第60話 拳は未だ武器にあらず
翌朝。
帝都の丸屋根の向こうから昇った朝日が、兄の私邸にある鍛錬場へ斜めに差し込んでいた。
石畳には夜露が僅かに残っている。けれど、その中央に立つ兄の額には、すでに薄く汗が浮かんでいた。
俺が訪れる前に、自分の鍛錬を終えていたらしい。
昨日振るっていた大剣に近い長剣は、鍛錬場の端にある武器掛けへ置かれている。
「時間どおりだな」
「兄さんは、もう一通り終わったんですか」
「自分の鍛錬はな。これからお前を転がす」
「……昨日から、それを随分楽しみにしていませんか」
「気のせいだ」
絶対に気のせいではない。
俺は抱えていたセレスを柱廊の長椅子へ置き、左腰の片手剣が動かないよう帯を締め直した。
『頑張ってね。何度転がされるか、数えておいてあげるわ』
「勝手に負けることにするな」
『昨日の二人の会話を聞いていたら、そう思うでしょう?』
セレスへ言い返すのを諦め、鍛錬場の中央へ向かう。
兄は俺の腰にある片手剣を一瞥した。
「剣は抜くな。腰に差したままでいい」
「兄さんも素手ですか」
「剣を持たなければ、お前に勝てないとでも思ったか?」
「そこまでは言っていませんよ」
「武器と攻撃魔法は禁止する。魔力による身体強化は好きに使え」
「兄さんは使わないんですか」
「必要ない」
兄は両腕を下ろしたまま、自然に立っている。
拳を構えるわけでもなければ、腰を深く落としてもいない。一見すれば隙だらけに見えるのに、どこから踏み込んでもこちらが先に崩される予感があった。
「随分と余裕ですね」
「そういう台詞は、一度でも俺に触れてから言え」
小柄な体格から発せられる圧力が、一段階強まった。
帝国へ来てから、兄がどれほど鍛錬を重ねてきたのか。それを確かめるために来たわけではない。
だが、ここまで言われて黙って転がされるつもりもなかった。
「では、遠慮なくいきます」
水属性の魔力を全身へ巡らせる。
思考から神経へ。
神経から筋肉へ。
身体を動かそうとする意思と、実際に四肢が動き出すまでに生じる僅かな遅れ。その間へ水の流れを作り、一つにつなぐ。
――魔力身体強化《瞬》。
足裏が石畳を蹴る。
身体が前へ傾くよりも早く、景色が後方へ流れた。
兄との距離が一息に消える。
最短距離を走らせた右拳が、兄の胸元へ迫る。
その瞬間、兄の目が僅かに見開かれた。
半歩だけ外へ逃れるつもりだった足が、さらに一歩退く。
初めて見せた反応。
拳が届く。
そう確信した直後、兄の左手が俺の手首へ触れた。
掴まれたわけではない。
拳の軌道を僅かに外側へずらされ、そのまま肘を押し上げられる。
加速していた身体が止まらない。
兄は俺の懐へ入り、腰を落とした。
肩口を支点に身体が浮き上がる。
何が起きたのか理解するより早く、背中から石畳へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
肺から空気が押し出される。
痛みよりも先に、青空が視界いっぱいに広がった。
「速いな」
「……だったら、どうして避けられるんですか」
「拳が動き出す前に、お前の目と右肩が全部教えていた」
兄が俺を見下ろす。
「最初の半歩では足りなかったがな」
「少し驚きましたか」
「少しだけだ。嬉しそうにするな」
差し出された手は借りず、自分の力で立ち上がる。
兄の言葉どおり、拳を放つより前に狙う場所を見ていた。肩にも余計な力が入っていたのだろう。
《瞬》によって動き出しは早くなった。
だが、拳を打つ前の動作まで消えたわけではない。
「もう一度お願いします」
「好きにしろ」
今度は一撃で決めようとせず、三つの基本行為をつなぐ。
呼吸を整え、兄の胸元へ視線を置いた。
狙いを悟らせないまま踏み込み、左拳を顔の正面へ突き出す。
《突く》。
兄が上体を傾け、拳をかわす。
