第62話 よそ者の第十席
翌日の正午。
帝都の中央に築かれた元老院闘技場は、議員同士の試合や、議席を懸けた挑戦試合にのみ使用される場所だった。
円形に積み上げられた石造りの観客席。その最前列には元老院や帝国の役人が座り、上段には一般の観戦者が詰めかけている。
政治を担う者の席が、実力によって奪われる。
王国では考えられない制度だが、帝国ではそれさえも一つの娯楽として受け入れられているらしい。
『議席を奪い合う試合にしては、随分と賑やかなのね』
「帝国らしいと言えば、帝国らしいな」
関係者用に用意された席へ腰を下ろし、闘技場を見下ろす。
腰には、兄から渡された古い片手剣。その後ろには、いつものようにセレスを吊るしている。
周囲から聞こえてくる声の多くは、兄に向けられたものだった。
「相手はカイウス・ヴァルガだ。今度こそ、帝国人が席を取り戻すぞ」
「だが、第十席はこれまで三度も挑戦を退けている」
「生まれなどどうでもいい。強い者が座る。それが元老院だろう」
兄をよそ者と呼ぶ者もいれば、その実力を認める者もいる。
帝国全体が兄を拒んでいるわけではない。
ただ、兄が王国出身でありながら元老院の席へ座っていることを、認められない者がいる。それだけだった。
闘技場の左右にある鉄扉が、重い音を立てて開く。
先に姿を現したのは、挑戦者だった。
短く刈り込まれた焦げ茶色の髪。厚い胸板と太い首を持ち、剥き出しになった両腕には、手の甲から肘までを覆う黒い武装手甲を装着している。
兄よりも頭一つ以上大きい。
その体格から力任せに戦う者にも見えるが、歩みには無駄がなく、足音もほとんど聞こえなかった。
反対側の門から、兄が入場する。
黒髪を後頭部で結び、東方風に仕立てられた濃紺の着流しを身にまとっている。小柄な身体には不釣り合いなほど長い剣を背負いながら、その足取りには僅かな重さも感じられない。
兄は闘技場の中央で立ち止まり、観客席へ一度だけ視線を向けた。
一瞬だけ、目が合う。
言葉はない。
それでも、昨日と同じ声が聞こえた気がした。
――見ておけ。
元老院の紋章を胸につけた審判が、二人の間へ進み出る。
「挑戦者、カイウス・ヴァルガ。元老院の審査により、現職第十席への挑戦資格を認められた者である」
カイウスが右拳を左胸へ当てる。
「元老院第十席、クレハルト。正式な指名を受け、これを受諾した」
兄は長剣を背から下ろし、鞘に納めたまま地面へ立てた。
審判が二人を交互に見た後、一歩下がる。
カイウスが兄へ向き直った。
「書状へ記したとおりだ。俺は、元老院の各席は帝国に生まれた者が担うべきだと考えている」
観客席の一部から歓声が上がる。
兄は表情を変えない。
「そうか」
「お前の実力を侮っているわけではない。だからこそ、正式な資格を得て、正面からその席を奪いに来た」
「なら、奪ってみろ」
兄が長剣を抜く。
幅広の刃が鞘を離れ、日の光を鈍く反射した。
「それが認められているのも、この国だ」
カイウスは一度だけ頷き、両拳を身体の前へ構える。
審判が右腕を上げた。
「勝敗は降参、戦闘不能、もしくは審判の判断によって決する。双方、異論はないか」
「ない」
「ありません」
カイウスの返答だけが丁寧だった。
審判の腕が振り下ろされる。
「始め!」
その声と同時に、カイウスの全身から魔力が立ち上った。
だが、魔力を外側へまとうのではない。
放たれた魔力は皮膚の下へ沈み込み、両脚から腰、背中、肩、腕へと流れていく。僅かに膨らんだ筋肉が、元の位置へ引き締まった。
