第65話 力の帰る場所
掌へ届いた無色の魔力が、また指先から散った。
足から腰、腰から背中、肩を通して腕へ。
そこまでは届く。
だが、掌まで運んだ魔力を胸へ戻そうとした瞬間、流れが止まる。
「もう一度です」
「待て」
再び魔力を足へ落とそうとした俺を、リヴィアが止めた。
「今、何をしようとした」
「掌まで届いた魔力を、胸へ戻そうとしました」
「どうやって」
「来た道を逆に辿らせて……」
「だから、ぶつかるんだよ」
リヴィアが箒の柄で、俺の右肩を軽く叩く。
「お前は掌へ向かって魔力を送り続けながら、同じ道を使って戻そうとしている。戻しているつもりで、逆向きに押し返しているだけだね」
言われてみれば、そのとおりだった。
足から送り出した魔力は、今も背中から肩へ向かって流れている。
そこへ掌から戻そうとした魔力が正面からぶつかれば、流れが乱れるのは当然だ。
「では、先に送り出す魔力を止めてから――」
「止めれば、それは循環じゃない」
答えを口にするより先に否定される。
「送り出す力と、戻ってくる力が同時に流れてこそ巡りになる。片方を止めて、もう片方を動かしている間は、ただ順番に魔力を移しているだけだ」
リヴィアが箒の先で、足元に描かれた円をなぞる。
「お前は脚、腰、背中、肩、腕を、それぞれ別の場所として考えすぎている」
「別の場所……」
「脚へ送る。次に腰へ移す。腰から背中へ上げ、肩から腕へ渡す」
箒の柄が、俺の脚、腰、肩を順番に叩く。
「繋いでいるように見えて、実際には一つずつ受け渡しているだけだ。身体は最初から一つなのに、お前自身が勝手に分けている」
俺は自分の右手を見る。
刀を振るうときも、足、腰、肩、腕と順番に力を意識してきた。
それが間違っていたとは思わない。
だが、その先にある切っ先へ力を届けることばかり考え、全身を一つの流れとして捉えたことはなかった。
「円の中から出ろ」
リヴィアの言葉に、顔を上げる。
「もう終わりですか」
「誰が終わりだと言った。円の縁へ立て」
地面に描かれた円から出て、その縁へ右足を置く。
リヴィアは円の中央へ移動すると、箒を肩へ担いだ。
「今度は歩け」
「歩きながら巡らせるんですか」
「立ったまま考えているから、身体を細かく分ける。円の縁を歩き、三歩目で身体を返せ。そこから掌を突き出し、構えへ戻る」
「属性強化は」
「使うな。無属性のまま巡らせろ」
俺は円の縁に沿って、右足を踏み出した。
無属性の魔力を両脚へ落とし、腰へ流す。
二歩目。
背中へ上げた魔力を、右肩から腕へ送る。
三歩目で身体を返し、右の掌を突き出した。
掌まで届く。
そこから胸へ戻そうとした瞬間、また肩で魔力がぶつかった。
箒の柄が、俺の右肩を叩く。
「止まっている」
「もう一度です」
最初の位置へ戻り、再び右足を踏み出す。
一歩、二歩、三歩。
身体を返し、掌を突き出す。
先ほどよりも早く魔力を胸へ戻そうとしたが、今度は腰で流れが途切れた。
箒の柄が腰を叩く。
「足が止まった」
「はい」
「返事をする暇があるなら、続けろ」
もう一度、円の縁を歩く。
足から腰、背中から肩、腕へ。
同じ順番を意識するほど、動きが固くなる。
魔力を腰へ移す間に足が止まり、背中へ上げようとすれば肩に力が入る。
箒の柄が容赦なく飛んでくる。
脚。腰。背中。肩。
叩かれる場所は、魔力が止まった場所と同じだった。
「頭で一つずつ動かすな」
「ですが、意識しなければ流れが――」
「意識しているから止まっているんだよ」
リヴィアは簡単に言うが、意識せずに魔力を動かす方法が分からない。
呼吸を整え、再び足を踏み出す。
少しでも自然に動こうと、地面を蹴った。
その瞬間、無色だった魔力が風の性質へ引かれた。
足が急激に軽くなり、想定よりも大きく身体が前へ出る。
「っ……」
崩れた重心を立て直そうとしたところへ、箒の柄が胸元へ伸びてきた。
反射的に《瞬》を使う。
水の魔力が神経を巡り、迫る柄の動きが僅かに遅く見えた。
上体を傾けて躱し、踏み込む。
掌を放つ寸前、筋肉の奥へ火の魔力が流れ込んだ。
《剛》。