すぐに踏み足を軸として腰を回し、右手を上段から振り下ろす。
《叩く》。
兄は前腕を僅かに上げ、俺の手を外へ滑らせた。
そのまま掌が胸元へ伸びてくる。
俺は振り下ろした右腕を引き、左腕を内側からぶつけた。
《弾く》。
しかし、触れる寸前で兄の掌が止まった。
反撃ではない。
俺に《弾く》を使わせるための誘いだった。
止まった左腕の下を兄の右手が潜り抜ける。上腕を掴まれた直後、爪先で足首を払われた。
傾いた身体を支えようとしたところへ、肩を押し込まれる。
再び視界が反転した。
今度は横向きに石畳へ転がされる。
「今の三つは何だ」
「《突く》《叩く》《弾く》の基本です」
「一つずつの形は覚えているらしいな」
兄は追撃せず、転がった俺を見下ろしていた。
「だが、三つの技ではない。覚えた行為を順番に並べただけだ」
「つなげようとはしました」
「《突く》を終えてから《叩く》へ移り、《叩く》を止めてから《弾く》を構えた。相手が一つの動作を終えるまで、待ってくれると思うのか」
言い返すことができない。
刀を握っていた頃なら、《刀技流転》によって斬撃から突き、弾きへと動作をつなげることができた。
一つの技が終わる前に次の技へ移り、途切れることなく刀を振るい続ける。
だが、今の両手にはそれがない。
「刀なら、つながるんだろうな」
兄は俺の考えを見透かしたように告げる。
「ですが、今は刀を使わずに――」
「なら、今のお前の手に刀はあるのか?」
何も答えられなかった。
土埃を払い、もう一度立ち上がる。
二度も地面へ転がされた。それでも、まだ何も試せていない。
《瞬》だけでは足りない。
動作と動作の間へ入られるのなら、その隙を生まないほどの力で押し切る。
水属性の魔力を全身へ巡らせたまま、火属性の魔力を右腕と両脚へ集める。
『レグルス、二つを重ねるつもり?』
「ああ」
水の流れによって動き出しを早め、火の爆発力を拳へ乗せる。
まだ技と呼べるものではない。
それでも、二つの魔力操作が正しく重なれば、兄の技術を力で突き破ることはできる。
腰を落とし、地面を強く踏み込む。
兄との距離を測り、右拳を引いた。
同時に、左手が腰へ下がる。
指先が片手剣の鞘へ触れた。
親指が鍔へ掛かる。
そのことに気づいたときには、兄の姿が目の前から消えていた。
「――遅い」
右腕の内側を掌で打たれ、溜め込んでいた火属性の魔力が散る。
兄の肩が胸元へ入り、前へ進もうとしていた勢いを真上へ向けられた。
踵で足を刈られる。
背中が石畳へ落ちるより先に右腕を取られ、兄の膝が肩口を押さえ込んだ。
全身へ巡らせていた《瞬》も、動かせる場所がなければ意味を持たない。
「終わりだ」
「……まだです」
「なら、その右手で何をする」
「拳を打ちます」
「違うな」
兄の視線が、俺の左手へ向けられる。
その指は今も、腰に差した片手剣の鞘を強く掴んでいた。
「拳を振り抜く前、お前の左手は鞘を押さえた」
力を抜いた途端、指が鞘から離れた。
意識して触れたわけではない。
刀を抜くとき、何度も繰り返してきた動作。
身体へ刻み込まれた癖が、考えるより先に現れていた。
「お前の手は、まだ刀を探している」
兄が腕を離し、立ち上がる。
今度はすぐに起き上がれなかった。
拳を使おうとしても、身体は刀を振るうための動きを選ぶ。
間合いを測り、左腰へ手を添え、右手で柄を掴もうとする。
刀がなくても戦うために帝国へ来た。
だが、俺の身体は未だに、刀を失ったことを受け入れていない。
『三回ね』
「数えなくていい」
『言ったでしょう。数えておいてあげるって』
セレスの声に小さく息を吐き、身体を起こす。
兄は腕を組み、俺の立ち姿を確認していた。
「最初の踏み込み。あれは普通の身体強化ではないな」
「水属性の魔力を全身へ巡らせて、神経から筋肉へ伝わる命令の流れを早めています。魔力身体強化《瞬》と名づけた魔力操作です」
