第61話 拳の届く場所
兄の屋敷を出た俺は、ヴァレリアの後について帝都の通りを歩いていた。
背中や肩には、石畳へ三度叩きつけられた痛みが残っている。歩くたびに僅かに疼いたが、身体を動かせないほどではない。
ヴァレリアは兄への用件だという封書を屋敷の使用人へ預けると、振り返ることなく先を歩いていく。
『随分と平気そうな顔をしているけれど、背中は痛くないの?』
「痛いに決まってるだろ」
『三回も転がされたものね』
「数えなくていい」
腰へ吊るしたセレスへ小さく答え、周囲へ視線を向ける。
朝の帝都には、剣や槍を携えた者たちの姿が多かった。
仕事へ向かう職人と並び、鍛錬着を身につけた男女が大通りを歩いている。路地の奥からは、金属同士が打ち合う音や、地面を踏み鳴らす音が途切れることなく響いていた。
王国でも騎士や冒険者を見かけることは珍しくない。
だが、この国では武器を持つことも、身体を鍛えることも、さらに生活へ深く根づいているように見える。
「帝都には、修練場がいくつあるんですか」
「元老院が管理する公営のものだけでも、区画ごとに一つはあります。そのほかに流派や個人が所有している場所もありますから、正確な数は私にも分かりません」
「それだけ利用する人がいるということですか」
「帝国では、武を磨いた結果がそのまま立場へつながります。元老院の議席すら、例外ではありません」
ヴァレリアの言葉に、兄の姿を思い浮かべる。
王国から帝国へ渡り、今では元老院第十席にまで上り詰めた。
血筋でも、家名でもない。
兄は己の実力だけで、帝国の中枢へ座る権利を手に入れた。
「着きました」
ヴァレリアが足を止める。
目の前には、赤褐色の石壁に囲まれた大きな建物があった。
広く開かれた門の先には、いくつもの鍛錬場が並んでいる。剣を打ち合う者、弓を引く者、砂袋へ拳を叩き込む者。奥には魔法の使用を想定した、分厚い防壁に囲まれた区画も見えた。
利用者の年齢も、身につけている服も様々だ。
裕福そうな者の隣で、仕事着姿の男が槍を振っている。身分や出身を問うよりも先に、何を扱い、どれほど強いのかを見ている。
帝国らしい光景だった。
受付を済ませたヴァレリアは、人の少ない鍛錬場の一角へ俺を案内した。
石畳ではなく、細かな砂を混ぜた土が敷き詰められている。転倒や投げを想定した場所なのだろう。
俺は腰の片手剣とセレスを外し、壁際の長椅子へ置いた。
「一つ、確認してもよろしいですか」
「はい」
「先ほどは、帝都の修練場へ連れていくと仰っていました。ヴァレリアさんが体術を教えてくださるわけではないんですか」
「そのつもりはありません」
「随分とはっきり言いますね」
「私は槍使いです。拳や蹴りを専門とする者ではありませんから、あなたへ体術を教えることはできません」
ヴァレリアは腰の後ろから、黒い金属筒を取り外した。
中央部を握り、魔力を流す。
三度の金属音とともに柄が伸び、折り畳まれていた穂先が展開する。長槍へ戻った武器を片手で持ち、石突きを地面へ下ろした。
「ただ、槍でも剣でも拳でも、最初に必要なものは変わりません」
石突きが土の上を滑り、一本の線を描く。
「まずは、自然に構えてみてください」
言われたとおり、ヴァレリアの正面に立つ。
腰を落とし、身体を僅かに半身へ向ける。右拳を前へ、左手を脇へ引いた。
「それが、あなたにとって自然な構えなのですね」
「何かおかしいですか」
「拳の形に大きな問題はありません。ただ、やはり立っている場所が遠すぎます」
ヴァレリアが長槍の石突きで、俺の足元を示す。
続けて、先ほどより内側へもう一本の線を引いた。
二本の線の間には、一歩に満たない距離がある。
「外側が、今のあなたが選んだ場所です。腰に刀があるのなら、ここからでも相手へ刃を届かせられるのでしょう」
石突きが内側の線へ移る。
「ですが、拳で触れようとするなら、ここまで入らなければなりません」
俺は内側の線まで進み、ヴァレリアとの距離を確かめる。
近い。
腕を伸ばせば、確かに拳が届く。
だが、同じようにヴァレリアの手も俺へ届く距離だった。
「俺の拳が届くということは、相手の拳も届きます」
「ええ。拳だけで戦うのなら、その事実から逃げることはできません」
「相手の攻撃圏へ、自分から入る必要があると」
「正確には、攻撃圏へ入った後も立ち続ける必要があります。触れることだけを考えて体勢を崩せば、先に倒れるのはあなたですから」
ヴァレリアは長槍を片手で持ったまま、空いている右手を胸の高さへ掲げた。
掌が、こちらへ向けられる。
「今日の課題は、私の掌へ一歩で触れることです。ただし、触れた後も体勢を崩してはいけません」
「拳を打ち込むのではなく?」
「触れるだけです。あなたの言う《瞬》を含め、身体強化も禁止します。」
