
あの技へ至るまでには、リヴィアから学んだものも含まれていたのかもしれない。
「レオンは、教えた形をそのまま持ってはいかなかった。必要な理だけを持ち帰り、自分の剣へ組み込んだ」
「俺にも、そうしろということですか」
「それを決めるのも、お前だ」
リヴィアが中庭の出口へ視線を向ける。
「最初のお前を知る者へ、今の自分を見せてこい。変わっていれば、あれならすぐに気づく」
この屋敷で修練を始めてから、とうに十日を超えている。
「これまで、本当にありがとうございました」
頭を下げる。
「礼は要らん」
短い返事だった。
「次に来たとき、教えたものを失っていなければそれでいい」
「必ず」
用意していた荷物を持ち、中庭を囲む回廊を抜ける。
回廊の内側には、これまで使い続けた修練場となる広い中庭があり、その奥には主屋から独立した修練棟が見えた。
最初に訪れたときは、その広さよりも、余計なものが何もないことに目が向いていた。
今は違う。
あの場所で、足を置くところから始めた。
拳を届かせることを覚え、届いた先で止まった。
そして、止めずに打つための力を教わった。
『終わってみれば、短かったわね』
「毎日転がされてた俺には、十分長かったけどな」
『それでも、また来るのでしょう?』
「ああ」
厚い木の門を開き、帝都へ続く街道へ出る。
一から百までを覚えただけで、修練が終わったわけではない。
むしろ、ようやく自分で選ぶところまで来ただけだった。
昼を少し過ぎた頃、兄の家へ着いた。
門を開くと、庭から重く風を切る音が聞こえてくる。
兄――レオン・クレハルトが、長剣を振っていた。
黒髪を後頭部で結び、濃紺の着流しの袖を肘まで捲っている。幅広の長剣が振り下ろされるたび、剣先は地面へ触れる寸前で止まった。
俺が庭へ入ると、兄は長剣を肩へ担ぐ。
「遅かったな」
「ただいま」
「おう」
兄のもとを離れて以来の挨拶は、それだけだった。
『もう少し、久しぶりの再会らしい言葉はないのかしら』
「兄さんだからな」
「何か言ったか」
「セレスが、挨拶が短いと言っています」
「しばらく顔を合わせなかった程度で、長々と話すこともないだろ」
『似た者同士ね』
兄が長剣を壁際へ立てかける。
その視線が、俺の足元から腰、肩へとゆっくり昇った。
「立ち方が変わったな」
「まだ何も報告していませんが」
「見れば分かる」
リヴィアの言葉どおりだった。
兄がこちらへ歩いてくる。
「荷物を寄越せ」
「自分で運べます」
「知ってる。さっさと渡せ」
肩へ掛けていた荷物を下ろす。
兄が右手を伸ばした。
持ち手を渡そうとした瞬間、その右手が俺の手首を掴む。
同時に、兄の左足が俺の右足の外側へ入った。
肩が僅かに沈む。
掴んだ手首を引き、足を払う。
帝都へ来た翌朝、三度も地面へ転がされた動きだった。
だが、今は見える。
意識して描くより先に、兄の足が円へ入ったことを身体が捉えていた。
魔力円環の出力を三十へ上げる。
全身へ水属性を十。《瞬》で意識と身体の遅れを削る。
左脚へ風属性を八。残りを腰と右脚へ六ずつ流した。
兄に引かれる方向へ逆らわない。
右足を浮かせ、左脚の《速》で斜め前へ踏み込む。
兄の足が空を払った。
身体を入れ替えながら、掴まれた右手首を内側へ回す。
兄の指が僅かに緩んだ。
すぐに水と風を腹部へ戻す。
円環は止めない。
両脚へ合わせて七。腰へ八。
右腕へ火属性を十五。
身体強化《剛》。
右足で地面を踏み、腰を回す。
兄の胸元へ、右拳を打ち込んだ。
兄の左掌が拳へ重なる。
乾いた音が庭へ響いた。
拳は止めない。
右腕へ流した十五を、最後まで掌へ通す。
兄の右足が地面を擦り、一歩だけ後ろへ動いた。
「……ほう」
兄の口元が僅かに上がる。
次の瞬間、拳を受けていた左手が閉じた。
右手首を掴まれる。
兄が懐へ入り、背中を俺の胸へ重ねた。
腰が沈む。
出力を切り替える。
脚へ――
そう考えたときには、足が地面を離れていた。
視界が反転する。
受け身を取り、背中から庭の土へ落ちた。
鈍い衝撃が全身へ広がる。
見上げると、兄が俺の右手首を掴んだまま立っていた。
「拳は止めたか」
「いえ。最後まで打ち切りました」
「そうか」
兄が手を離す。
「ようやく加減を覚えたな」
「ですが、その直後に転がされました」
「力の配分を考えるのに一瞬止まった。実戦なら、その一瞬で十分だ」
反論できない。
兄の掌へ拳を打ち切った後、次の配分を考えた。
脚へいくつ流すのか。
腰へどれだけ残すのか。