魔力による身体強化。
そう判断した直後、カイウスの姿が前へ滑った。
大きく踏み込んだわけではない。
一歩目は短く、二歩目で一気に加速する。
兄の長剣が届く寸前で上体を沈め、左の手甲で剣の腹を外側へ押し流した。
そのまま、右拳が兄の顎へ伸びる。
兄は後ろへ退かない。
長剣の柄を僅かに引き、柄頭でカイウスの手首を内側から打った。
拳の軌道が外れる。
だが、カイウスの攻撃は止まらない。
右拳を引く動きに合わせて左肘を突き出し、兄の脇腹を狙う。兄は長剣を立て、鍔で肘を受け止めた。
硬い金属音。
直後、カイウスの右脚が兄の膝へ向かう。
兄は足を僅かに浮かせ、脛で蹴りを受け流す。その動きで崩れたように見えた身体へ、カイウスが肩からぶつかった。
兄の足が、地面を擦りながら後方へ滑る。
観客席が沸いた。
『昨日、あなたが立とうとしていた場所ね』
「ああ」
カイウスは長剣の間合いから逃げているのではない。
兄の拳が届き、同時に兄の長剣も自由には振るえない場所へ、自分から立ち続けている。
俺が昨日、何度も踏み込めなかった距離。
相手の攻撃も届く場所へ恐れずに入り、そこから拳、肘、蹴りを途切れさせることなく繋いでいる。
兄が長剣を横へ振る。
カイウスは身体を沈めて斬撃を潜り抜け、さらに一歩踏み込んだ。
剣を振り終えた直後。
刀であれば、俺もそこを狙う。
カイウスの左拳が兄の腹部へ放たれた。
兄は長剣から片手を離し、掌で拳を外側へ流す。
続く右の拳へ柄頭を合わせ、肘を剣の腹で受け止める。大きな剣を無理に振るうのではなく、柄、鍔、剣腹を使い、短い武器のように扱っていた。
カイウスが前へ出る。
兄は退かない。
拳が届く距離のまま、二人の攻防が続く。
「なぜだ……」
無意識に言葉が漏れた。
長剣は、刀よりもさらに長く重い。
懐へ入られれば、扱いにくくなるはずだった。
だが、兄は長剣の間合いへ戻ろうとしていない。
拳の間合いに立ったまま、長剣でその場所を支配している。
カイウスが右拳を放つ。
兄が鍔で受け止める。
左の拳。
剣腹で滑らせる。
下段への蹴りを足裏で止め、突き出された肘へ柄頭を合わせる。
長剣を大きく振る必要はない。
拳一つ分だけ動かせば、刃は相手の身体へ届く。
カイウスもそれを理解している。
武装手甲で刃を受け、滑らせ、兄が剣を引き戻すより先に次の攻撃を繰り出していた。
カイウスの左拳が兄の視界を塞ぐ。
兄が僅かに顔を傾けた。
その下から、右拳が跳ね上がる。
兄の頬を、手甲の先端が掠めた。
細い傷が走り、一筋の血が流れる。
さらにカイウスが肩から身体をぶつけ、兄を一歩後退させた。
歓声が闘技場を揺らす。
兄は頬の血を親指で拭い、僅かに口元を上げた。
「悪くない」
「その余裕が、いつまで続く」
カイウスが両拳を打ち合わせる。
全身を巡っていた魔力が、さらに強くなる。
足元の砂が弾けた。
正面から踏み込んだカイウスが、左拳を放つ。
兄が剣腹で受け止める寸前、拳が止まった。
フェイント。
カイウスは左足を軸に身体を回し、右脚を兄の側頭部へ振り抜く。
兄が長剣を立てる。
蹴りが剣の腹へ激突し、重い音が響いた。
長剣ごと兄の身体が押し込まれる。
カイウスは着地と同時に距離を詰め、右拳を兄の胸元へ突き出した。
兄の足が動く。
右足を斜め前へ置き、身体を拳の正面から僅かに外す。左足が地面を擦ることなく続き、重心だけが静かに移動した。
何度も見てきた。
