第74話 描いた円の外
三日後。
帝都の南部に建つ帝都闘技場は、元老院闘技場ほど大きくはない。
それでも、月例徒手大会の開始を待つ観客で、円形の観客席は半分以上が埋まっていた。
石床の中央には、細かな砂を敷き詰めた円形の試合場がある。その外周を囲む白い線が、場内と場外の境目だ。
元老院闘技場にあった張り詰めた空気はない。
代わりに満ちているのは、出場者を呼ぶ係員の声と、身体を打ち合う音。汗や砂、治療に使われる薬草の匂いだった。
『随分と賑やかな大会ね』
「帝国中から参加者が集まるらしいからな」
三日前、締め切り間際に登録を済ませてから、俺はリヴィアの屋敷で修練を続けた。
右腕の痛みは、翌日にはほとんど消えていた。
だが、《水浸【アクア・インフーシオ】》の制御はまだ安定していない。
水属性を肩で止めることはできる。肘までも届かせられるようになった。だが、手首や掌まで流すと、僅かな意識の乱れで指先へ抜けてしまう。
今朝も、屋敷を出る前にリヴィアから念を押された。
「《水浸》と《獅子琉掌》は使うな。《獅吼爆炎》もだ」
「分かっています」
「なら、行ってこい。勝敗ではなく、自分が何を見ていたのか。それを忘れずに戻ってこい」
使えるのは、魔力円環による身体強化と各種属性による強化。あとは、この三日間で繰り返した足運びと、拳や蹴りだけだ。
不安がないわけではない。
それでも、新しく作った技を試したいとは思わなかった。
今の俺に必要なのは、威力ではない。
相手の攻撃が届く場所へ立ち、そこから自分の拳を届かせることだ。
「予選第三組の出場者は、集合してください!」
係員の声を受け、壁際から離れる。
予選は四人一組の総当たり戦。三試合を終えた時点で、勝ち数の多い上位二名が本戦へ進む。
勝敗は降参、戦闘不能、場外。加えて、審判が続行不可能と判断した場合にも決着となる。
一度負ければ終わりではない。
リヴィアが、一度や二度負けた程度で落ち込むなと言った意味が、登録したときにようやく分かった。
呼ばれた四人が、試合場脇へ集まる。
俺以外は全員、二十代を越えているように見えた。
太い腕を胸の前で組んだ大柄な男。両脚へ薄い防具を巻いた長身の男。そして、擦り切れた布を両手へ巻いた細身の男。
審判が手元の板へ視線を落とす。
「予選第三組、第一試合。レグルス・クレハルト。マリウス・セヴェル。試合場へ」
俺と同時に、細身の男が前へ出た。
年齢は三十歳前後。短く切った灰褐色の髪に、目立つ傷も、盛り上がった筋肉もない。
だが、砂の上へ足を置いた瞬間、その印象が変わった。
膝を僅かに緩め、左右の足へ均等に重さを乗せている。構えているようには見えないのに、どの方向へも動ける立ち方だった。
マリウスが俺の前で立ち止まる。
「月例大会では見ない顔だな。初参加か」
「はい。胸を借ります」
「それは試合が終わってから決めろ。俺の方が借りることになるかもしれん」
軽口を叩く声に、侮りは感じられない。
俺も両拳を上げ、リヴィアから教わった構えを取る。
審判が、俺たちの間へ進み出た。
「射出型の攻撃魔法、および殺傷性が高いと判断される技は禁止。身体強化と、接触を前提とした魔力の使用は認める。双方、異論はないか」
「ありません」
「ない」
審判が後方へ下がり、右腕を上げる。
「始め!」
腕が振り下ろされる。
マリウスは動かない。
俺も、すぐには踏み込まなかった。
呼吸を整え、自分を中心に円を描く。
僅かに踏み込み、拳を伸ばせば届く範囲。
目に見える線ではない。
だが、意識の中で明確に形を作れば、相手がどこから間合いへ入っても身体を動かせる。
正面に立つマリウスの足先が、円の外周へ触れる。
左肩が僅かに沈んだ。
来る。
俺は左足を斜め前へ置き、伸びてくる拳の外側へ回ろうとする。
だが、マリウスの足は砂を撫でただけだった。
沈んだ肩も、すぐに元の位置へ戻る。
攻撃は来ない。
動き始めていた俺だけが、左足を戻す。
「……」
マリウスは何も言わず、円の外側を横へ歩く。
俺も身体の正面を合わせる。
再び、左肩が沈んだ。
先ほどと同じ動き。
