第76話 届いてもなお
すべての予選が終わる頃には、観客席の空いていた場所もほとんど埋まっていた。
試合場の脇へ置かれた大きな板に、本戦へ進んだ八名の名前が書き並べられている。
予選とは違い、本戦は一度負ければそこで終わりだ。
俺の名前は、最初の組み合わせにあった。
対戦相手は、セルギウス・オルダン。
別の組を一位で通過した、太い前腕を持つ二十代後半の男だった。
『予選の二試合を見ていた人たちもいるのでしょう?』
「ああ。先ほどと同じようにはいかないだろうな」
左の前腕には、ガルバの拳を受けた鈍い痛みが残っている。ルキウスに蹴られた太腿も、足を動かすたび僅かに熱を持った。
それでも、動けないほどではない。
呼吸を整え、魔力円環を巡る流れを確かめる。
身体の内側を回る魔力に乱れはなかった。
「本戦一回戦、第一試合。レグルス・クレハルト。セルギウス・オルダン。試合場へ!」
係員の声に応じ、白い線を跨ぐ。
向かいに立ったセルギウスは、両拳を顎の前へ上げたまま口を開いた。
「予選の試合は見た。場外へ誘うつもりなら、俺は追わんぞ」
「分かりました」
「随分と素直だな」
「同じ方法が通じるとは、俺も思っていませんから」
セルギウスが僅かに目を細める。
審判が俺たちの間から下がり、右腕を振り下ろした。
「始め!」
セルギウスは宣言どおり、無理に前へ出てこなかった。
試合場の中央へ立ち、俺が近づくのを待っている。
ならば、こちらから行く。
自分を中心に、拳が届く範囲を円として意識する。
左足を前へ出し、セルギウスの拳が届く場所へ立った。
右肩が僅かに引かれる。
直後、真っ直ぐな拳が顔へ伸びてきた。
《瞬》で身体を半歩だけ外へ運ぶ。
拳が頬の横を通り過ぎ、セルギウスの脇腹が開く。
火属性を右腕へ巡らせた。
身体強化《剛》。
足で砂を踏み、腰を回して拳を打ち込む。
「ぐっ……!」
セルギウスの身体が折れる。
すぐに追撃せず、拳が届く距離を保った。
セルギウスは二歩下がり、腹部を押さえながら膝をつく。
立ち上がろうと足へ力を込めたが、息を吸い込むことができていない。
審判が間へ入った。
「そこまで! 続行不能。勝者、レグルス・クレハルト!」
大きな歓声が上がる。
俺は《剛》を解き、セルギウスへ手を差し出した。
「ありがとうございました」
「一度入っただけで、俺の拳を見切ったのか」
「肩が動くのが見えました」
「そうか。次は肩を動かさずに殴ることにする」
「そのときは、別の場所を見ます」
セルギウスは苦しそうに息を吐きながらも、口元だけで笑った。
試合場を下り、待機場所へ戻る。
『今度は、きちんと円の中にいる相手を見ていたわね』
「ああ」
円へ入る前から動きを決めつけず、実際に動いた肩と足を見てから身体を外すことができた。
拳も、狙った場所へ届いた。
一度だけではある。
それでも、予選で掴みかけたものが偶然ではなかったことは確かめられた。
続く本戦一回戦が進んでいく。
マリウスは、予選とは別の男を相手に危なげなく勝ち上がった。最初から最後まで相手の正面へ立たず、拳を二度空振りさせた後、足を掛けて砂の上へ倒した。
その次に試合場へ上がったのが、ヴァルド・ローデンだった。
年齢は四十歳に近い。短く刈った暗褐色の髪。俺より頭一つ高く、ガルバほど大柄ではないが、首から肩にかけて厚い筋肉がついている。
両手へ巻いた布は色褪せ、指の関節には古い傷がいくつも残っていた。
派手な動きはなかった。
