第71話 巡る魔力
俺は一人、リヴィアの屋敷を出た。
腰には、兄から渡された古い片手剣。その後ろには、いつものようにセレスを吊るしている。
朝の帝都は、すでに動き始めていた。
石畳を行き交う荷馬車。店先へ商品を並べる商人。大通りの向こうからは、鍛錬に励む者たちの掛け声が聞こえてくる。
その中を帝都ギルドへ向かって歩きながら、腹へ意識を落とす。
ごく僅かな無属性の魔力が、腹を起点として両脚へ流れ、腰へ戻る。そこから背中を上り、肩を通って両腕へ分かれ、胸から再び腹へ戻ってくる。
強く流す必要はない。
細く、途切れさせず、円環を描くように。
屋敷を出る直前、リヴィアから掛けられた言葉を思い返す。
「レグルス」
「はい」
「上を目指し、いずれ兄を超えたければ、魔力の流れを止めるな」
「流し続けるんですか」
「ああ。僅かで構わん。命脈へ沿わせ、円環を描くように体内を巡らせておけ」
「修練をしていない時も?」
「歩いている時も、食事をしている時も、身体を休めている時もだ。最初は意識して構わん。だが、いずれは呼吸と同じものにしろ」
「なぜ、そこまで続ける必要があるんですか」
「魔力で身体を強くするためではない。眠っている命脈を目覚めさせるためだ」
リヴィアはそう言いながら、二本の指を俺の腹へ軽く当てた。
「魔力を命脈へ沿わせ、絶えず巡らせる。それを続ければ、命脈は少しずつ活性化する」
「活性化すれば、どうなるんですか」
「魔力の下へ埋もれている、お前自身の力へ手が届く」
「俺自身の力……」
「今、言葉だけで教えても意味はない。自分の身体で感じ取れ」
リヴィアの指が腹から離れる。
「それと、勘違いするな。魔物は、お前の修練のためにいるわけではない」
「分かっています。依頼として討伐します」
「なら行け。今のお前が何を掴んだのか、生きた相手の前で確かめてこい」
意識を現在へ戻す。
腹を巡る魔力は、まだ止まっていない。
右足を踏み出せば、流れの一部が右脚へ寄る。重心が左足へ移れば、それを追うように腰を通り、左脚へ移っていく。
外から見れば、ただ歩いているだけだ。
身体強化を発動しているわけでもない。
それでも、以前とは明らかに違う。
これまでは《速》を使うたび、風属性の魔力を両脚へ集める必要があった。《剛》なら火を、《瞬》なら水を、必要な場所へ一から流さなければならなかった。
今は、すでに全身へ道が繋がっている。
命脈を巡る無属性の魔力へ属性を重ねれば、以前よりも早く、必要な場所だけを強化できる。
『右肩のところで、少し淀んだわね』
「分かってる」
背後からセレスの声が聞こえる。
意識を右肩へ向けると、確かに僅かな魔力が留まっていた。無理に押し流さず、背中から腕へ流れる円環へ戻していく。
『でも、昨日より滑らかになっているわ。前なら、一度止めてから流し直していたもの』
「まだ意識を外せば途切れる」
『最初から呼吸のようにできる人はいないわよ』
「リヴィアならできる」
『あの人を基準にしたら、いつまで経っても満足できないでしょうね』
「その方が俺には合ってる」
『そう言うと思ったわ』
帝都の中心部へ近づくにつれ、通りを行き交う人の数が増えていく。
やがて、大通りの先に帝都ギルドが見えてきた。
暗い褐色の石を積み上げた、横に広い三階建ての建物。入口の上には、剣と杖を組み合わせたギルドの紋章が掲げられている。
扉を開けると、酒や革、防具へ塗られた油の匂いが混ざり合って鼻へ届いた。
朝にもかかわらず内部は騒がしい。
壁一面に依頼書が並び、その前では武装した冒険者たちが言葉を交わしている。奥の受付には報告を待つ者が列を作り、別の窓口では穀物の入った麻袋がいくつも運び込まれていた。
王国のギルドと役割は同じでも、帝国では冒険者にも体格のいい者が多い。剣や槍だけでなく、手甲や脚甲を身につけた者の姿も目立っていた。
受付へ近づくと、女性職員が俺の顔を見て席を立つ。
「レグルス・クレハルト様ですね」
「はい」
「ギルド長がお待ちです。こちらへどうぞ」
案内されたのは、二階の奥にある執務室だった。
