第77話 一と百の間
帝都闘技場を出る頃には、空が赤く染まり始めていた。
治療師に診てもらい、折れた骨がないことは確認している。
それでも、ヴァルドに打たれた腹部は歩くたびに痛み、拳を受け続けた左腕にも熱が残っていた。
だが、最も強く残っているのは痛みではない。
ヴァルドの顎へ届きながら、最後まで振り抜けなかった右拳の感触だった。
『随分と静かね』
「考えていた」
『敗因を?』
「ああ」
意識上の円は通じていた。
円へ入る足、沈む肩、回る腰を見て、ヴァルドの攻撃を躱すことができた。俺の拳も、相手より多く届いていた。
それでも負けた。
ヴァルドが傷つきながらも前へ出てきたとき、俺は拳を振り抜くことができなかった。
魔物と戦った経験はある。
だが、人間と本気で殴り合った経験はほとんどない。
どこまで打てば倒れるのか。どこから先が命を奪う一撃になるのか。その境目を知らなかった。
「やはり、人と戦った経験が足りなかったんだと思う」
『リヴィアも、同じ答えを出すかしら』
「分からない。だから聞きに戻る」
帝都を後にして、リヴィアの屋敷へ向かった。
門を潜ると、中庭から短く風を切る音が聞こえてくる。
リヴィアは一人で立ち、同じ動きを繰り返していた。
左足を半歩前へ置き、腰を回す。突き出した掌は、何もない空間へ触れる寸前で止まっている。
速くはない。
それでも、足から腰、背中、肩、腕へ一つの流れが通っていることが分かった。
俺が庭へ入ると、リヴィアは掌を引いた。
「戻ったか」
「はい」
「どこまで行った」
「準決勝で負けました」
「そうか」
驚いた様子はない。
リヴィアは俺の顔と左腕を見た後、視線を腹部へ下ろした。
「相手は」
「ヴァルド・ローデンという方です」
「月例大会の常連だな。どう負けた」
試合の流れを、最初から説明する。
円の中ではヴァルドの動きを捉えられたこと。
《瞬》と《剛》も通じ、攻撃は俺の方が多く当たっていたこと。
それでもヴァルドが止まらず、最後に顎へ拳を振り抜けば殺めてしまうかもしれないと考えたこと。
力を緩めた拳では止められず、その後も攻撃を返せないまま場外へ押し出されたこと。
リヴィアは途中で口を挟まなかった。
すべてを聞き終えた後、俺の右手を見る。
「敗因は何だ」
「人と戦う経験が足りませんでした」
「違う」
迷いのない声だった。
「ですが、俺は人間がどこまで耐えられるのか分からなかったから――」
「ヴァルドへの最後の拳に、どれだけの魔力を流した」
言葉が止まる。
右腕へ火属性を巡らせ、《剛》を強めた。
だが、どれほどの魔力を流していたのかと問われても、答えられない。
「……分かりません」
「その一つ前に、脇腹へ打ち込んだ拳は」
「それも、分かりません」
「ならば、どれだけ強めれば殺すと思った」
答えは出なかった。
リヴィアが一歩近づく。
「お前が分からなかったのは、人間がどこまで耐えられるかではない。自分がどれだけの力で殴っていたかだ」
胸へ重いものが落ちた。
「力は加減していたつもりです」
「つもりでしかない。強くする。弱くする。お前がしていたのは、その二つだ」
リヴィアが俺の右手首を掴む。
指先が脈へ重なった。
「十のつもりで二十を出していたかもしれん。五十が必要な相手へ、三十しか出していなかったかもしれん。必要な量を選べないから、最後はさらに強めるか、拳を止めるか。その二つしか残らなかった」
ヴァルドの顎を打った感触を思い返す。
それまでより強くしなければ止まらない。
だが、強くすれば殺すかもしれない。
俺はその間を選べず、拳から力を抜いた。
『経験が足りないという答えだけでは、届かなかったところね』
「俺を大会へ出したのは、そのことに気づかせるためだったんですか」
「それだけではない」
リヴィアが手首を離す。
「意識上の円が、人間を相手にどこまで通じるかも見たかった。お前の身体能力なら、予選は抜けると考えていた」
「準決勝で負けることも、予想していたんですか」
「誰に、どう負けるかまでは知らん」
リヴィアは僅かに間を置いた。
「だが、本戦を勝ち上がれば、曖昧な加減では止まらん相手に当たる。今のお前なら、準決勝前後が限界だと見ていた」
「予想どおりだったんですね」
「円は予想以上に使えていた」
敗北だけを見ていたわけではない。