「風属性とは違うのか」
「風属性もありますが、風属性の《速》は身体そのものの速度を引き上げます。水属性の《瞬》は、考えてから身体が動くまでの遅れを縮めるものです」
「なるほど。だから初動だけが異様に速かったのか」
兄は僅かに目を細める。
「最後に重ねようとしたのは火属性だな」
「《剛》です。火属性の魔力で、踏み込みや拳を打つ瞬間の爆発力を引き上げます」
「二つを同時に使ったのか」
「そのつもりでした」
「拳を打つ前に転がったがな」
「……本当に遠慮がないですね」
「事実を言っただけだ」
兄は俺の周囲をゆっくりと歩き、足運びや肩の位置を確かめていく。
「《瞬》は悪くない。最初の一歩は俺も見誤った。魔力操作も以前より細かくなっている」
「珍しく褒めますね」
「最後まで聞け。足腰も鍛えられている。身体の軸も悪くない。《突く》《叩く》《弾く》も、形だけなら間違ってはいない」
兄の足が、俺の正面で止まる。
「だが、お前は三つの行為を覚えただけだ。それを戦い方とは呼ばない」
厳しい言葉だった。
けれど、否定することはできない。
「《瞬》は、正しい動きを早めれば強力な武器になる。今のお前が使えば、間違った動きまで早めるだけだ」
兄の視線が、俺の拳へ落ちる。
「今のお前は、刀を失った剣士だ。武闘家ではない。その拳も、まだ武器にはなっていない」
無意識に両拳を握り締める。
獅子宮第三階層で、確かに体術の基本行為を手に入れた。
けれど、それは戦い方を得たという意味ではなかった。
刀を握ったときと同じように、数え切れないほど繰り返し、自分の身体へ刻み込まなければならない。
「でしたら、兄さんが教えてくれませんか」
「断る」
「即答ですか」
「俺の歩法も、崩しも、投げも、この身体と剣を最大限に生かすために組み上げたものだ。お前が真似ても歪むだけだ」
「人を散々転がしておいて、それですか」
「欠点を見つけることと、それを直すことは別だ」
「兄さんは昔から――」
「私も同感です」
聞き覚えのない女性の声が、鍛錬場の外から割り込んだ。
柱廊の影から、一人の女性が姿を現す。
長い髪は黒に近い濃紺。すらりとした長身に、動きやすそうな白いブラウスと、厚手の青い生地で仕立てられた八分丈のパンツを身につけている。
靴も踵が低く、華美な装飾はない。
武器らしいものは見当たらなかった。
ただ、腰の後ろに前腕ほどの長さをした黒い金属筒が、横向きに固定されている。
「いつから見ていた」
「二度目に、弟君が地面へ転がされたあたりからです」
『一番見られたくないところからね』
セレスの声を聞き流し、女性へ向き直る。
兄が俺たちの間へ視線を向けた。
「弟のレグルスだ。こっちはヴァレリア・アークシェルド」
「初めまして。レグルス・クレハルトです」
「ヴァレリアです。元老院第十席へ用があって伺ったのですが、少し早く着いてしまいまして」
ヴァレリア・アークシェルド。
その家名は知っている。
クレハルトと同じく、武によって長い歴史を紡いできた四名家の一つ。帝国では、長槍の技を受け継ぐ家でもある。
「見ていたのなら、お前はどう思う」
「率直に申し上げても?」
「構わん」
ヴァレリアは腰の後ろから黒い金属筒を外した。
中央部を握り、僅かに魔力を流す。
乾いた金属音が三度重なった。
筒状だった柄が前後へ伸び、先端から折り畳まれていた穂先が展開する。接合部分に刻まれた術式が淡い青白い光を放ち、それぞれの部品を強固に固定した。
前腕ほどの金属筒が、彼女の身長を大きく超える一本の長槍へ変わる。
長柄武器を携行するために帝国で生み出された《縮装式》。
使い手を補助するものではない。
武器を持ち運びやすくするためだけに、魔導技術を発展させた機構だ。
