第75話 選ばせる一歩
大柄な男が、砂を蹴って前へ出る。
名はガルバ・ドルス。太い両腕を顔の前へ上げ、身体を小さく揺らしながら長身の男との距離を詰めていく。
対するルキウス・レナートは、右足を引いたまま動かない。
ガルバの拳が届く直前、前へ向けていた左脚が持ち上がった。
足裏が胸元へ突き出される。
ガルバは両腕を重ねて前蹴りを受け止めた。身体が僅かに後ろへ押される。それでもすぐに踏み直し、逃げるルキウスを追った。
右へ回れば、右脚の蹴りが進路を塞ぐ。
左へ動けば、ルキウスも同じだけ左へ動く。
正面から近づけば、再び前蹴りが伸びてくる。
ガルバは何度蹴られても足を止めず、少しずつルキウスを白い線へ追い込んでいった。
『あの人、押されているように見えるけれど……』
「いや。下がる場所を選んでいる」
ルキウスは、ただ距離を取っているわけではない。
ガルバが右へ出れば蹴りで止め、左側にだけ進める場所を残す。ガルバがそこへ足を置くと、同じ方向へ一歩下がり、再び右側を蹴りで塞ぐ。
追っているのは、ガルバだ。
だが、ガルバがどこへ足を置くのかは、ルキウスが決めている。
白い線まで残り二歩。
ガルバが勝負を決めようと、大きく踏み込んだ。
ルキウスは、初めて左側を空ける。
逃げ道を塞ごうとしたガルバが、迷わずそちらへ足を置いた。
その瞬間、ルキウスの身体が反対側へ回る。
軸足を入れ替え、長い右脚を横から振り抜いた。
蹴りはガルバの腕へ当たった。
防いでいる。
だが、前へ重心を傾けていた大柄な身体は、横から加わった力を受け止めきれない。
ガルバの右足が白い線を越え、続く左足も石床へ落ちた。
「そこまで! 場外。勝者、ルキウス・レナート!」
ガルバが悔しそうに息を吐き、ルキウスは上げていた右脚を静かに下ろす。
最後の蹴りだけを見れば、ガルバが力負けしたようにも見える。
だが、勝負はそれより前に決まっていた。
ルキウスが空けた場所へガルバが踏み込んだ時点で、蹴りを受けた後に足を置ける場所は、白い線の外にしか残っていなかった。
『足を置かせたのね』
「ああ。攻撃が当たるより前に」
マリウスの言葉を思い返す。
足を置き、視線を向け、隙を見せて、入る場所を選ばせる。
ただ待つのではない。
相手が自分で選んだと思える場所を残し、その先へ立つ。
審判が手元の板へ結果を書き込み、次の対戦者を呼び上げた。
「予選第三組、第三試合。レグルス・クレハルト。ガルバ・ドルス。試合場へ」
立ち上がり、試合場へ向かう。
白い線を跨いだところで、先ほど場外へ落ちたガルバと向かい合った。
近くで見ると、やはり大きい。
肩幅は俺の倍近くあり、握った拳も一回り以上違う。短く刈り込まれた黒髪の下で、太い眉が僅かに寄っていた。
「互いに一敗か」
「はい」
「なら、ここで負ければ後がなくなるな」
ガルバが両拳を打ち合わせる。
「悪いが、譲るつもりはない」
「俺もです」
両拳を上げ、足を前後へ開く。
先ほどと同じように、自分を中心とした円を意識する。
だが、そこへ入ってくるガルバを待たない。
円の外側にある足の向きと、視線を見る。
審判が右腕を上げた。
「始め!」
開始と同時に、ガルバの身体から魔力が立ち上る。
両脚を巡った魔力が腰から背中へ昇り、太い腕へ流れ込んだ。
一歩目から速い。
砂が大きく弾け、ガルバが正面から円を踏み越える。
右拳が、俺の顔へ迫った。
左腕を立て、拳を外側へ流す。
重い。
受けた腕ごと身体が押される。
ガルバは止まらない。
左拳を腹部へ打ち込み、俺が肘を下げると、右肩を前へ突き出した。
咄嗟に両腕を胸の前へ重ねる。
大柄な身体がぶつかった。
「ぐっ……!」
足の裏が砂を削り、二歩分押し戻される。
