第70話 一撃の先
日の出とともに始まったカイウスとの修練は、すでに一刻近く続いていた。
東側の公営修練場。
朝の冷気が残る石床へ、俺の背中が叩きつけられる。
衝撃を胸から腹へ通し、身体の中を巡る魔力へ逃がす。そのまま後方へ転がり、片膝をついた。
「これで十二度目だ」
正面では、カイウスが両拳を構えたまま立っている。
兄に斬り裂かれた右の武装手甲には修復した跡が残り、その隙間から白い布が覗いていた。
「数えていたんですか」
「同じ崩され方をしているからな」
額から流れた汗を手の甲で拭い、立ち上がる。
打ち込み板へ《獅吼爆炎》を放った昨日とは違う。
カイウスは、俺が一撃を作り上げるまで待ってはくれなかった。
右足を踏み込もうとすれば、その足を先に潰される。
足裏から返ってきた力を腰へ昇らせようとすれば、肩を押されて重心を崩される。
どうにか両掌を触れさせても、《焔纏》を重ねるより先に腕を払われ、懐から抜け出される。
脚、腰、背中、両肩、掌。
昨日は一つに繋がったはずの流れが、カイウスを前にすると、その途中で寸断された。
「また最初から順番に動こうとしている」
修練場の外周に立つリヴィアが告げる。
「分かっています」
「分かっている人間は、十二度も同じ場所から地面へ落ちない」
言い返すことができない。
俺は腹へ意識を向ける。
無属性の魔力は止まっていない。
腹から両脚へ。
腰、背中、両肩、腕を通り、掌から再び腹へ戻っている。
円環そのものは保てている。
それでも《獅吼爆炎》を放とうとした瞬間、身体が昨日の手順を再現しようとしていた。
『技を出すことばかり考えているわね』
「ああ」
『カイウスではなく、自分の身体だけを見ているように見えるわ』
セレスは、それ以上何も言わなかった。
答えを教えるつもりはないらしい。
視線を上げる。
カイウスは左足を僅かに前へ置き、こちらの足元を見ていた。
拳ではない。
俺がどちらの足から動き、どこへ力を昇らせようとするのかを見ている。
昨日、俺が打ち込み板へ何度も試す姿を、カイウスも隣で見ていた。
技の始まりを知られている。
ならば、同じ形で放とうとする限り届かない。
リヴィアが組んでいた腕を解いた。
「次で最後だ」
「まだ動けます」
「お前の体力の話ではない。カイウスが相手をすると約束したのは一度だけだ」
カイウスも構えを解かないまま続ける。
「一刻あれば十分だ。これ以上続けても、お前は俺に技を当てることしか考えなくなる」
「では、最後にもう一度お願いします」
「ああ」
両掌を開く。
指先には、昨日打ち込み板を捉えた感触が残っている。
だが、今見るべきものは自分の掌ではない。
カイウスの足。腰。両肩。
拳を打つ前に生まれる、僅かな重心の偏り。
「技を当てようとするな」
リヴィアの声が届く。
「相手を見ろ」
息を吐く。
腹から巡る無属性の魔力を確かめる。
火は使わない。
炎も作らない。
昨日と同じように、右足を半歩だけ持ち上げた。
カイウスの左足が動く。
やはり、踏み込む前に潰しに来た。
昨日の俺なら、このまま右足を地面へ叩きつけていた。
だが、踏まない。
脚へ集めかけた火を解く。
持ち上げた右足を斜め前へ置き、身体をカイウスの正面から外した。
祖父の刀を振るうため、何度も繰り返してきた足運び。
形は違っても、足と腰へ刻まれた動きまでは失っていない。
カイウスの左拳が頬を掠めた。
完全には躱せない。
それでも、下がらず懐へ入る。
右の掌をカイウスの胸元へ伸ばした。
左の手甲が、俺の手首を外側へ弾く。
火は使わない。
弾かれた腕を無理に戻さず、その力に沿って腰を回す。
背中から押し出した左の掌を、カイウスの脇腹へ向けた。
今度は右の手甲が下り、掌を受け止める。
カイウスの右肩が沈んだ。
肘が来る。
左腕を引き、肘の軌道へ重ねる。
鈍い衝撃が前腕を痺れさせた。
それでも円環は止めない。
受けた力を肩から胸へ通し、腹へ戻す。
距離を離さない。
拳が届く場所に立ち続ける。
カイウスが右拳を引いた。
俺が両掌を開いたのを見て、僅かに腰を落とす。
次に何を狙っているのか、すでに気づいている。
それでいい。
俺は両掌を、カイウスの胸元へ突き出した。
カイウスが後退する。
逃がさない。
左足で石床を押し、右足を続ける。
地面を砕くような震脚ではない。
刀で相手を追うときに使ってきた、短い踏み込み。
カイウスはさらに退くのではなく、両腕を交差させた。
黒い武装手甲が、胸元を覆う。
俺の両掌が、その表面へ触れた。
受けさせた。
足裏へ圧力が返ってくる。
その瞬間だけ、両脚へ火を重ねる。
強く縮んだ筋肉が力を腰へ押し上げる。
脚の火を解く。
腰。背中。両肩。