拳を受ければ腕で防ぎ、蹴りが来れば脛を上げる。避けきれない攻撃は肩や額で受け、それでも足を止めずに前へ出る。
最後は相手の拳を頬へ受けながら懐へ入り、腹部へ短い一撃を打ち込んだ。
相手が膝をつき、ヴァルドの勝利が告げられる。
「また準決勝まで来たぞ!」
「ヴァルド、今年こそ決勝へ行け!」
観客席のあちこちから名前を呼ぶ声が上がった。
『随分と知られている人なのね』
「月例大会の常連らしいな」
勝利を告げられたヴァルドは、歓声へ応えることもなく、倒れた相手を立たせて一礼した。
その後も本戦一回戦が続き、勝ち残った四人の名が板へ書き直される。
俺の名前の隣には、ヴァルド・ローデンと記されていた。
「本戦準決勝、第一試合。出場者は試合場脇へ集合してください!」
呼び出しを受け、壁から背を離す。
ヴァルドは既に白い線の前で待っていた。
先ほど拳を受けた左頬が僅かに赤く腫れている。それでも、呼吸にも足取りにも乱れは感じられない。
俺が隣へ立つと、ヴァルドがこちらを向いた。
「初参加で準決勝か」
「はい」
「十六だと聞いた」
「そうです」
「なら、子供扱いはしない」
「お願いします」
係員に促され、二人で試合場へ上がる。
向かい合ったヴァルドは、左足を前へ置き、両拳を胸の高さへ構えた。
予選で戦った三人とも違う。
何かを隠そうとする様子も、こちらの反応を探ろうとする動きもない。
ただ、正面から俺を見ている。
審判が右腕を上げた。
「始め!」
意識の中に、改めて自分を中心とした円を描く。
その内側は、相手の動きを読み、俺の拳を届かせるための制空圏だ。
ヴァルドが真っ直ぐ前へ出る。
一歩目は速くない。
だが、踏み出した足には迷いがなく、そのまま俺が意識した円の縁まで入ってきた。
左の肩が前へ出る。
拳が伸びるより先に、右足を斜め前へ置いた。
顔を狙った左拳が耳の横を通り過ぎる。
すれ違いざま、左拳を脇腹へ打ち込んだ。
硬い。
ヴァルドは腹部へ力を込めて拳を受け、そのまま右肘を振り下ろしてくる。
外側へ一歩離れる。
肘が空を切った。
ヴァルドは追う。
右足が円へ入る。
腰の向きが変わった。
下段への蹴り。
左脚を僅かに浮かせ、脛が触れる前に後ろへ引く。
蹴り足が砂へ戻るより早く踏み込み、胸元へ右拳を当てた。
「っ……!」
ヴァルドの上体が揺れる。
だが、下がらない。
打ち込んだ俺の腕を左手で掴もうとする。
手が閉じる前に拳を引き、再び円の外へ出た。
ヴァルドは両拳を構え直す。
俺も身体の正面を合わせる。
円へ入る足。
沈む肩。
僅かに遅れて回る腰。
攻撃が始まる前に起こる動きを、一つずつ見る。
ヴァルドの右拳を外へかわし、脇腹へ左拳を返す。
左の拳は腕で流し、空いた胸元へ右の掌を当てる。
前蹴りには正面から下がらず、外側へ回って肩口へ拳を落とす。
俺の拳が届く回数の方が、明らかに多い。
十度攻防を重ねれば、六度か七度は俺が先に躱し、打ち返していた。
それでも、残りの拳は重かった。
左腕で受けた一撃が骨まで響く。脇腹を掠めた拳は、浅く触れただけでも呼吸を乱した。
一発ごとの重さは、ヴァルドの方が上だ。
ならば、まともに受けなければいい。
ヴァルドの身体から魔力が立ち上る。
外へ放たれた魔力は、すぐに皮膚の下へ沈んだ。
太い脚から腰、背中、肩、両腕へ巡っていく。
魔力による身体強化。
ヴァルドが砂を強く踏み、距離を詰めた。
右拳が正面から迫る。
先ほどまでより速い。
