第57話 空の手に刻む
翌朝、目を覚ました瞬間、身体のあちこちが悲鳴を上げた。
肩や腕だけではない。背中、脇腹、腰、太腿の内側まで、普段とは違う鈍い痛みが残っている。
刀を振り続けた翌日とは、痛む場所がまるで違った。
寝台の上で右手を開き、ゆっくりと握る。
拳を作るだけで、昨日、姉に何度も石床へ転がされた感覚が蘇った。
それでも身支度を整えると、俺の足は自然と訓練場へ向かっていた。
「遅いわね」
訓練場へ入った途端、姉の声が飛んできた。
すでに身体を温め終えていたらしく、腕を組んでこちらを待っている。
「約束の時刻より前だ」
「私より後に来たでしょう?」
「姉さんが早すぎるだけだ」
「口は元気そうね。安心したわ」
姉が僅かに口元を緩め、訓練場の中央へ歩いていく。
俺も後を追い、昨日教わった構えを取った。
足を肩幅より僅かに広く開き、重心を中央へ置く。
両手を上げると、肩から背中にかけて痛みが走った。
「先に言っておくけれど、私は無手の専門家ではないわ」
「昨日、俺を散々転がした人間の台詞とは思えないな」
「あなたの癖を知っているからよ。刀を振るうときに、どこへ重心を移すのか。攻撃の前に、どちらの足へ力を込めるのか。小さい頃から何度も見てきたもの」
姉が俺の正面で構える。
「本格的な武術は教えられない。でも、身体の使い方と基礎なら教えられるわ」
「それで十分だ」
「なら、今日は空の手で何ができるのか、そこから覚えなさい」
姉が一歩踏み込んだ。
突き出された掌が、真っ直ぐ胸元へ迫る。
咄嗟に両腕を交差させ、掌を受け止めた。
重い衝撃が腕を抜け、上半身が大きく仰け反る。そのまま押し込まれ、二歩、三歩と後退した。
「受け止めない」
「先に言ってくれ」
「実戦で相手が教えてくれると思っているの?」
姉は悪びれる様子もなく、再び掌を構えた。
「もう一度よ。今度は、触れた瞬間に軌道を外しなさい」
再び掌が放たれる。
俺は左手を添え、外側へ押し返そうとした。
だが、力を込めた瞬間、姉の腕が俺の手へ絡みつく。手首を掴まれ、重心を前へ引き出された。
視界が反転する。
次の瞬間には、背中から石床へ叩きつけられていた。
「押し返してどうするのよ」
「軌道を外せと言っただろう」
「相手の力と競えとは言っていないわ。《弾く》のは、受け止めることでも押し返すことでもない。必要なだけ触れて、向きを変えるの」
姉が手を差し伸べる。
その手を取り、身体を起こした。
「刀で攻撃を弾くときと同じよ。違うのは、刃ではなく掌や腕で触れることだけ」
「触れる距離が近すぎる」
「だから怖いのよ。読み違えれば、そのまま攻撃を受けるもの」
姉の言葉に、第三階層の騎士人形が脳裏に浮かぶ。
あの騎士人形は、俺の攻撃を受け止めてはいなかった。
拳や腕へ僅かに触れ、力の向きを変え、そのまま俺の身体を崩していた。
姉が軽く拳を握る。
「拳と肘は《突く》。掌、肘、膝、踵は《叩く》。掌や腕で攻撃の軌道を外すのが《弾く》。あなたが刀を通して繰り返してきた基本行為は、無手でも使えるわ」
「《斬る》は?」
姉が一瞬だけ黙り、俺の目を見た。
「それは、刀を握ったときに使えばいいでしょう」
あまりにも当然のように返された言葉に、胸の奥に残っていた何かが僅かに解けた。
斬るという行為まで、この手で代用する必要はない。
無手を覚えることは、これまで積み重ねたものを捨てることではない。
今の俺に足りないものを、新しく積み上げるだけだ。
「始めるぞ」
「ええ。まずは、私の掌を一度でもまともに弾いてみなさい」
「一度でいいのか?」
「今のあなたには、一度でも難しいわよ」
姉の言葉どおり、その日は一度も成功しなかった。
◇
それから数日間、同じような鍛錬が続いた。
朝は姉との組手。
拳を放てば軌道を逸らされ、掌で弾こうとすれば腕を取られる。足元へ意識を向ければ上半身を崩され、上半身を守れば足を払われた。
姉が訓練場を離れた後も、俺は一人で同じ動きを繰り返した。
踏み込む。 腰を回す。拳を放つ。
腕の力で殴るのではなく、石床を蹴った力を脚から腰へ、腰から肩を通して拳へ伝える。
拳を引けば、次は掌。
掌から肘へ繋ぎ、重心を落として膝を上げる。
一つずつなら形になる。
だが、動きを繋げようとした途端、長年身体へ刻み込んできた癖が顔を出した。
右手は腰元へ下がり、左手は鞘を押さえようとする。
拳の届く距離を越えて踏み込み、存在しない切っ先へ力を伝えようとしてしまう。