「技以前の問題ということですか」
「はい。まずは、武器を持たずに立つところから始めましょう」
俺は一度息を吐き、ヴァレリアの掌を見据えた。
最初に立った外側の線から地面を蹴る。
一歩目で距離を詰め、右手を伸ばす。
指先が掌へ届く前に、ヴァレリアは手を下ろした。
「今ので二歩です」
「まだ一歩しか踏み出していません」
「もう一歩なければ、私へ触れられなかったでしょう?」
否定できなかった。
一歩目は、拳を打つための踏み込みではない。
刀の間合いから拳の間合いへ移動するためだけの一歩だった。
「最初から、内側の線へ立ってください」
指示に従い、距離を縮める。
先ほどよりもヴァレリアの姿が大きく見えた。
身体を半身へ向け、左腰を後ろへ引く。
右拳を伸ばそうとした瞬間、長槍の石突きが左手を軽く叩いた。
「何を掴もうとしたのですか」
視線を落とす。
俺の左手は、何もない腰へ添えられていた。
長椅子へ置いた片手剣の鞘を、無意識に押さえようとしていたらしい。
「もう一度です」
構え直し、右手を伸ばす。
左手を腰へ下げないことへ意識を向けたせいで、今度は肩へ余計な力が入った。
掌へ触れようと上体を傾けた瞬間、ヴァレリアの指先が胸元を押す。
踵が浮き、俺は慌てて後ろへ足をついた。
「体勢が崩れています」
「……もう一度お願いします」
再び構える。
踏み込みと同時に右肩を入れる。
届かない。
さらに身体を前へ出そうとすると、また左手が腰へ下がった。
構え直す。
今度は近づきすぎ、ヴァレリアが半歩横へ動いただけで目標を見失った。
何度繰り返しても、一歩で触れることができない。
届いたときには体勢を崩し、体勢を保とうとすれば指先が僅かに足りなかった。
次の踏み込みへ備え、水属性の魔力を全身へ巡らせようとする。
「魔力による身体強化は禁止です」
「まだ使っていません」
「使おうとはしましたね」
ヴァレリアは僅かに目を細めた。
「速さで余分な一歩を補えば、また剣の間合いへ戻るだけです。今は、遅くても正しい場所へ立つことを優先してください」
「……分かりました」
魔力の流れを止め、呼吸を整える。
魔法も技も使わず、ただ一歩を踏み出す。
それだけのことが、これほど難しいとは思わなかった。
『あら。拳で戦うというのは、随分と窮屈なのね』
「近すぎるんだ」
『本当にそうかしら』
長椅子へ置かれたセレスから、どこか楽しげな声が届く。
『あなたが、遠くへ立とうとしているだけではなくて?』
ヴァレリアとの間に引かれた二本の線を見る。
俺が自然に選んだのは、外側の線だった。
拳を構えていながら、身体は刀が届く距離を求めていた。
内側へ入れば、相手の拳も届く。
刀がない状態で、その場所へ立つことを身体が拒んでいる。
恐れているつもりはなかった。
それでも無意識のうちに、刀の長さが作っていた空間を求めていた。
「もう一度、お願いします」
内側の線へ立つ。
今度は、すぐに拳を伸ばさない。
刀を振るうときも、腕だけで斬っていたわけではなかった。
足の裏で地面を捉え、膝と腰を動かし、背から肩へ力を通す。その最後に腕が続き、刀の切っ先へ力が届く。
刀を失っても、積み重ねてきた身体の動きまで消えたわけではない。
ならば、最後にあるものを変えればいい。
刃ではなく、拳へ。
ただし、刀の長さがないのなら、その分だけ最初に立つ場所を変える。
拳を強く握り込むのをやめる。
左手を腰へ下げず、身体の前へ残した。
ヴァレリアの掌ではなく、足元の線を見る。
ここから逃げない。
相手の攻撃が届く場所へ、最初から立つ。
地面を踏む。
一歩。
身体が前へ運ばれ、腰、背、肩、腕が遅れることなく続く。
伸ばした右手の指先が、ヴァレリアの掌へ触れた。
次の瞬間、ヴァレリアの左手が俺の肩を押す。
身体が僅かに揺れる。
それでも足を動かさず、地面を踏み締めた。
後ろへ倒れることも、前へ崩れることもない。
「ようやく、拳が届く場所へ立てましたね」
「拳を打ったわけではありませんが」
「今日の目的は、打つことではありません。そこへ立つことです」
俺は触れていた手を戻し、自分の足元を見る。
たった一歩。
それだけで、先ほどまでとは立っている場所が違って見えた。
「一度だけです」
「その一度を、身体が考えずに選べるまで繰り返してください」
『随分と地味な修行ね』
「こういうのは嫌いじゃない」
『知っているわ。あなた、同じことを何度も繰り返すのが好きだもの』
再びヴァレリアの掌へ向けて踏み込む。
今度は成功したときの動きを意識しすぎ、肩が先に出た。
ヴァレリアに胸元を押され、足が後ろへ下がる。
「今ので、また剣士の間合いへ戻りました」
「……もう一度お願いします」
その後、一度目と同じように立つことはできなかった。