力が通り過ぎる場所へ、その都度火を重ねる。
最初から掌まで運ぶ必要はない。
必要な場所へ、必要な瞬間だけ。
両掌へ力が届いた。
昨日よりも火を絞る。
それでも、触れた一点へ全てを重ねる。
「《獅吼爆炎》【ルギトゥス・フランマエ】」
両掌に《焔纏》が生まれた。
打撃音と爆発音が重なる。
獣の咆哮にも似た轟音が、朝の修練場を揺らした。
円形に広がった爆炎が、カイウスの上半身を包み込む。
交差した武装手甲を盾にしたまま、カイウスの身体が後方へ押し出された。
靴底が石床を削る。
一歩。二歩。三歩。
だが、カイウスは倒れない。
俺も追おうとする。
その瞬間、右足に何かが絡んでいることに気づいた。
カイウスの左足。
爆炎を受ける直前、俺の足首へ引っかけていた。
前へ出そうとした身体から支えが消える。
「――っ」
視界が反転した。
肩から石床へ落ちる。
受け身を取り、転がった勢いのまま立ち上がろうとする。
「そこまでだ」
リヴィアの声で動きを止めた。
カイウスは数メートル先に立っている。
交差させた武装手甲から細い煙が立ち上り、表面には俺の両掌と同じ形の焦げ跡が残っていた。
俺は自分の足首を見る。
痛みはあるが、折れてはいない。
「一撃は、届きました」
「ああ」
カイウスが両腕を下ろす。
「だが、俺の足も届いていた」
「はい」
「今の一撃で俺を倒せなければ、地面へ落ちたお前が先に仕留められる。相打ちですらない」
悔しいが、そのとおりだった。
技を放つ形は作れた。
だが、勝ったわけではない。
リヴィアが俺たちの間へ歩いてくる。
「昨日までのお前は、自分から《獅吼爆炎》を放とうとしていた。今はカイウスを動かし、受ける形を選ばせた」
リヴィアの視線が、俺の両掌から足元へ下がる。
「一撃を通すための形はできた。だが、それを正解だと思うな」
「相手によって、形を変えるんですね」
「そうだ。足を止める相手もいれば、受けずに躱す相手もいる。お前の腕ごと斬り落とそうとする者もいるだろう」
打ち込み板へ放つときの形を、そのまま人間へ使うことはできない。
命脈闘法は、決められた順番を再現するためのものではない。
身体の中に力を巡らせ、必要な場所へ繋ぐための土台。
その上で何を選ぶかは、相手を見て決めなければならない。
カイウスが武装手甲についた煤を払う。
「約束どおり、一度だけだ。俺の役目はここまでだ」
「ありがとうございました」
「礼を言うほどのことはしていない。俺も、お前の技を一度受けてみたかっただけだ」
カイウスが焦げ跡の残る手甲を見下ろす。
「次に会うときまでに、その一撃を技ではなく武器にしておけ」
「カイウスさんも、兄へ再挑戦するんですか」
「当然だ。そのために、もう一度挑戦資格を得る」
迷いのない返答だった。
敗北した翌日であっても、その視線はすでに次の試合へ向けられている。
「次は負けませんか」
「負けるつもりで挑む者はいない」
カイウスが背を向ける。
修練場の出口へ向かう途中、一度だけ足を止めた。
「拳が届く場所へ立つことだけは忘れるな。だが、そこに立ち続ける必要があるかどうかは、自分で決めろ」
「はい」
カイウスは振り返らず、そのまま修練場を出ていった。
『随分と不器用な人だったけれど、悪い人ではなかったわね』
「ああ。帝国人以外が元老院にいることは、最後まで認めないだろうけどな」
『それと、あなたへ教えることは別なのでしょう?』
「本人がそう言ってたからな」
考えまで変わったわけではない。
それでも、カイウスは俺の生まれを理由に修練を断らなかった。
学ぶ意志があるなら、拳の届く場所に立たせる。
それもまた、実力を重んじる帝国の在り方なのかもしれない。
「カイウスのことを考えるのは後にしろ」
リヴィアの声に振り返る。
「まだ何かあるんですか」
「一つだけ、見せておく」
リヴィアは修練場の端へ歩いていく。
そこには、武器の打ち込みに使う訓練人形が並んでいた。
太い木材で作られた胴体に、帝国兵が使うものと同じ鉄製の胸当てが装着されている。
リヴィアが一体の前で足を止めた。
「鎧を確認しろ」
言われたとおり胸当ての表面を見る。
古い擦り傷はいくつも残っているが、割れや大きな損傷はない。
「問題ありません」
「木の胴体は」
胸当ての隙間から覗き込む。
こちらにも、目立った損傷はなかった。
「壊れていません」
「なら、離れて見ていろ」
リヴィアが訓練人形の正面へ立つ。
構えは取らない。
震脚も踏み込みもなく、右の掌を胸当てへ静かに触れさせた。
無属性の魔力が、リヴィアの身体を巡っている。
腹から腰、背中、右肩、腕へ。
俺が《獅吼爆炎》を放つときと同じように、力が掌へ集まっていく。