そのたびに動きを止め、足の位置からやり直した。
『拳を放って終わりではないわ』
夜になると、宿の部屋でセレスとともに魔力の流れを確認した。
椅子へ腰掛け、目を閉じる。
身体の中心にある魔力を脚へ流し、踏み込みとともに腰へ戻す。背中から肩を通し、拳へ送り込む。
拳へ届いた魔力は、そこで散ってしまった。
「拳まで届いている。それでは駄目なのか?」
『それでは循環とは言わないでしょう? 行き止まりへ魔力を押し込んでいるだけよ』
「戻すのか」
『ええ。打ち込んだ後は肩へ戻し、身体の中心を通して次の動きへ渡すの。騎士人形は、それを水属性の性質で自然に行っていた』
「俺には水属性がない」
『だから、属性を真似る必要はないわ。あなた自身の魔力が途切れない道を探しなさい』
再び体内へ意識を沈める。
右拳へ魔力を送り、肩へ戻そうとする。
だが、魔力は腕の途中で不自然に向きを変え、拳の先へ抜けていこうとした。
身体へ深く刻まれた、刀へ繋がる流れ。
それを無理に断ち切ろうとすれば、今度は肩で魔力が滞る。
『消そうとしないで』
「だが、このままでは拳へ力が届かない」
『刀へ続く道を残したまま、別の道を作るのよ。あなたが積み重ねたものと争ってどうするの』
セレスの言葉に従い、魔力を途中で二つに分ける。
一つはこれまでどおりの流れ。
もう一つを、握った拳へ留める。
最初は、僅かに分けることさえできなかった。
拳へ集めすぎれば腕が硬直し、戻そうとすれば肩で流れが途切れる。全身へ広げれば魔力が薄く散り、どこを通っているのか分からなくなった。
それでも、繰り返した。
朝は姉に崩される。
昼は一人で身体を動かす。
夜は魔力が滞る場所を探す。
拳、掌、肘、膝、足。
接触する場所が変わるたび、魔力の通り道も変えなければならない。
《剛》のように、一つの場所へ力を集中させるだけでは繋がらない。
《速》に頼って先に身体を動かせば、魔力の流れが置き去りになる。
途切れなくなったわけではない。
ただ、どこで途切れているのかは分かるようになった。
拳へ送り込んだ魔力を肩へ戻す。
背中から腰へ。 腰から脚へ。
脚で石床を蹴、その力と魔力を再び上半身へ送り返す。
歪で、遅く、何度も途中で止まる。
それでも少しずつ、俺の身体には刀へ続くものとは異なる、新しい流れが刻まれていった。
◇
数日後。
訓練場の中央で向かい合った姉が、右手を持ち上げた。
「今日は条件を変えるわ」
「ようやく、転がされる回数を減らしてくれるのか?」
「私に一度でも触れたら、今日の鍛錬は終わりにしてあげる」
「随分と低く見られたものだな」
「事実でしょう?」
否定できず、俺は構えを取った。
右手を軽く握り、左手は開いたまま前へ出す。
肩から力を抜き、重心を両脚の中央へ置く。
姉の姿が沈んだ。
直後、右の掌が顔面へ迫る。
受け止めるな。
押し返すな。
左手で姉の手首へ触れる。
接触した一点へ力を集め、腰を回す。
《弾く》。
姉の掌が僅かに逸れ、頬の横を通り過ぎた。
初めて、正面から姉の攻撃を捌いた。
だが、驚いている暇はない。
姉は逸らされた腕をそのまま畳み、肘を俺の胸元へ打ち込んできた。
左腕を戻して受ければ間に合わない。
右足で石床を蹴、身体を斜め前へ滑らせる。
肘が脇腹を掠めた。
鈍い痛みを無視し、姉の側面へ回り込む。
右拳を真っ直ぐ放つ。
《突く》。
姉の左手が、俺の拳へ添えられた。
そのまま外側へ流される。
以前なら、拳を弾かれた時点で身体の動きが止まっていた。
今度は、拳へ送った魔力を散らさない。
右肩へ戻し、背中から腰へ。左脚へ流し、さらに半歩踏み込む。
弾かれた右拳を囮にして、開いた左手を姉の肩へ伸ばした。
指先が、姉の上着へ触れる。
その瞬間、左手首を掴まれた。
「なっ――」
足を払われ、身体が宙へ浮く。
受け身を取る間もなく、背中から石床へ落とされた。
肺から息が押し出される。
「触れたぞ……」
苦し紛れに告げると、俺の手首を掴んでいた姉が目を瞬かせた。
やがて、僅かに口元を緩める。
「服に、でしょう?」
「条件に、服は含まれていなかった」
「そういうところだけは抜け目がないわね」
姉が手を離す。
俺は石床へ寝転んだまま、大きく息を吐いた。
攻撃を受け流し、次の動きへ繋げ、初めて姉へ触れた。
それだけだ。
まともな一撃には程遠い。
実戦なら、触れた直後に腕を折られていた。