追ってきたガルバの拳を、上体を傾けてかわす。耳元で風が鳴った。
すぐに右拳を脇腹へ返す。
だが、ガルバは左腕を下げ、肘で拳を受け止めた。
硬い筋肉に阻まれ、拳が僅かに沈んだだけで止まる。
頭上に影が落ちた。
振り下ろされた左拳を、後ろへ跳んで避ける。
拳が砂へ叩きつけられ、低い音とともに細かな粒が舞い上がった。
『マリウスとは、まるで違う相手ね』
「考える時間を与えるつもりがないらしい」
マリウスは円の外から俺の反応を見た。
ガルバは円ごと押し潰すように前へ出てくる。
それでも、力任せではない。
顔へ拳を見せて腕を上げさせ、空いた腹部を打つ。腹部を守れば、両腕ごと肩で押し込む。
一つを防がせ、次が届く場所を作っている。
なら、俺も相手が選ぶ場所を作る。
右足を半歩後ろへ引き、左の脇腹を僅かに開ける。
同時に、左肩へ視線を向けた。
ここへ打て。
ガルバの目が、開けた脇腹へ一瞬だけ落ちる。
来る。
左腕を下げ、拳を流す準備をする。
だが、ガルバの右拳は脇腹へ向かわなかった。
真っ直ぐ、顔へ伸びてくる。
「っ……!」
慌てて腕を上げる。
拳が前腕へ激突し、骨まで響く衝撃が走った。
防いだ腕が顔へ押しつけられ、視界が塞がる。
直後、ガルバの左拳が腹部へ突き刺さった。
「がっ……!」
息が漏れる。
身体を折る前に、肩が胸元へぶつかった。
踏み止まれない。
砂の上を滑り、右足を大きく後ろへ置く。
ガルバは追撃せず、両拳を上げたまま俺の動きを見ていた。
脇腹を開ければ、そこへ打ってくる。
そう考えた時点で、また自分の中にいる相手を見ていた。
今の俺がしたのは、選ばせることではない。
自分から守りを薄くし、ただ殴られやすくしただけだ。
相手がそこを選ぶ理由がなければ、隙は誘いにはならない。
「……もう一度だ」
呼吸を整え、腹部の痛みを押し込める。
魔力円環の流れを強めた。
水属性が全身を巡り、意識と身体の間にあった僅かな遅れが消えていく。
身体強化《瞬》。
先に動く。
左足を踏み込み、短い拳をガルバの顔へ放つ。
ガルバが右腕で受け止めた。
拳を戻しながら、右へ一歩ずれる。
すぐに、もう一度踏み込む。
今度は右拳。
顔を狙った拳を、ガルバが左腕で弾く。
空いた腹部へ拳を繋ごうとするが、ガルバは肘を下げて進路を塞いだ。
深追いせず、右足を外側へ置く。
ガルバが身体の正面を合わせてくる。
俺は再び顔へ拳を伸ばした。
受けられる。
それでいい。
ガルバの足を止めるほどの威力はない。
それでも、顔へ拳が来れば腕を上げる。俺が右へ動けば、正面へ捉えるため左足を動かす。
一つずつ、ガルバ自身に選ばせる。
左拳。
右へ一歩。
右拳。
さらに右へ。
同じ動きを繰り返すたび、試合場の景色が少しずつ横へ流れる。
ガルバは二度目の右拳を弾くと、俺が次に移動する場所へ先回りするように左足を踏み出した。
俺の正面を塞ぎ、右拳を振るう。
上体を沈め、拳の下を潜る。
脇腹へ短く拳を当てた。
「ぬっ……!」
浅い。
だが、初めてまともに届いた。
ガルバが左肘を振り下ろす前に、外側へ離れる。
追ってくる足音が、先ほどよりも近い。
顔を狙われれば守る。
横へ回られれば、先に進路を塞ぐ。
そうすれば、俺を再び正面から押し込める。
ガルバは、今の攻防でそれが通じると判断した。
白い線が視界の端へ入る。
俺が右へ回り続けたことで、いつの間にか試合場の外周が背後へ近づいていた。
残りは三歩。
ガルバも気づいている。
口元が僅かに上がった。
追い詰めたと思っている。
左拳を顔へ放つ。
ガルバが右腕で弾き、俺の右側へ左足を置いた。
逃げ道を塞ぐ足。
俺は右へ動かず、その場で右拳を伸ばす。
ガルバは左腕を上げ、顔を守った。
両腕が上がる。
腹部が空く。