その数字が頭を過ぎった間に、兄は俺の懐へ入っていた。
「力の流れを効率よく切り替えられるようになった。だが、考えてから動いているうちは遅い」
兄が右手を差し出す。
掴んで立ち上がる。
「リヴィアさんにも、似たようなことを言われました」
「あいつなら言うだろうな」
「兄さんを教えたことがあるとも聞いたのですが」
兄の眉が僅かに動く。
「余計なことを話したな」
「少しだけだったそうですね」
「ああ。俺には、あいつの拳をそのまま真似る気はなかった」
兄が壁際の長剣を見る。
「だが、相手の起こりを見ることと、力を流す道は教わった。足から腰、背中、腕を通り、最後に剣へ届かせる。その理は、武器が変わっても使える」
「《グラジオラス》にも、リヴィアから学んだものが入っているんですか」
「少しはな」
兄が頷く。
「技の骨組みは、爺さんの《桔梗》だ。だが、この身体と長剣へ力を通す部分は、リヴィアから学んだものを使って作り直した」
祖父の技。リヴィアから学んだ理。
兄自身の身体と、選んだ長剣。
どれか一つをそのまま使ったのではない。
積み重ねたものを繋ぎ直し、自分の技にしている。
「あの人は、何者ですか」
「お前の師匠だろ」
「それは分かっています。そうじゃなくて――」
「本人が話していないことを、俺から話すつもりはない」
兄はそれ以上答えず、地面へ置かれた荷物を拾った。
「まずは飯にするぞ。話はそれからだ」
その日の夕食には、豆と野菜を煮込んだ濃いスープと、薄く切って焼かれたブリア牛の肉が並んだ。
兄に促され、大会での試合を最初から話す。
予選でマリウスに負けたこと。
円の中へ入る相手を待つのではなく、こちらから足を置く場所を選ばせたこと。
準決勝でヴァルドと戦い、拳を止めて敗れたこと。
そして、リヴィアから魔力の配分方法について教わったこと。
兄は食事を続けながら、最後まで黙って聞いていた。
「ヴァルドを殺したくなかったことは、間違いだったと思うか」
「思いません」
「なら、それでいい」
兄が肉を一切れ口へ運ぶ。
「殺さずに勝つ力がなかったから負けた。それだけだ」
「はい」
「次は、止めずに倒せ」
「そのつもりです」
『随分と簡単に言うのね』
「簡単に言うな」
「難しいから修練するんです」
兄は何でもないことのように食事を続けている。
「リヴィアさんは、俺が準決勝前後で負けると予想していました」
「あいつらしいな」
「兄さんも、同じように思っていたんですか」
「お前が大会へ出ることは聞いていなかった」
兄が匙を置く。
「だが、以前のお前なら、強く打つか、止めるかのどちらかを選んだだろうな」
「見ていたみたいに言うんですね」
「最初に三度転がしたとき、加減はできていなかったからな」
「あれで分かったんですか」
「一度目は驚いて全身を固めた。二度目は速さで逃げようとした。三度目は力任せに押し返そうとした」
すべて覚えられていた。
「今日は違った。引かれる力を受け入れ、必要な場所だけを強めた。拳も、自分で決めたところまで打ち切った」
兄が僅かに笑う。
「一歩くらいなら、返したことにしてやる」
「随分と上からですね」
「俺を転がすと言ったのはお前だ」
「忘れていません」
「なら、次は考える前に動け」
兄が再び匙を取る。
「力の使い方は、戦いの最中に一つずつ考えるものではない。考えるより先に、身体が必要な量を選べるところまで繰り返せ」
「分かりました」
「明朝、日の出前に庭へ出ろ」
「また三度転がすつもりですか」
「一度で足りるだろ」
「今度は、その前に一度返します」
「やってみろ」
夕食を終え、自分が使っていた部屋へ戻る。
置かれた物は、俺が出ていったときとほとんど変わっていない。
荷物を下ろし、セレスと古い片手剣を机へ置く。
『帰ってきたわね』
「ああ」
『そして、また転がされた』
「それは言わなくていい」
『でも、今回は一歩だけ返したでしょう?』
兄の掌へ拳を打ち込んだ感触が、右手に残っている。
十五と決めた力を、途中で弱めず、最後まで届かせた。
兄を倒すには足りない。
それでも、兄のもとを離れる前には返せなかった一歩だった。
「次は、一歩で終わらせない」
『ええ。そのためにも、まずは明日の朝に転がされないことね』
「分かってる」
一と百の間から、必要な力を選ぶ。
だが、選ぶために足を止めては意味がない。
次は、数字を考えるより先に身体を動かす。
そしていつか、兄を一度、地面へ転がす。
約束を果たすまで、あと一歩では足りなかった。