扉を叩くと、すぐに中から声が返ってくる。
「どうぞ」
「失礼します」
室内は広いが、置かれている物は少なかった。
書類の積まれた机。壁際の本棚。帝都周辺の地図が貼られた掲示板。
机の向こうには、細身でやや長身の男が立っていた。
年齢は三十代後半ほど。皺一つない白いワイシャツに、黒のスラックス。上着は身につけておらず、武人が重んじられる帝国のギルド長には見えない。
目元は鋭く、顔立ちもきりっと整っている。
だが、浮かべている笑みは穏やかで、一見すれば人当たりのいい優男にも見えた。
「お待ちしていました。帝国ギルド長を務めています」
「レグルス・クレハルトです。本日はよろしくお願いします」
「リヴィア様から話は伺っています。まずは、お掛けください」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
ギルド長は机から一枚の依頼書を取り、俺の前へ置いた。
「帝都郊外の穀倉地帯に現れた、《鎧殻猪》一頭の討伐依頼です」
依頼書には、簡略化された猪の姿と、被害を受けた区域が記されていた。
「その名のとおり、頭部から背中にかけて硬い外殻を持つ魔物です。真っ直ぐ進むことしかできない魔物ですが、突進の威力は高く、木柵や荷馬車程度なら簡単に壊します」
「すでに被害が出ているんですか」
「麦畑が荒らされ、灌漑水路の一部も壊されています。幸い、農作業をしていた者たちは避難を終えており、今のところ人命への被害はありません」
「ですが、このまま放置すれば収穫に影響が出る」
「そのとおりです」
ギルド長が静かに頷く。
「誤解のないように申し上げておきます。これは、あなたの修練のために用意された魔物ではありません。正式に持ち込まれた討伐依頼です」
「分かっています」
「そのうえで、過去の討伐記録を確認し、あなたなら単独で遂行できると判断しました」
ギルド長の視線が、俺の腰に下がる片手剣へ向けられる。
「どのように戦うかは、あなたへお任せします。ただし、冒険者の仕事は技を試すことではありません。依頼を達成し、生きて戻ることです」
「無手で届かないと判断すれば、この剣を使います」
「それを聞ければ十分です」
依頼書を手に取る。
魔物を相手に、命脈闘法がどこまで通じるのか。
それを確かめたい気持ちはある。
だが、そのために被害を広げれば、本末転倒だ。
「この依頼、受けます」
「承りました」
ギルド長が机の引き出しから帝都周辺の地図を取り出し、被害が出ている場所へ印をつけた。
「穀倉地帯までは、穀物の運搬を終えて戻る荷馬車へ乗せてもらえるよう手配しています。準備ができ次第、出発してください」
「ありがとうございます」
「どうか、お気をつけて」
帝都ギルドを出た後、俺は建物の裏手に停められていた荷馬車へ乗り込んだ。
荷台には、折り畳まれた空の麻袋と木箱が積まれている。御者へ礼を告げ、その隙間へ腰を下ろした。
車輪が石畳を転がり始める。
荷馬車は大通りを抜け、帝都の外壁へ向かって進んでいった。
城門を抜けた途端、景色が大きく開ける。
最初に見えたのは、地平の先まで続く金色の麦畑だった。
乾いた風が吹き抜けるたび、実った穂が大きく揺れ、幾重もの波となって大地を渡っていく。
その間には背の低い大豆畑が広がり、さらに離れた放牧地では、ブリア牛の群れがゆっくりと草を食んでいた。
王国よりも空気は乾いている。
陽射しも強く、剥き出しになった土は淡い赤褐色をしていた。
それでも、畑の間へ張り巡らされた灌漑水路には澄んだ水が流れている。遠くには青灰色の山稜が連なり、そこから引かれた水が、この広大な農地を潤しているらしい。
帝国へ来てから、闘技場や修練場ばかりを見てきた。
元老院の席を実力で奪い合い、街中には武術を学ぶ者が溢れている。
だが、その帝国を支えているのは、剣や拳だけではない。
麦を育て、大豆を収穫し、ブリア牛を飼う者たちがいる。荷馬車へ積まれた食糧が帝都へ運ばれ、それを食べた者たちが武器を握る。