俺は一歩だけ後ろへ下がり、そこへ視線を向けた。
白い線まで、残り二歩。
ガルバの目が細くなる。
先ほど、俺が脇腹を開けたときとは違う。
顔への拳を何度も受けさせた。
横へ逃げようとする動きも見せた。
その進路を、自分の足で塞がせた。
今、ガルバの正面には、腕を上げたことで空いた俺の胴体がある。
そこへ踏み込めば、もう一度俺を場外まで押し切れる。
選ばない理由がない。
「おおっ!」
ガルバが吼えた。
右足が深く砂を抉り、大柄な身体が前へ出る。
右拳ではない。
両腕を胸の前へ重ね、肩から俺を押し出すつもりだ。
想定していた攻撃とは違う。
それでも、入ってきた場所は同じだった。
ガルバの肩が触れる直前、左足を斜め前へ踏み出す。
《瞬》で身体を加速させ、正面から外れる。
左腕をガルバの右腕へ添える。
右の掌を、肩の後ろへ当てた。
押し返さない。
腰を回し、前へ進む力の向きだけを外側へ変える。
ガルバの身体が俺の横を通り過ぎた。
だが、ガルバも簡単には崩れない。
左足を砂へ突き立て、白い線の手前で踏み止まる。
前へ流れていた身体が止まり、太い右腕が俺を掴もうと伸びてくる。
俺は離れない。
ガルバの右腕を左脇へ抱え、背中へ肩を当てる。
刃へ力を届けるため、何度も繰り返してきた足運び。
後ろ足で砂を踏み、腰を回し、肩へ繋ぐ。
今度は、その力を目の前の身体へ届けた。
「っ……!」
ガルバの左足が、白い線を越える。
石床へ靴底が落ちた。
残った右足で耐えようとするが、砂と石の境目で重心が揺れる。
もう一度、足から肩へ力を通す。
右足も線の外へ出た。
「そこまで!」
審判の声と同時に、力を抜く。
ガルバが石床へ片膝をつき、荒い息を吐いた。
「場外。勝者、レグルス・クレハルト!」
観客席から歓声が上がる。
俺も息を吐き、両腕を下ろした。
拳で倒したわけではない。
力で押し勝ったわけでもない。
ガルバが自分で選んだ一歩を、白い線の外へ繋げただけだ。
だが、その一歩を選ばせるまでに、何度も拳を見せ、足を動かし、進路を塞がせた。
最初に脇腹を開けたときとは違う。
偶然ではない。
そう思った直後、自分の考えを打ち消す。
一度できただけだ。
ガルバが最後に拳ではなく肩を選んだように、相手は俺の想定どおりには動かない。
今回は、入る場所だけが合っていた。
次も同じようにできるとは限らなかった。
「ありがとうございました」
試合場へ戻って一礼する。
立ち上がったガルバは、悔しそうに白い線を見た後、俺へ向き直った。
「追い詰めたつもりだった」
「俺も、そう見えるように下がりました」
「そうか。なら、次は途中で止まる」
「そのときは、別の方法を考えます」
ガルバが僅かに口元を緩める。
「子供の顔で、面倒なことを言う」
大きな掌で肩を一度叩かれた。
衝撃で身体が少し傾く。
ガルバは気にした様子もなく、先に試合場を下りていった。
『今度は、相手が入ってくるのを待ったんじゃない。あなたが、そこへ入らせたのね』
「一度だけだ。次も同じように動いてくれるとは限らない」
『ええ。でも、最初の一度がなければ、二度目もないわ』
待機場所へ戻ると、マリウスが壁際に立っていた。
両手に巻いた布を解き、締め直している。
「二戦目は勝てたのか」
「はい。場外でしたが」
「そうか」
マリウスはそれ以上尋ねず、布の端を手首へ押し込んだ。
「次は、あなたの試合ですね」
「ああ」
係員に呼ばれ、マリウスが試合場へ向かう。
相手は、先ほど長い脚でガルバを場外へ押し出したルキウスだった。
ルキウスの蹴りが届く場所は、俺やマリウスの拳よりも遠い。
その外側から、前蹴りと横蹴りで近づく場所を塞いでいく。
だが、マリウスは無理に踏み込まなかった。