短い言葉だったが、胸に残った重さが僅かに軽くなる。
「なぜ、大会の前に教えてくれなかったんですか」
「教えれば、お前は加減できていると答えただろう」
否定できない。
実際、大会へ出る前の俺は、力を抑えることならできると思っていた。
「必要だと知らぬまま数字だけを覚えても、実戦では使わん。まず、自分が選べていないことを知る必要があった」
リヴィアが庭の中央を指す。
「右腕を出せ」
「今からですか」
「今日は殴らせん。魔力を流すだけだ」
指示された場所へ立ち、右腕を前へ伸ばす。
リヴィアが再び手首へ二本の指を当てた。
「魔力円環を巡らせろ。属性は使うな」
「分かりました」
腹部へ意識を向ける。
少量の無属性魔力を、腹部から両脚へ流す。腰から背中を昇り、肩、両腕、胸を通して、再び腹部へ戻す。
何度も繰り返してきた流れだ。
「今、お前が円環へ流している量を基準の一とする」
「これが一……」
「ああ。次に、今のお前が一度に流せる最大まで上げろ」
「魔力をすべて使うんですか」
「総量ではない。身体へ一度に流せる、今のお前の最大瞬間出力だ。それを百とする」
呼吸を整え、魔力円環の流れを強める。
腹部から両脚へ。
両脚から腰、背中、肩、腕へ。
流れる量を増やすたび、全身の内側から圧力がかかる。
さらに魔力を引き出す。
筋肉が張り、右腕の皮膚の下が熱を持った。
「そこまでだ」
リヴィアの声に従い、流れを基準へ戻す。
急に力を抜かれた身体が僅かに揺れた。
「今の量を覚えろ。あれが百だ」
「はい」
「次は五十」
先ほどの半分。
頭の中で魔力の量を二つに分け、その片方だけを円環へ流す。
「これでどうですか」
「六十八だ」
リヴィアは、先ほどの百を基準に、手首を通る魔力の量を指先で測っている。
思っていたよりも多い。
流れを弱める。
「今度は」
「三十九」
半分へ近づけようと強める。
「六十一」
また弱める。
「四十二」
五十を狙うたび、上か下へ大きく外れる。
強めることはできる。
弱めることもできる。
だが、狙った場所へ止められない。
「これが、今のお前の加減だ」
リヴィアの指が、手首を流れる魔力の揺れを捉えている。
「自分では半分にしたつもりでも、三十九から六十八まで変わる。ヴァルドを相手に、お前が何を恐れていたのかさえ正確ではない」
拳を振り抜けば殺すかもしれない。
そう考えた。
だが、そのときの俺は、自分がどれだけの力を使おうとしているのかすら分かっていなかった。
「もう一度、五十だ」
「はい」
再び、魔力円環の流れを調整する。
その日の修練は、五十を三度続けて再現できるまで終わらなかった。
翌朝。
中庭へ出ると、リヴィアは既に待っていた。
「百」
挨拶より先に数字が飛んでくる。
魔力円環の出力を最大まで引き上げる。
「五十」
流れを半分へ落とす。
「二十五」
さらに半分。
「百」
一気に最大へ戻す。
数値が変わるたび、腹部から全身へ送る魔力の量を切り替える。
百から二十五へ落とした直後、円環の流れが腰で乱れた。
右脚へ残った魔力が戻りきらず、上半身だけが先に弱まる。
「止めるな」
リヴィアの指が俺の腰を軽く打った。
「余った魔力を捨てるのではない。腹へ戻し、円環へ巡らせろ」
脚に残った魔力を腰から背中へ流し、胸を通して腹部へ戻す。
流れを切れば、次に引き出すまで遅れる。
戻せば、円環は回り続ける。
「二十五」
今度は全身の流れを保ったまま、円環を巡る量だけを落とした。
「二十七」
二だけ増やす。
「二十三」
四だけ減らす。
僅かな違いになるほど、感覚は曖昧になる。
それでも、外れるたびにリヴィアが実際の数値を告げた。
三日目には十刻み。
五日目には五刻み。
七日目からは、一刻みで不規則な数値を指定された。
「七十三」
魔力を引き上げる。
「二十六」
余分な魔力を腹部へ戻す。
「九十一」
再び全身へ巡らせる。
「一」
常時維持する量だけを残す。
数字を聞いてから魔力が変わるまで、最初は何度も呼吸を挟んだ。
だが、繰り返すほど、頭の中の数字と身体を巡る量が重なっていく。
八日目。
静止した状態であれば、一から百まで、指定された出力を外さず再現できるようになっていた。
だが、リヴィアはそこで終わらせなかった。
九日目。
「次は配分だ」
中庭の中央へ立つ。