外へ逃げるだけでは、次の足が追いつく。
俺も魔力円環の流れを強めた。
右腕へ火属性を巡らせる。
身体強化《剛》。
迫る拳へ、自分の拳を重ねた。
硬い音が鳴る。
拳から肘、肩まで衝撃が突き抜けた。
ヴァルドの右足が半歩下がる。
俺の足も砂の上を滑った。
「その身体で、随分と重い拳を打つ」
「あなたほどではありません」
「なら、確かめてみろ」
ヴァルドが再び前へ出る。
俺も退かなかった。
左拳を腕で受け、右拳を胸元へ返す。
ヴァルドの拳が俺の肩へ当たり、俺の拳がヴァルドの腹部へ沈む。
互いに一歩も引かず、近い距離で拳を繋ぐ。
ヴァルドの右拳が頬へ迫る。
首を傾けて外し、左拳を顎へ跳ね上げた。
頭が後ろへ揺れる。
口元から、赤いものが散った。
それでもヴァルドは拳を止めない。
俺の脇腹へ左拳を打ち込み、身体が折れたところへ肩からぶつかってくる。
右足を後ろへ置き、《剛》で下半身を支える。
押し込まれたのは一歩だけだった。
すぐに腰を回し、ヴァルドの身体を横へ流す。
離れ際、右拳を胸元へ打ち込んだ。
ヴァルドが二歩下がる。
観客席から歓声が上がった。
その多くは、俺へ向けられたものだと思った。
だが、違った。
「まだだ、ヴァルド!」
「そこで退くな!」
名前を呼ばれたヴァルドが、口元の血を手の甲で拭う。
荒く息を吐きながら、再び前へ出た。
胸元には俺の拳を受けた跡が残り、左の脇腹を僅かに庇っている。
効いていないわけではない。
痛みを感じていないわけでもない。
それでも、足を止めようとしなかった。
『あの人、まだ前へ出るつもりよ』
「分かっている」
ヴァルドの足が円へ入る。
右肩が沈む。
俺は左へ回り、伸びてきた拳を外した。
脇腹へ右拳を打ち込む。
ヴァルドが息を詰まらせる。
それでも左拳が返ってくる。
腕で流し、胸元へ左の掌を叩き込んだ。
身体が後ろへ傾く。
倒れない。
踏み直し、また前へ出る。
拳を当てるたび、動きは僅かに鈍っている。
呼吸も荒くなっている。
それでも、ヴァルドの目から戦う意志だけは消えなかった。
このまま続ければ勝てる。
そう思った。
同時に、ヴァルドが吼えた。
「おおっ!」
正面から大きく踏み込んでくる。
左拳が顔へ伸びる。
円の内側に入った肩と腰の動きが、次に来る攻撃を教えていた。
右へ外す。
拳が頬の横を通り過ぎた。
ヴァルドの顎が、完全に開く。
右腕へ巡らせていた火属性を強めた。
これまでと同じ《剛》では、止まらない。
なら、さらに強く打ち込めばいい。
右足で砂を踏む。
腰を回す。
拳を顎へ届かせる。
そこまでの動きが、一つに繋がる。
拳が届く寸前、ヴァルドと目が合った。
口元から血を流し、息を乱しながらも、その目は閉じられていない。
俺の拳を受けても、さらに前へ出るつもりでいる。
このまま《剛》を乗せた拳を振り抜けば、顎が跳ね上がる。
意識を奪える。
だが、それだけで済むのか。
これまでに受けた傷がある。
その上から、魔物を打ち倒すために使ってきた力を、人間の急所へ叩き込む。
首が折れるかもしれない。
命を奪ってしまうかもしれない。
――この人を、殺めてしまう。
その考えが過ぎった瞬間、右腕を巡っていた火属性が弱まった。
拳はヴァルドの顎へ届く。
だが、振り抜けない。
鈍い音が鳴り、ヴァルドの顔が横へ向く。
それでも、足は止まらなかった。
ヴァルドの左拳が、俺の腹部へ突き刺さる。
「がっ……!」
肺から空気が押し出される。
身体が折れたところへ、額が肩へ押しつけられた。