入るふりをし、蹴りを誘い、足が戻る前に半歩だけ距離を詰める。
それを何度も繰り返し、最後はルキウスの蹴り足を腕で抱え、そのまま軸足を払った。
倒れたルキウスの胸元へ拳を止め、審判が勝敗を告げる。
マリウスの二勝目。
ガルバは二敗。
俺とルキウスは一勝一敗。
最後に直接戦い、勝った方が本戦へ進む。
「予選第三組、第五試合。レグルス・クレハルト。ルキウス・レナート。試合場へ」
再び、白い線を跨ぐ。
ルキウスは先ほどと同じように右足を引き、長い左脚を前へ置いた。
向かい合っただけで分かる。
俺の拳が届く円の外側に、ルキウスの蹴りが届く円がある。
俺が一歩踏み込む間に、向こうの足は俺の身体へ届く。
「始め!」
開始から、ルキウスは俺の拳が届かない位置を崩さなかった。
最初の前蹴りは両腕で受けた。外側へ回ろうとした二度目は太腿を蹴られ、足を流そうとした三度目は、途中で軌道を変えられて脇腹へ受けた。
ルキウスも、先ほどの試合を見ている。
俺が空けた場所へ簡単には入らず、踏み込もうとするたび、長い脚で動きを止めてきた。
俺の拳が届く円。
その外側に、ルキウスの蹴りが届く円がある。
自分の円を届かせようとする限り、一歩目を蹴りで止められる。
ならば、先に向こうの円へ入る。
拳を上げたまま、前へ半歩だけ出た。
こちらの拳は届かない。だが、ルキウスの前蹴りなら届く場所だ。
左脚が持ち上がる。
先ほどまでなら、蹴りが来てから身体を動かしていた。
今は、その蹴りを出させるために、俺がここへ立った。
足裏が胸元へ伸びてくる。
《瞬》で身体を前へ運びながら蹴り足を外側へ流し、ルキウスの軸足の外へ右足を置く。
初めて、二つの円が重なった。
短い右拳を腹部へ打ち込み、下がる先へ左足を置く。距離を離さず拳を繋ぐと、ルキウスは空間を作ろうと再び左脚を浮かせた。
その瞬間、軸足へ右足を掛ける。
肩を押し、足を払った。
長身が砂の上へ倒れ、俺は胸元へ右拳を止めた。
「そこまで!」
審判の声が響く。
「続行不能。勝者、レグルス・クレハルト!」
拳を引き、ルキウスへ手を差し出す。
ルキウスはその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「自分から蹴られる場所へ入ってきたか」
「蹴りたくなる場所へ立ったつもりでした」
「それを本人へ言うか」
「今回は蹴ってくれましたが、次も同じとは限りませんから」
ルキウスは一瞬だけ目を丸くした後、小さく笑った。
「次は、蹴らずに殴ってやる」
「そのときは、殴られない方法を考えます」
一礼し、試合場を下りる。
その後の最終試合では、マリウスがガルバを下した。
予選第三組の結果は、マリウスが三勝。俺が二勝一敗。ルキウスが一勝二敗。ガルバが三敗。
上位二名として、マリウスと俺の本戦進出が決まった。
『初戦で負けたときは、どうなることかと思ったけれど、予選は抜けられたわね』
「マリウスに勝ったわけじゃない。それに、二人が俺の狙った場所へ動いてくれたから勝てただけだ」
『それでも、選ばせるために何をすればいいのかは、少し分かったのでしょう?』
「ああ。隙を見せるだけじゃ足りない。相手がそこへ入りたくなる理由まで作らなければならない」
試合場脇に置かれた板へ、本戦進出者の名前が書き加えられていく。
俺の名が記されたとき、周囲にいた何人かの出場者がこちらを見た。
予選を終えた者。
これから予選を戦う者。
その中には、俺がガルバを場外へ誘った試合を見ていた者もいる。
『次は、あなたが想定される側になるのね』
「ああ」
相手を動かすだけでは足りない。
こちらの狙いを読まれたうえで、それでも選ばせなければならない。
予選を抜けて、ようやく本当の対人戦が始まる。