日が傾き始めるまで繰り返しても、成功したのは最初の一度だけだった。
それでも、失敗するたびに何が違うのかを考えた。
足の位置。腰の向き。肩の力。左手が腰へ下がる瞬間。
刀を振るうために身体へ刻み込んだものを、一つずつ確かめていく。
捨てるためではない。
何も持っていなくても使える形へ、作り直すために。
鍛錬を終えたヴァレリアは長槍へ流していた魔力を止めた。
穂先が折り畳まれ、長い柄が三段階に縮む。前腕ほどの金属筒へ戻った武器を、腰の後ろへ固定した。
「今日はありがとうございました」
「礼を言うのは、先ほどの一歩を再現できてからにしてください」
「厳しいですね」
「私はあなたの師ではありません。教えられるのは、ここが入口だということだけです」
ヴァレリアは地面へ残る内側の線を、靴先で示す。
「技を学ぶ相手が見つかるまで、まずはこの距離へ立つことを身体へ覚えさせてください」
「分かりました」
長椅子へ置いていたセレスを腰のいつもの場所へ吊るし、古い片手剣を差す。
一度も抜かなかった剣の重みが、朝とは僅かに違って感じられた。
拒絶したいわけではない。
今はただ、この剣へ頼らずに立つ方法を覚えたい。
修練場の門前でヴァレリアと別れ、兄の屋敷へ戻る。
剣を振っていないにもかかわらず、脚と肩には重い疲労が溜まっていた。
『今日は一度も剣を振っていないのに、随分と疲れているわね』
「立ち方から変えようとしてるんだ。当然だろ」
『でも、一度は届いたわ』
「次にできなければ、できたとは言えない」
『相変わらず、自分には厳しいのね』
「一度で満足していたら、兄さんを転がせないからな」
『目標はそこなの?』
セレスの呆れた声を聞き流し、屋敷の扉を開ける。
玄関には、見覚えのない男が立っていた。
帝国の紋章が縫い込まれた灰色の制服。腰に武器はなく、両手で細長い金属箱を抱えている。
俺の姿を確認した使用人が、静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ。第十席は応接室にいらっしゃいます」
「客人ですか」
「元老院からの使者です」
使者という男が、俺へ一礼する。
その表情に親しみはなく、何かを伝えに来ただけとは思えない緊張があった。
俺は男の後について応接室へ入った。
兄は長椅子へ腰掛けていた。
目の前の卓上には、金属箱から取り出された一枚の書状が広げられている。
兄の正面へ立った使者が、抑揚のない声で告げた。
「元老院の審査により、挑戦資格を得た者から、第十席へ正式な指名がありました」
帝国の元老院議員は、議席を得れば終わりではない。
規定を満たし、挑戦資格を得た者は、現職の元老院議員を一人選んで試合を申し込むことができる。
拒否することは、席を守る意思がないと見なされる。
実力によって得られる席だからこそ、実力によって奪われる可能性も常に存在していた。
兄が書状へ視線を落とす。
そこに記された一文を読み、僅かに眉を動かした。
「帝国の元老院に、よそ者が座り続けることを認めない――か」
思わず拳を握る。
兄が帝国の生まれではないことを理由に、第十席を指名したのだ。
「兄さん」
「口を挟むな」
兄は書状から顔を上げないまま、俺を制した。
「こいつは正式に挑戦権を得て、俺を選んだ。それだけだ。理由が気に入らないからといって、規則まで曲げるつもりはない」
「しかし――」
「帝国では、気に入らない相手から実力で席を奪うことも認められている。俺も、それを承知でここへ座っている」
兄は使者から差し出された筆を受け取った。
迷うことなく書状へ署名し、卓上へ戻す。
「受けよう」
「確かに承りました。試合は明日の正午、元老院闘技場にて執り行われます」
「分かった」
使者は書状を金属箱へ収め、俺たちへ一礼して部屋を出ていった。
扉が閉じる。
兄は何事もなかったかのように立ち上がり、窓際へ向かった。
「明日の修練は休め」
「今日始めたばかりですよ」
「だからだ。元老院闘技場へ来い」
「俺に、兄さんの試合を見ろと?」
「ああ」
兄の視線が、壁へ立てかけられた長剣へ向けられる。
祖父や俺が使っていた刀とは異なる、両手で扱うことを前提とした長大な剣。
今朝、兄はあの剣を抜くことなく俺を三度地面へ転がした。
だが、元老院第十席として戦う兄の剣を、俺はまだ見たことがない。
「なぜ、今の俺に?」
「今のお前には、一度見せておく必要がある」
「何をですか」
「見れば分かる」
兄はそれ以上答えず、長剣を手に取った。
挑戦者と戦うのは兄だ。
それなのに、その言葉だけは俺へ向けられているように感じた。
刀を失い、新しい戦い方を求めている俺に、兄は何を見せようとしているのか。
その答えを、俺はまだ知らなかった。