それでも、昨日までとは違う。
刀の動きを無理に拳へ置き換えたのではない。
自分の身体と魔力で、新しい一連の動きを作ることができた。
「これで合格か?」
「ようやく、組手の入口に立ったところね」
姉が差し伸べた手を掴み、立ち上がる。
「私が教えられるのは、ここまでよ」
「まだ数日しか経っていないぞ」
「基礎の反復なら、もう一人でもできるでしょう。これ以上は、きちんと無手を修めた人間から学びなさい。変な癖がついてからでは遅いわ」
姉は俺の肩に付いた砂を払い、僅かに視線を細めた。
「よく分からないけど、あなたの言うその第三階層を越えて、それでも無手を学ぶつもりなら、帝国へ行きなさい」
「帝国に?」
「王国よりも武を重んじる国よ。自分の身体を武器として磨いている者も少なくない。私より適した相手が見つかるはずだわ」
そこで姉は一度言葉を切った。
「それに、あなたがそろそろ顔を見せるべき相手もいるでしょう?」
「兄さんか」
「さあ、誰のことかしら」
姉は答えず、背を向ける。
その口元が笑っていたことだけは、横顔からでも分かった。
◇
その夜。
俺は再び獅子宮の第三階層へ足を踏み入れた。
石造りの広間は、以前と何一つ変わっていない。
壁面に並ぶ燭台の炎が揺らめき、床へ長い影を落としている。
広間の中央には、無手の騎士人形が立っていた。
両腕を下ろしたまま、微動だにしない。
俺が一定の距離まで近づくと、騎士人形の頭部が持ち上がった。
『準備はいい?』
「ああ」
何も握っていない両手を持ち上げる。
右手を軽く握り、左の掌を前へ出す。
足を開き、重心を中央へ置いた。
騎士人形もまた、音もなく腰を落とす。
胸元で淡い青色の光が灯った。
水面に生まれた波紋のように、青い魔力が胸から肩へ、肩から両腕と両脚へ広がっていく。
流れた魔力は四肢へ留まることなく、再び身体の中心へ戻っていた。
前回は、その意味すら分からなかった。
今なら、僅かに見える。
知覚と判断。魔力と身体。
騎士人形は、そのすべてを水属性によって一つの流れへ繋いでいる。
「来い」
俺の声に応じるように、騎士人形の姿が沈んだ。
青い魔力が右脚へ流れる。
石床が鳴った。
一歩で間合いを消し、騎士人形の掌が胸元へ迫る。
前回は、何をされたのかさえ分からなかった一撃。
今度は見えている。受け止めるな。
左の掌で、騎士人形の手首へ触れる。
力の向きを感じ取る。
《弾く》。
腰を回し、掌の軌道を外側へ逸らした。
完全には流しきれない。
騎士人形の掌が右肩を掠め、装甲越しとは思えない衝撃が身体を揺らす。
それでも、倒れなかった。
騎士人形は逸らされた右腕を引かない。
魔力が肩から背中へ戻り、腰を通って左脚へ流れる。
低い蹴りが、俺の軸足へ放たれた。
胸の奥にある魔力を腰から両脚へ巡らせる。
前足を引くのではなく、重心ごと後方へ運ぶ。
騎士人形の足先が、靴の表面を掠めた。
僅かに生まれた間隙へ踏み込む。
脚から腰へ。腰から肩へ。
右拳へ魔力と力を繋ぐ。
《突く》。
騎士人形の顔面へ拳を放った。
騎士人形は左の掌を添え、俺の拳を外側へ滑らせる。
拳へ伝えたはずの力が、触れた場所から抜き取られた。
流された右腕の内側へ、騎士人形の肘が入り込む。
狙いは脇腹。
拳へ残っていた魔力を肩へ戻す。
背中から腰へ巡らせ、両脚へ繋ぐ。
石床を蹴、後方へ跳んだ。
一瞬遅れて、肘が脇腹を掠める。
鈍い衝撃に身体が傾く。
着地した足が石床を滑った。
それでも踏み留まり、騎士人形から視線を外さない。
三手。
前回は一手目すら凌げなかった。
今度は攻撃を弾き、足払いをかわし、こちらから拳を返した。
騎士人形の身体が止まる。
無機質な顔が、真っ直ぐ俺へ向けられていた。
次の瞬間、その構えが変わった。
前へ出していた片手を僅かに下げ、両方の掌を開く。
胸元を巡っていた青い魔力が強まり、全身を絶え間なく循環し始めた。
『レグルス。気をつけて。さっきまでとは流れが違うわ』
「ああ」
先ほどまでの攻撃は、俺の力を確かめるためのものだった。
ようやく試練へ挑む者として、認められたにすぎない。
右肩と脇腹が痛む。
息も僅かに乱れている。
それでも、両手は下ろさなかった。
まだ、届いてはいない。
だが、もう何もできずに倒されるだけではなかった。
呼吸を整え、空の手を構える。
「ここからだ」
騎士人形が石床を蹴る。
第三階層の試練が、今度こそ始まった。