幼い頃から、祖父の背中を追い続けてきた俺が見間違えるはずがない。
「《桔梗》……」
祖父が刀を振るう直前に見せる足運び。
だが、兄は刀を持っていない。
兄の身体の輪郭が、僅かに揺らいだ。
陽炎にも似た、薄い揺らぎ。
魔力の光とは違う。
肉体の内側から滲み出した何かが、肩から腕を伝い、長剣へ薄くまとわりついていく。
その瞬間だけ、兄の小柄な身体が、闘技場そのものを押さえ込むほど大きく見えた。
突き出されたカイウスの拳へ、長剣の腹が重なる。
兄は受け止めない。
刃を滑らせながら拳の軌道を外側へ巻き込み、カイウスの右腕ごと身体を開かせる。
カイウスが踏み止まる。
左拳を打とうとしたときには、兄の長剣が下段へ沈んでいた。
「剣技壱式・グラジオラス」
長剣が、斜め下から振り上げられる。
一閃。
カイウスの右腕を覆っていた武装手甲が斬り裂かれ、砕けた外殻が宙を舞った。
それでも、刃は止まらない。
カイウスの胸元を通り過ぎ、反転した切っ先が喉元へ突きつけられる。
薄い血が、首筋を一筋だけ伝った。
闘技場から音が消えた。
兄の切っ先は、それ以上進まない。
カイウスも動かなかった。
審判が二人の位置を確認し、右腕を上げる。
「勝者――元老院第十席、クレハルト!」
遅れて、観客席から大きな歓声が上がった。
兄が長剣を引く。
カイウスは斬り裂かれた手甲へ視線を落とし、ゆっくりと拳を解いた。
「……なぜ、俺の間合いで長剣を振れた」
「武器の長さと、戦える場所は同じじゃない」
「俺を外へ追い出す必要すらなかったということか」
「お前が入ってくるなら、そこで戦えばいい」
カイウスは悔しさを滲ませながら、兄を正面から見つめる。
「帝国に生まれた者が各席を担うべきだという考えを、撤回するつもりはない」
「好きにしろ」
「だが、今日の第十席がお前のものだという事実は認める」
「それで十分だ」
「次に資格を得たときも、お前を指名する」
「受けてやる」
カイウスは斬り裂かれた手甲を外し、兄へ背を向けた。
負けた理由を出自にも、武器にも求めない。
あの考えに賛同するつもりはないが、武人としての在り方まで嫌うことはできなかった。
試合を終えた俺は、兄の控室へ向かうため観客席を離れた。
石造りの通路へ入ると、反対側からカイウスが歩いてくる。
右腕の手甲は外され、前腕には白い布が巻かれていた。
俺は通路の脇へ寄り、道を譲る。
カイウスは通り過ぎず、俺の前で足を止めた。
「お前、第十席の弟だな」
「はい。レグルス・クレハルトです」
「カイウス・ヴァルガだ」
「先ほどの試合、見事でした」
「敗者に言う言葉ではない」
「勝敗ではなく、あなたの踏み込みです。長剣の間合いへ、どう入ったのかを見ていました」
カイウスの視線が、俺の足元から腰へ移る。
「やはり、俺の足ばかり見ていたか」
「気づいていたんですか」
「妙に熱心な視線があった。それに――」
カイウスは自分の左手を腰の横へ下げた。
「拳を見ていたはずのお前の左手は、何度も腰へ落ちていた」
自分の左手を見る。
今も、古い片手剣の柄へ添えるように下がっていた。
「体術を始めたばかりか」
「昨日、拳が届く場所へ立つことから教わりました」
「立つことから、か。悪くない教えだ」
カイウスは僅かに目を細めた。
「明朝、東側の公営修練場へ来い」
「俺に、体術を教えてくれるんですか」
「一度だけ相手をしてやる。見て分かったつもりになるのと、実際にそこへ立つのは違う」
「ですが、俺も帝国の生まれではありません」