そのまま前へ押し込まれる。
右足を後ろへ置く。
砂が靴底の下で深く削れた。
止められない。
ヴァルドは血を流している。
呼吸も乱れている。
それでも、俺を押す力は緩まない。
両腕で肩を押し返し、横へ抜けようとする。
ヴァルドの左腕が進路を塞いだ。
右拳が飛んでくる。
見えている。
腕を上げて受け止める。
すぐに脇腹が空いた。
打ち返せる。
だが、そこへ拳を入れれば、さらに傷を重ねることになる。
一瞬、腕が止まった。
ヴァルドは止まらない。
左拳が胸元へ当たり、右肩が両腕へぶつかる。
また一歩、後ろへ押される。
意識していた円も、俺と一緒に後ろへ下がっていた。
攻撃は見えている。
どこへ拳を返せばいいのかも分かる。
それでも、ヴァルドの身体へ残る傷が目に入るたび、拳を振り切れない。
白い線が踵へ触れた。
後ろには、もう砂がない。
《瞬》で左へ抜けようとする。
だが、動き始めるより早く、ヴァルドの左足が斜め前へ置かれた。
逃げる方向を、身体ごと塞がれる。
正面から、ヴァルドの肩がぶつかった。
両腕を重ねて受け止める。
《剛》で足腰を固めようとしたときには、右足が白い線の外へ出ていた。
靴底が石床を踏む。
残った左足も、押し込まれた身体を支えきれずに砂を離れた。
「そこまで!」
審判の声が響く。
ヴァルドが、俺の身体から離れる。
「場外。勝者、ヴァルド・ローデン!」
観客席が大きく揺れた。
ヴァルドは二歩だけ試合場の中央へ戻り、その場で片膝をついた。
片手を砂へ置き、荒い呼吸を繰り返している。
俺の拳は、確かに届いていた。
効いてもいた。
それでも、試合が終わるまでヴァルドは止まらなかった。
白い線を跨ぎ、試合場へ戻る。
「ありがとうございました」
一礼すると、ヴァルドがゆっくり立ち上がった。
口元の血を拭い、俺を見る。
「最後の拳、止めたな」
「……あのまま打てば、あなたを殺めてしまうかもしれないと思いました」
「そうか」
ヴァルドは短く答え、乱れた呼吸を整える。
「俺は、止まるつもりがなかった」
「分かっています」
「なら、今日は俺の勝ちだ」
「はい。俺の負けです」
ヴァルドが右拳を差し出す。
俺も拳を合わせた。
硬い拳だった。
何度傷ついても、この場所へ立ち続けてきた者の拳だった。
係員と治療師がヴァルドへ駆け寄ってくる。
俺は先に試合場を下り、壁際へ戻った。
『円は通じていたわ』
「ああ」
『攻撃も、あなたの方が多く当てていた』
「それでも、最後に拳を止めたのは俺だ」
『殴られることが、怖かったの?』
「違う」
腹部に残る痛みよりも、拳を振り切れなかった感触の方が強く残っている。
「人を殺めてしまうことが、怖かった」
魔物であれば、迷わなかった。
倒れるまで攻撃し、息の根を止めることにも躊躇はない。
だが、ヴァルドは敵ではない。
互いの力を競うため、同じ試合場へ立った人間だ。
どこまで打てば倒せるのか。
どこから先が、命を奪う力になるのか。
その境目を、俺は知らなかった。
『あの人を殺したくなかったことまで、間違いだとは思わないわ』
「ああ。だが、殺さずに止めることもできなかった」
円は、ヴァルドの動きを捉えていた。
《瞬》も《剛》も通じていた。
拳も、狙った場所へ届いていた。
それでも、届いた先で退かなかったヴァルドに、俺は気圧された。
足りなかったのは、拳を届かせる方法ではない。
人を殺めず、それでも確実に倒し切るための経験だった。