掌打を受け止めた箒の柄が、乾いた音を立てる。
「止めろ」
リヴィアの声に、全身の魔力を止める。
「今のは、何を巡らせた」
「無属性の魔力を巡らせたつもりでした」
「脚は風、神経は水、最後は火だ」
自分でも分かっている。
無属性のまま巡らせようとしていたはずが、身体を動かした途端、使い慣れた属性へ変わっていた。
「動きに身体が反応して、勝手に属性が……」
「勝手に、か」
リヴィアが箒を下ろす。
「なら、お前の身体には三人の別人が住んでいるのか」
「そういう意味ではありません」
「身体が三つに分かれたわけじゃない。お前が三つに分けて使っているだけだ」
箒の先が、俺の胸元へ向けられる。
「速く動くときは風。見るときは水。力を出すときは火。便利な名前をつけ、必要な場所にだけ魔力を押し込んできた」
《速》、《瞬》、《剛》。
それぞれの性質に合わせ、最も効果を発揮する場所へ魔力を流してきた。
その使い方で、何度も生き残っている。
だが、三つの強化を切り替える度、魔力は途切れる。
「属性を使うことが悪いわけじゃない。だが、今のお前は属性に身体を動かしてもらっている」
「俺が属性を使っているのではなく、ですか」
「ああ。風を使わなければ速く踏み込めず、水を使わなければ反応できず、火を使わなければ強く打てないと思い込んでいる」
リヴィアが円の縁を指す。
「それらを使う前から、お前には脚も、神経も、筋肉もある。まずは、それが一つの身体だと思い出せ」
「思い出す……」
「魔力を得る前から、お前は歩き、見て、物を持っていたはずだ」
この身体は、初めから属性ごとに分かれていたわけではない。
だが、三つの強化は獅子宮で得てから何度も使い続けてきた。
今では意識するより早く、身体が属性を求めている。
『随分と深く馴染んでいるわね』
セレスの声が聞こえる。
『ただの癖だけとは思えないほどに』
「獅子宮で得た力だからか」
『その可能性はあるわ。でも、今はまだ決めつけない方がいいでしょうね』
リヴィアも、俺の身体が変化し始めているとは言った。
だが、その原因までは断定しなかった。
今考えるべきなのは、なぜこうなったのかではない。
この身体を、どう繋ぎ直すかだ。
「続けます」
「ああ。今度は属性へ逃げるな」
俺は円の縁へ戻り、右足を踏み出した。
太陽が修練場の真上を通り過ぎても、魔力は一度も巡らなかった。
円の縁には何度も歩いた跡が残り、踏み固められた土の色が変わっている。
右肩と腰には、箒の柄で叩かれた鈍い痛みがあった。
一歩、二歩、三歩。
身体を返し、掌を突き出す。
属性へ変わることは減った。
だが、無属性のまま掌へ届いた魔力は、そこで必ず止まる。
胸へ引き戻そうとすれば、送り続けている魔力とぶつかる。
外へ散らさないよう押さえ込めば、掌に溜まる。
「違う」
リヴィアの箒が、また右肩を叩く。
「もう一度です」
「同じことを繰り返しても、同じように失敗するだけだ」
「では、どうすれば」
「それを見つけるのがお前の修行だよ」
リヴィアは答えを教えない。
教えてもらった道へ魔力を流すだけなら、もっと簡単だった。
だが、命脈の輪郭を感じ取れない俺には、どこに戻る道があるのか分からない。
もう一度、足を踏み出す。
掌へ届かせる。
戻そうとして、肩でぶつかる。
「くそ……」
『ねえ、レグルス』
焦りを滲ませた俺へ、セレスが静かに呼びかける。
『あなた、刀を振ったところで身体まで止めていたわけではないでしょう?』
「何を言ってるんだ」
『切っ先へ力を届けた後よ。斬ったところで、そのまま動きを終えていたの?』
刀を振るっていたときの感覚を思い返す。
袈裟に斬り下ろした後、足を運び、沈んだ重心を戻す。
横薙ぎを放った後は、腰の回転を殺さず、そのまま次の構えへ繋ぐ。
抜刀すれば、振り抜いた刀を返し、再び鞘へ納める。
どれも切っ先へ力を届けて終わりではない。
次の一太刀へ移るため、足も腰も動き続けていた。
『あなたが見ていたのは、斬る瞬間だけだったのでしょうね』
「ああ……」
『でも、あなたの身体はその先も知っているわ』
掌を見る。