「総出力六十。両脚へ二十、腰へ十、右腕へ三十」
円環を巡る魔力を六十まで引き上げる。
その中から二十を両脚へ残し、十を腰へ、残りを右腕へ送った。
「違う。右腕が三十八、腰が四だ」
「総量は合っていますか」
「六十だ。だが、拳だけを合わせても意味はない」
リヴィアの掌が胸元へ触れる。
押された力は僅かだった。
それでも、魔力の足りない腰が支えきれず、上体が後ろへ傾いた。
「足から腰を通り、拳へ届く。途中が抜ければ、腕へ三十を集めても力は通らん」
姿勢を戻し、もう一度配分する。
両脚へ二十。腰へ十。右腕へ三十。
今度は、足から拳まで一本の流れが繋がった。
「そのまま打て」
リヴィアが右の掌を前へ出す。
「怪我をさせるかもしれません」
「今の自分の三十を信じられないのか」
ヴァルドの顎を前にしたときと同じ迷いが、僅かに浮かぶ。
だが、今は右腕へ流している量が分かる。
三十。
それ以上でも、それ以下でもない。
右足で地面を踏み、腰を回す。
右拳を、リヴィアの掌へ打ち込んだ。
乾いた音が響く。
リヴィアの手は動かなかった。
拳も止めていない。
決めた出力のまま、最後まで振り抜いた。
「三十だ」
リヴィアが掌を下ろす。
「はい」
『今度は、打つ前に力を抜かなかったわね』
「自分がどれだけ流しているか、分かっていたからな」
次に、無属性魔力を属性へ切り替える修練が始まった。
両脚へ風属性を巡らせる《速》。全身へ水属性を流し、神経と筋肉の繋がりを滑らかにする《瞬》。右腕へ火属性を集め、打ち込む瞬間の力を高める《剛》。
同じ三十でも、属性によって身体へ現れる変化は違う。
《速》を強めすぎれば、足だけが先へ出る。
《瞬》が足りなければ、意識へ身体が追いつかない。
《剛》を長く保てば、腕へ余計な負担が残る。
それぞれを一から百まで確かめ、必要な部位へ必要な時間だけ流す。
使い終えた魔力は、すぐに腹部へ戻して円環へ巡らせる。
十日目。
静止した状態でできても、足を動かせば配分は崩れた。
《速》で踏み込んだ直後に《剛》へ切り替えると、風属性が右脚へ残る。
《瞬》を全身へ流せば、右腕へ集めた火属性が薄まる。
何度も足を止め、円環を整え直した。
「実戦で相手は待たん」
止まるたび、リヴィアの拳が肩や腹部へ飛んでくる。
強い一撃ではない。
だが、配分へ意識を取られている身体には、一歩を崩すだけで十分だった。
「数字だけを見るな。円環を止めずに動け」
庭を走り、拳を躱し、足を置きながら、指定された出力へ切り替える。
「《瞬》、十二」
水属性を全身へ薄く巡らせる。
「左脚、《速》二十四」
左脚へ風属性を寄せ、一歩だけ加速する。
「腰、八。右腕、《剛》二十七」
腰へ無属性魔力を残し、右腕へ火属性を流す。
リヴィアが掌を出した。
足を止めない。
左脚で踏み込み、腰を回す。
右拳を掌へ打ち込んだ。
衝撃が腕を戻ってくる。
それでも、円環は乱れていない。
右腕へ残った火属性を肩から胸へ流し、腹部へ戻す。
再び、基準の一だけが全身を巡った。
「二十七だ」
リヴィアが拳を受けた掌を閉じる。
「ようやく、選べるところまで来た」
「これで、人を殺さずに倒せますか」
「数字はお前の力を示すだけだ。相手がどこまで耐えるかは、体格も鍛え方も傷の深さも違う」
分かっていた。
同じ三十でも、ガルバとルキウスでは受ける傷が違う。ヴァルドであれば、さらに耐えるかもしれない。
「ならば、相手を見て変える。三十で止まらなければ三十五。強すぎるなら二十五へ落とせ。百まで上げるか、拳を止めるか。その二つだけにするな」
「はい」
「一と百を覚えただけでは足りん。その間を選べて、初めて加減になる」
リヴィアが構えを解く。
俺も両拳を下ろした。
『ヴァルドと戦ったときのあなたには、途中の目盛りがなかったのね』
「ああ。強めるか、止めるか。それしか選べなかった」
今も、人間を相手にした経験が増えたわけではない。
どの相手へ、どれほどの力を使えばいいのか。その答えを、数字だけで決めることもできない。
それでも、自分がどれほどの力を使っているのかは分かる。
当てた感触を確かめ、次の一撃を強めることも、弱めることもできる。
一と百の間には、九十八の選択肢がある。
次は、その中から必要な一つを選ぶ。
拳を止めるのではなく、最後まで届かせるために。