今度は反応しない。
そう判断した瞬間、マリウスの足が円を越えた。
一歩で距離を詰め、左拳を俺の顔へ伸ばす。
身体を右へ傾けてかわす。
拳が頬の横を通り過ぎた。
右の拳を腹部へ返そうとする。
だが、そこにマリウスはいなかった。
左拳を放った勢いを残さず、円の外へ戻っている。
俺の拳が空を切った。
『試されているわね』
「ああ」
返事をした直後、マリウスが再び踏み込む。
今度は肩が動かない。
右足が、真っ直ぐ円の内側へ入ってきた。
拳ではなく、足元を狙った蹴り。
左脚を浮かせ、脛で受ける。
軽い。
蹴りを止められたマリウスは、右足を引かず、そのまま地面へ下ろした。
外側へ向いていた腰が正面へ戻る。
その動きに隠れて、左拳が伸びてきた。
腕で受け止める。
鈍い衝撃。
防いだはずの俺の身体が、半歩だけ後ろへずれた。
マリウスは追ってこない。
すぐに円の外へ戻り、俺の反応を見ている。
一度目は、入るふり。
二度目は、同じ動きから拳。
三度目は、違う動きから蹴りと拳。
円へ入った瞬間に攻撃するという点は同じでも、その前も、その後も同じではない。
分かっていたはずだった。
魔物とは違い、人間は考えて動く。
相手もこちらを見て、反応を変える。
それでも、意識の中に円を描けば対応できると思っていた。
相手が円へ入れば、攻撃が来る。
拳なら外へ回り、蹴りなら受け、空いた場所へ打ち返す。
いくつかの動きを想定し、その中から選べばいいと考えていた。
だが、マリウスは、その前提から揺さぶってくる。
入るのか。
入らないのか。
どこまで入るのか。
何を見せて、何を打つのか。
選んでいるのは、俺ではない。
マリウスだ。
円の縁で、右足が砂を擦る。
俺は動かない。
左肩が沈む。
先ほどと同じだ。
それでも決めつけず、足、腰、肩を見る。
マリウスが円へ入る。
左拳。
俺は外側へ踏み出し、腕で拳を流す。
腰を回し、右拳を脇腹へ放った。
今度は届く。
そう思った瞬間、マリウスの左足が僅かに沈んだ。
身体が、拳一つ分だけ後ろへずれる。
俺の拳は、服の表面を掠めただけだった。
伸びきった右腕へ、マリウスの掌が添えられる。
押されたわけではない。
だが、戻そうとした腕の軌道を僅かに外へ向けられ、肩が開く。
無防備になった胸元へ、短い拳が打ち込まれた。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
追撃を警戒し、後ろへ下がる。
マリウスは一歩だけ前へ出た後、再び距離を取った。
強い一撃ではない。
身体強化を使えば、耐えられる程度の威力だ。
それでも、こちらの拳は届かず、向こうの拳だけが届いている。
胸元に残る痛みより、その事実の方が重かった。
魔力円環の流れを強める。
水属性を全身へ巡らせ、神経と筋肉の繋がりを整える。
身体強化《瞬》。
意識に身体が遅れなくなる。
次にマリウスの足が円へ触れた瞬間、俺は先に踏み込んだ。
待つだけでは、同じことを繰り返す。
こちらから距離を詰め、相手が動ける場所を狭める。
右拳を顔へ向けて放つ。
マリウスが左へかわす。
その動きに合わせ、左足を前へ置く。
退く先を塞いだ。
すぐに腰を回し、左拳を腹部へ繋ぐ。
マリウスの両腕が下がった。
防ぐ。
そう判断し、拳をさらに前へ押し込む。
だが、マリウスは腕を交差させなかった。
俺の左腕の内側へ右腕を差し入れ、自分から胸が触れるほど深く踏み込んでくる。
近すぎる。
拳を振るう場所がない。
想定していなかった距離だった。
マリウスの左手が俺の肩へ触れる。
右腕が肘を下から持ち上げる。
上体を起こされ、重心が踵へ移った。
立て直そうと足へ力を込める。
その足首へ、マリウスの右足が絡んだ。
視界が傾く。
腰を回し、倒される前に身体を捻る。
砂を踏み直すことには成功した。
だが、着地した足のすぐ後ろに、白い線がある。
いつの間にか、試合場の端まで下がらされていた。
マリウスが追ってくる。
俺は前へ戻ろうと、左足を踏み出した。
その瞬間、マリウスの視線が俺の胸元へ落ちる。
拳が来る。