今の俺は、ここへ魔力を届けた瞬間、その魔力を来た道へ引き戻そうとしている。
刀を振った後、同じ軌道を逆向きに戻したことなどない。
振り抜いた勢いを身体へ繋ぎ、次の構えへ移っていた。
「戻すんじゃない」
小さく呟く。
「戻るところまで、動きを続けるんだ」
リヴィアが僅かに目を細めた。
「何か見つけたか」
「試してみます」
円の縁へ右足を置く。
目を閉じず、進む先を見る。
一歩目。
無属性の魔力を足へ落とす。
二歩目。
腰から背中へ上げる。
三歩目で身体を返し、右の掌を突き出す。
魔力が肩から腕を通り、掌へ届く。
そこから引き戻そうとしない。
右腕を伸ばしたまま、次の一歩を踏み出す。
足が動けば、腰も動く。
腰が回れば、伸ばしていた右腕が自然に戻り始める。
掌を内側へ返し、肘を曲げる。
その動きに沿って、掌に留まっていた魔力が前腕の内側へ流れた。
来た道とは違う。
肩の外側を通って掌へ届いた魔力が、腕の内側を伝って胸へ向かう。
戻そうと力を加えれば止まる。
だから、身体の動きに任せる。
右の掌を胸元へ引き、構えへ戻す。
魔力が胸を通り、腹の奥へ沈んだ。
その瞬間、次の一歩を踏み出す。
腹へ戻った魔力が腰を抜け、再び足へ流れた。
「――っ」
今まで肩でぶつかっていた魔力が、止まらない。
足から腰。
腰から背中。
背中から肩、腕、掌へ。
掌から腕の内側を通り、胸、腹、そして再び足へ。
一周。
僅かな時間だった。
魔力が増えたわけでも、身体が強くなったわけでもない。
それでも、今まで別々に動かしていた脚、腰、肩、腕が、一つの身体として繋がった。
次の一歩が、驚くほど自然に前へ出る。
風を使っていない。
水も、火も使っていない。
それなのに、身体が軽い。
「止まれ」
リヴィアの声に従い、構えへ戻る。
腹の奥に、先ほどまでとは違う感覚が残っていた。
魔力が消えたのではない。
外へ捨てることなく、自分の中へ帰ってきた。
「今のが……《気》ですか」
「勘違いするな」
僅かに抱いた期待を、リヴィアが即座に切り捨てる。
「今のお前が巡らせたのは魔力だ。《気》じゃない」
「ですが、先ほどまでとは明らかに――」
「命脈の上へ、ようやく魔力を一度通せただけだよ」
リヴィアが箒の先で、俺の足から肩、掌へ見えない線を描く。
「《気》を感じ取ったわけでも、自分の意思で動かしたわけでもない。身体の動きと魔力の流れが、偶然一度重なったに過ぎない」
「偶然……」
「不満か」
「いえ。一度でもできたのなら、次もできます」
「そうか」
リヴィアが箒を肩へ担ぐ。
「なら、もう一度やれ」
「はい」
右足を踏み出そうとした瞬間、箒の柄が横から飛んできた。
先ほどまでとは違う。
魔力が止まった場所を指摘するための一撃ではない。
右肩を狙った、鋭い打撃。
反射的に上体を沈める。
箒を躱すことはできた。
だが、足から腰へ流していた魔力が途切れた。
「今のは……」
「誰にも邪魔されず、決められた動きの中で一度巡らせるだけなら、覚えてしまえば誰にでもできる」
リヴィアが箒の柄を両手で持つ。
ただの箒のはずなのに、鋭い槍を向けられているような圧迫感があった。
「実戦で相手が待ってくれると思うな。殴られれば身体は崩れる。避ければ足の運びが変わる。攻撃を受ければ、魔力の流れも乱される」
箒の先が、俺の胸元へ向けられる。
「明日からは、私がその輪を壊す」
「殴られながら、魔力を巡らせるんですか」
「殴られても、避けても、巡りを切らすな」
リヴィアが箒を下ろす。
「今日は日が落ちるまで、今の一巡を繰り返せ。一度できただけで、覚えたつもりになるんじゃないよ」
「分かりました」
円の縁へ、再び右足を置く。
掌へ届けるだけなら、何度も繰り返してきた。
だが、力の行き先は掌でも、失った刀の切っ先でもない。
そこから胸へ、腹へ、次の一歩へ。
外へ届けた力が帰る場所は、俺自身の中にある。
明日、リヴィアはその流れを壊しにくる。
殴られ、避け、構えを崩されても繋ぎ続けるために、俺はもう一度、円の縁を歩き始めた。
足から腰、背中、肩、掌へ。
そこで終わらせず、次の一歩へ帰すために。