武人の国と呼ばれる帝国も、この静かな営みがなければ成り立たない。
荷馬車が土の窪みへ車輪を取られ、大きく揺れた。
反射的に腰へ力を入れる。
その瞬間、命脈を巡っていた魔力が腰と背中へ寄り、傾いた身体を支えた。揺れが収まると、集まっていた魔力が再び細い円環へ戻っていく。
『今のは自然だったわね』
「ああ」
『必要な場所へ流して、使い終わったら戻す。少しずつ形になっているわ』
「まだ考えて動かしてる」
『それでも、流れを一度も止めなかったでしょう?』
腹へ戻ってきた魔力が、再び両脚へ流れていく。
その下で、何かが一度だけ脈打った。
「……っ」
魔力とは違う。
火属性の熱でもなければ、身体強化による高揚でもない。
もっと奥深くにある、微かな温かさ。
意識を向けた時には、すでに巡る魔力の下へ埋もれ、分からなくなっていた。
『どうしたの?』
「いや……何でもない」
闘技場で見た、兄の身体を包んだ薄い揺らぎが脳裏を過る。
同じものなのかは分からない。
今はまだ、追いかけても掴めない。
それでも、身体の奥で確かに何かが動いた。
リヴィアの言葉どおり、この円環は身体強化を効率よく使うためだけのものではない。
俺の中で眠っているものを、少しずつ目覚めさせている。
荷馬車に揺られてしばらく進むと、金色の景色へ不自然な切れ目が見え始めた。
実った麦が広い範囲で押し倒され、剥き出しになった土には深い溝が刻まれている。
木柵は途中からへし折られ、灌漑水路の縁も崩れていた。流れ出した水が土と混ざり、畑の一部を濁った泥へ変えている。
荷馬車が止まった。
「俺が送れるのは、ここまでだ」
御者が前方の荒れた畑を見ながら告げる。
「十分です。ありがとうございました」
「鎧殻猪は、あの水路の先で見たのが最後らしい。畑の者は全員逃げているが、気をつけろよ」
「はい。荷馬車はここへ残さず、離れていてください」
「分かった。あんたも死ぬなよ」
荷台から下りる。
両足が地面へ触れた瞬間、円環を巡っていた魔力が自然と脚へ寄り、着地の衝撃を受け止めた。
御者が荷馬車の向きを変え、帝都の方角へ戻っていく。
俺は一人、壊れた灌漑水路に沿って歩き始めた。
踏み荒らされた土には、大きな蹄の跡が残っている。
真っ直ぐ進んだかと思えば、途中で何度も方向を変え、畑の中を無秩序に荒らしていた。
『随分と派手に暴れたようね』
「ああ。早く仕留めないと、さらに被害が広がる」
無意識に、左手が片手剣の柄へ近づく。
指先が触れる直前で止め、掌を開いた。
『抜かないの?』
「最初から使わないと決めつけるつもりはない。無手では届かないと判断すれば抜く」
『ええ。それでいいと思うわ』
「だが、その前に試す」
足跡を追い、麦畑の切れ目へ差しかかった時だった。
風とは異なる方向へ、麦の穂が揺れた。
低く、湿った唸り声が聞こえる。
押し倒された麦の奥から、黒い影が姿を現した。
額から背中までを覆う、暗い灰色の外殻。泥に汚れた殻は何枚も重なるように連なり、鎧をまとっているように見える。
口元から伸びた二本の牙が、朝の光を鈍く反射した。
鎧殻猪。
荒い息が鼻先から吐き出され、乾いた土埃が舞い上がる。
小さな目が、俺の姿を捉えた。
俺はその場へ立ち尽くさず、両掌を開いたまま右へ一歩動く。
腰は深く落とさない。
膝と足首を柔らかく保ち、足を僅かに地面から離す。右へ半歩。そこから斜め前へ一歩。
鎧殻猪の頭が、俺の動きを追って向きを変えた。
意識の中で、自分を中心とした円を置く。
目に見えるものではない。俺の拳が届く場所。
相手の牙が届く場所。踏み込ませ、攻撃線から外れ、迎え撃つための場所。
俺が動けば、円も動く。
刀は握っていない。
それでも、半身に構えた身体も、地面を捉える足の置き方も、これまで刀を振るってきた俺自身のものだった。
腹を起点に、細い魔力が命脈へ沿って巡り続ける。
両脚から腰へ。
腰から背中、肩、両腕へ。
そして再び、腹へ戻る。
動かない訓練人形ではない。
触れた先に流れを持つ、生きた相手が、金色の麦穂を踏み潰しながらこちらへ牙を向けていた。