だが、外側へは何も現れない。
炎も、衝撃も、魔力の光さえなかった。
掌へ届いた魔力が、胸当てへ吸い込まれるように消える。
直後。
訓練人形の内側から、小さく乾いた音が響いた。
リヴィアが掌を離す。
胸当てには、傷一つついていない。
「外してみろ」
留め具を外し、鉄製の胸当てを持ち上げる。
その下にあった木製の胴体も、表面には何も起きていなかった。
だが、指先で触れた瞬間。
木材の中央が内側へ崩れ落ちた。
表面だけを残し、その奥が細かな破片へ変わっている。
「これは……」
胸当てへ視線を戻す。
鉄は壊れていない。
その下にある木材の表面も残っている。
リヴィアの一撃は、そのどちらも越えた場所だけを破壊していた。
「魔力を、相手の中へ流すんですか」
「流し込むな」
リヴィアが答える。
「相手の内側にある流れへ沿わせろ。そして、崩す場所だけを乱せ」
「相手の内側にある流れ……」
「人間であろうと魔物であろうと、動くものには流れがある。呼吸、血、魔力、踏み込んだときに身体を通る力。その全てを一度に見る必要はない」
リヴィアが崩れた木材の中心を指先で示す。
「自分の魔力を押し込むだけでは、硬い殻に弾かれる。触れた場所から先に何があるのかを捉えろ」
外側を破壊する《獅吼爆炎》とは、正反対の一撃。
炎を爆ぜさせ、相手を吹き飛ばすのではない。
触れた場所を越え、その内側だけへ力を通す。
俺は別の訓練人形へ掌を伸ばそうとする。
「今はやるな」
リヴィアに止められ、手を下ろした。
「なぜですか」
「止まった人形を相手にすれば、お前はまた手順を作り始める。昨日と同じことを繰り返すだけだ」
何度も打ち込み板へ掌を叩きつけ、ようやく一つの形を作った。
だが、その形へ固執した結果、今日はカイウスに十二度も崩された。
「では、どうやって覚えるんですか」
「生きた相手で覚えろ」
リヴィアが訓練人形から離れる。
「帝都ギルドへ話を通してある。今のお前に合う討伐依頼を選ばせた」
「ギルドにも知り合いがいるんですか」
「帝都で長く生きていれば、顔見知りくらい増える」
リヴィアは何でもないことのように答えた。
だが、顔見知りというだけで、個人の修練に合う討伐依頼を選ばせることまでできるものだろうか。
「受付で名を告げろ。支部長が話を知っている」
「支部長が、ですか」
「ああ」
今度は、それ以上尋ねる前に背を向けられた。
『顔見知りという言葉だけでは、少し足りないように聞こえるわね』
「俺もそう思う」
兄はリヴィアを呼び捨てにしていた。
元老院への挑戦資格を持つカイウスも、彼女の指示には素直に従っている。
さらに帝都ギルドの支部長へ、討伐依頼の選定まで頼める。
ただ武術に優れた人物というだけでは、説明がつかない。
「今日は屋敷へ戻って身体を休めろ」
修練場の出口へ向かいながら、リヴィアが続ける。
「討伐へは明朝、一人で向かえ」
「リヴィアさんは同行しないんですか」
「私が横にいれば、お前は答えを聞こうとする」
「聞いても、教えてくれないと思いますが」
「分かっているじゃないか」
リヴィアは僅かに口元を上げた。
「何を相手にするかは、ギルドで聞け」
その日は言われたとおり、残りの時間を休養に充てた。
夕刻。
屋敷の客室で両掌に巻いていた布を解く。
昨日より腫れは引いているが、カイウスの武装手甲へ《獅吼爆炎》を放った反動が残っていた。
掌を開き、腹から無属性の魔力を巡らせる。
両脚。腰。背中。両肩。腕から掌へ。
そこで止めず、再び胸を通して腹へ戻す。
魔力を身体の外へは出さない。
ただ、リヴィアが見せた一撃を思い返す。
鎧にも、その下の表面にも傷をつけず、さらに奥だけを崩した掌。
『まだ、リヴィアのことを考えているの?』
「それもある」
元老院第十席である兄との繋がり。
カイウスとの関係。
帝都ギルドの支部長にまで通じる名前。
「帝都で長く生きていれば、で済む話じゃないだろ」
『ええ。ただ顔が広いというだけではなさそうね』
「聞いても、今は答えないだろうな」
『なら、本人が話す気になるまで待つしかないわ。それより、明日の相手でしょう?』
「ああ」
両掌を見下ろす。
昨日生まれたのは、触れた場所から外へ力を爆ぜさせる一撃。
今日見せられたのは、触れた場所を越え、その内側へ届く力。
その二つの間には、まだ何も繋がっていない。
明日、俺は一人で帝都ギルドへ向かう。
リヴィアが選ばせたという討伐対象が、何なのかは分からない。
ただ、あの人が意味もなく依頼を用意するとは思えなかった。
掌から腹へ魔力を戻す。
円環は途切れず、身体の中を巡り続けている。
次は、この流れを俺の身体だけで終わらせない。
触れた、その先へ。