腕を下げた。
だが、マリウスの拳は放たれない。
視線だけだった。
代わりに肩を押され、残っていた右足が白い線の外へ出る。
さらに踏み止まろうとした左足も、砂のない石床を踏んだ。
「そこまで!」
審判の声が響く。
マリウスが、俺の肩から手を離した。
「場外。勝者、マリウス・セヴェル!」
観客席から歓声が上がる。
試合は終わった。
大きな技を受けたわけではない。
立てなくなるほどの傷もない。
それでも、俺は一度もまともに拳を当てられないまま負けた。
白い線を跨ぎ、試合場の中へ戻る。
「ありがとうございました」
一礼すると、マリウスも軽く頭を下げた。
「頭の中に、自分の間合いを示す円でも描いていたのか」
顔を上げる。
「なぜ、分かったんですか」
「俺が一定の距離へ入った瞬間だけ、お前の重心が動いた。そこから先は速かったが、動き出す場所が毎回同じなら分かる」
マリウスは、試合場の砂へ靴先で短い線を引いた。
「一度目で癖に気づいた。二度目で確かめた。後は、入るふりをするか、違う場所から入ればいい」
「俺は、円の中へ入ったあなたへ対応していたつもりでした」
「対応はしていた。だが、お前は俺が円へ入るのを待っていた」
マリウスの靴先が、引いた線を消す。
「だから、入る場所も、入る瞬間も、俺が選べた」
リヴィアに言われたことと同じだった。
足が速ければ、相手に触れられるわけではない。
相手の動きを誘い、自分の攻撃が届く場所へ立つ。
その意味を理解したつもりでいた。
だが、俺がしていたのは、相手が円へ入るのを待つことだけだった。
「円を意識することが、間違っていたんでしょうか」
「いや。自分が届く場所を知るのは大事だ。だが、その線はお前の都合で引いたものだ」
マリウスが俺を見る。
「相手が、その都合に付き合う理由はない」
短い言葉が、胸へ突き刺さる。
「円を描くなら、相手がどう入るかを待つだけじゃ足りん。足を置き、視線を向け、隙を見せて、入る場所を選ばせろ。でなければ、お前はいつまでも相手が作った流れの中で動くことになる」
「……はい。覚えておきます」
「次もあるんだろう。覚えているだけで終わらせるな」
マリウスはそれだけ告げ、先に試合場を下りた。
俺も予選第三組の待機場所へ戻る。
『完敗だったわね』
「ああ」
『でも、円を描いたことが無駄だったわけではないのでしょう?』
「円があったから、攻撃へ反応することはできた。ただ、俺はその中へ入ってくる動きばかりを見ていた」
マリウスの足も、肩も、拳も見ていた。
だが、それらを自分が想定した攻撃へ当てはめていただけだった。
入れば攻撃する。
退けば追う。
防げば次へ繋ぐ。
頭の中で用意した相手なら、それでよかった。
実際の相手は、入るふりをし、退くと見せて懐へ入り、防ぐと見せて身体を崩してきた。
『あなたはマリウスと戦っていたんじゃない。自分の中で想定した相手と戦っていたのね』
「そのとおりだ」
対人戦の想定が、あまりにも甘かった。
魔物も、考えて動く。
逃げることもあれば、獲物を誘うこともある。
それでも、多くの魔物は牙や爪を届かせるため、最後には自分から踏み込んでくる。
人間は違う。
踏み込まずに反応を引き出し、こちらが動いた後から攻撃を選べる。
今の俺は、円を意識することに集中するあまり、その外側で行われていた駆け引きを見ていなかった。
試合場では、予選第三組の次の二人が向かい合っている。
俺よりも一回り大きな男が、両腕を上げる。
向かいに立つ長身の男は、構えを取らないまま、僅かに右足を引いた。
どちらが先に円へ入るのか。
先ほどまでの俺なら、そこだけを見ていた。
今は、その前に交わされている視線と、足の向き、呼吸の変化を見る。
一敗した。
だが、予選はまだ二試合残っている。
円を消す必要はない。
その中へ入ってくる相手を待つのではなく、こちらから相手を動かし、入る場所を選ばせる。
次は、想定どおりに動く相手を待たない。
目の前にいる相手と戦う。
審判が開始を告げる。
俺は、二人の動きを一つも見落とさないよう、試合場を見つめた。