「元老院の席と修練場は別だ」
カイウスは迷うことなく答える。
「学ぶ意志まで、生まれた場所で選ぶつもりはない」
「……分かりました。お願いします」
「日の出と同時だ。遅れるな」
カイウスはそれだけ告げ、通路の奥へ歩いていった。
『思わぬところから、次の修行相手が現れたわね』
「師匠になってくれるとは言ってない」
『それでも、拳が届く場所に立つ方法は見せてくれるのでしょう?』
「ああ」
立ち去るカイウスの背中を見送っていると、背後の扉が開いた。
「もう目をつけられたか」
振り返ると、兄が長剣を肩へ担いで立っていた。
「聞いてたんですか」
「途中からな。行ってこい。あいつの踏み込みは、お前が今見るべきものだ」
「兄さんは、俺がカイウスと話すことを気にしないんですか」
「あいつが俺の出自を気に入らないことと、お前に何かを教えることは別だ。それを分けられないほど狭い男なら、元老院へ挑む資格は得られん」
兄は俺の横を通り過ぎる。
その背中を追いながら、先ほどの一撃を思い返す。
「最後の技は……祖父の《桔梗》が元ですか」
「土台はな」
「だが、刀とその剣では、長さも重さも違う」
「だから作り直した」
兄が立ち止まり、肩の長剣を僅かに持ち上げる。
「爺さんの《桔梗》をそのまま使おうとしても、この剣じゃ重心が合わん。足運びと力の流れだけを残して、俺の身体と剣に合わせた」
「それが《グラジオラス》……」
「ああ」
祖父から学んだ技を捨てたのではない。
形を変え、自分の剣へ繋いだ。
「武器が変われば、技の形も変わる」
兄が前を向いたまま続ける。
「だが、積み重ねたものまで捨てる必要はない」
「俺が見ていたから、《グラジオラス》を使ったんですか」
「ああ。今のお前には、一度見せておく必要があった」
昨日、兄が答えなかった問いへの答えが、ようやく分かった。
刀を失った俺が、これまでの動きを捨てようとしていたから。
兄は言葉ではなく、自分の剣で示した。
「最後の瞬間、兄さんの身体の周りに何かが見えました」
「見えたのか」
「魔力とは違っていた。あれは何なんですか」
「今は、正体を追う必要はない」
兄はそれ以上答えず、再び歩き始める。
「まずは足と腰、それから剣へ力が届くまでを覚えておけ。見失わなければ、そのうち分かる」
「……分かりました」
今は追わない。
だが、忘れないように、あの薄い揺らぎを記憶へ刻む。
もう一つ、聞いておかなければならないことがあった。
「兄さん」
「なんだ」
「最後の一撃、どれくらいですか?」
兄が足を止める。
僅かに考えた後、何でもないことのように答えた。
「四割だ。最後だけだがな」
「……あれで四割」
「あいつを斬らず、手甲だけを斬る方が面倒だった」
「今朝は剣も使わずに、俺を三度転がしました」
「よく覚えてるじゃないか」
「忘れるわけがない」
「なら、明日は一度くらい転がし返してみろ」
「いずれ必ず」
兄が小さく笑い、再び歩き出す。
俺は自分の掌を見る。
昨日までは、刀を振るうために身体へ刻み込んだ癖を、捨てなければならないと思っていた。
だが、捨てる必要はない。
刀を振るうために覚えた足運びも、腰の使い方も、力を切っ先まで届けてきた感覚も、今の俺の中に残っている。
刀が折れても、俺が振り続けてきた時間まで折れたわけではない。
ならば、作り直せばいい。
刃へ届けていた力を、今度は拳へ。
俺自身の手で、もう一度。
明日、俺は再び相手の拳が届く場所へ立つ。