ヴァレリアは穂先をこちらへ向けることなく、石突きで俺の足元を示した。
「身体はよく鍛えられています。魔力の流れも見事です。ただ――」
石突きが石畳を滑り、俺の前へ一本の線を描く。
「あなたは拳を構えているのに、立っている間合いは剣士のままですね」
「剣士の間合い……」
「左腰から武器を抜くための空間を残し、半身になって相手との距離を測っている。剣を持っているのなら、それで正しいのでしょう」
石突きが、俺と兄の間にあった距離を示す。
「ですが、拳は剣より短い。その立ち方から相手へ拳を届かせるには、必ず余分な一歩が必要になります」
最初の手合わせを思い返す。
《瞬》によって一歩をどれほど早めても、兄との間にあった距離そのものが消えたわけではない。
だから兄は、俺の拳を避けた直後には必ず懐へ入っていた。
「先ほどのお話では、魔力身体強化《瞬》というのですね。その《瞬》は、踏み込みの一歩を早めていました。しかし、必要な一歩そのものを消してくれるわけではありません」」
「……そのとおりです」
「拳で戦うのなら、拳が届く場所へ立つ必要があります。あなたはまだ、剣を抜ける場所に立とうとしている」
兄の言葉とは違う角度から、同じ欠点を突きつけられた。
俺の身体は動きだけではなく、立っている場所まで刀を基準にしている。
「俺より分かりやすい説明だな」
「兄さんは、説明する気がなかっただけでしょう」
「転がした方が早い」
「ったく……」
思わず昔のような口調が漏れる。
兄はそれを聞かなかったことにして、ヴァレリアへ顔を向けた。
「ヴァレリア。こいつを帝都の修練場へ連れていってくれ」
「私がですか?」
「外から来た者が、体術を基礎から学べる場所はお前の方が詳しい」
ヴァレリアはすぐには答えず、俺の左腰へ視線を向けた。
昨日、兄から受け取った古い片手剣。
鞘へ収まったままのそれを見つめた後、俺の顔へ視線を戻す。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「剣士であることを捨てたいのですか」
「いいえ」
迷うことなく答えた。
「刀を振ることをやめるつもりはありません。俺が積み重ねてきたものまで、捨てるつもりはないです」
「では、なぜその剣を抜かないのですか」
「刀を失っただけで、何もできなくなる自分を変えたいからです」
腰の片手剣へ左手を添える。
今は、まだ抜くことができない。
それでも、この重みを拒絶するつもりはなかった。
「刀がなくても立ち続けられる力が欲しい。そのために、帝国へ来ました」
ヴァレリアは僅かに目を細めた。
やがて長槍へ流していた魔力を止める。
術式の光が消え、穂先が折り畳まれた。長い柄も金属音とともに三段階で縮み、再び前腕ほどの黒い金属筒へ戻る。
「分かりました」
金属筒を腰の後ろへ固定し、ヴァレリアは柱廊の出口へ向かう。
「ついてきてください。まずは技を覚えるより先に、武器を持たずに立つところから始めましょう」
俺は長椅子へ置いていたセレスを抱え、いつもの場所へ吊るし直し、服についた土埃を払った。
『三回も転がされたのに、昨日より顔がすっきりしているわね』
「足りないものが分かったからな」
『あら。少しは前向きになったみたいね』
ヴァレリアの後を追う前に、一度だけ振り返る。
兄はすでに武器掛けから剣を取り、朝の鍛錬を再開しようとしていた。
「兄さん」
「なんだ」
「次は必ず、俺が兄さんを転がしますから」
「まずは一度、まともに立てるようになってから言え」
言い返す言葉が見つからない。
俺は兄へ背を向け、ヴァレリアの後を追った。
《瞬》を得た。
三つの基本行為も手に入れた。
それでも、俺の拳は未だ武器にはなっていない。
ならば、ここから始めればいい。
刀を抜くよりも前に。
何も持たない、この両の手で立つところから。




